おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

道端の歴史遺産 本編 2

2020-10-29 14:53:25 | Weblog

泉涌寺のあたりまで来るとおなかがすいてきます。

平成の終わりごろまで日赤の横に京家というコロッケ屋さんがあり50円のコロッケを売っていました。もうつぶれているかもしれませんが、懐かしい味は消えているのでしょうか。もう一つこの辺で消えてしまったものがあります。

泉涌寺道を西に入ったところに「源氏物語」にある「夢の浮橋」の舞台となったといわれいた場所がありました。現世と浮世を渡る橋があったはずなのですが、昭和には橋のモニュメントが消え平成には石碑が消え今では看板があるだけです。マイナーな聖地は 時代とともに消えていくのでしょう。

東大路を七条に向かって上がっていく(北の御所の方向に歩くことをあがるというのですが、道も緩やかにのぼっています。)と大きな木が見えてきます。平安時代に植えられたという樟です。植えたのは後白河上皇、実はこの神社には曰くがあって花伝書で有名な世阿弥が平清盛の前で初めて能を舞った能舞台があります。

まもなく東大路とJRが交差する陸橋の上に出ます。新幹線で東京から帰ってくるとき、東山トンネルを超え、この陸橋に差し掛かった時に必ずまもなく京都ですというアナウンスが行われる場所ですが、向こうに見える大和大路通の陸橋あたりから京都駅までのあたりで僕が大好きだった「パッチギ」の撮影が行われたそうです。実際の出来事は北区、左京区での出来事を取り扱っているのですが、そのあたりのリアリティは映画には必要ないのでしょうね。この辺りに、隠れた名店があるので紹介しておきます。

一軒目は「ホットケーキの店」、今では「パンケーキ」というらしいですが、甘いものが好きな僕は、「梅花堂のホットケーキ」でした。

二軒目は漬物、柴漬けは大原が有名だし、大安や西利といったピッネームが京都では幅を利かせていますが、観光客相手の土産物の漬物をうまいと思う京都人は意外と少ないと思います。東山では赤尾とニシダ屋がツートップだと思います。その本店が大石街道を東に入ったところにあります。ちなみにこの大石街道は山科の大石神社につながっています。山科の人は西に東山三十六峰をみるのに、西山とは言わず「東山」といいます。この辺りが「山科と伏見は京都と違う」といういこじな思いを持つ京都人がいまだにいる原因なのかもしれません

さて、さらに上っていくと東大路七条の交差点につきます。交差点にある智積院の石段からの眺めはまっすぐに大路が作られたことがよくわかり天気が良ければ西山が見えます。

智積院の横を阿弥陀が峰に向かう坂道があります。京都女子大学があることから「女坂」という名前で呼ばれる坂道です。中腹の大学をさらに上って行くと五百段といわれる石段があり、その頂上に秀吉の墓石があります

時間と体力があれば五百段の階段を一気に登り頂上まで行くことをお勧めします。ただ残念なのは見晴らしはそれほど良くありません。見晴らしを優先するなら円山公園から将軍塚がおすすめのコースです。

阿弥陀が峰から降りて七条通りを西に向かいます。右側に国立京都博物館 左側に三十三間堂が見えてきます。この道も気持ちがいいほどまっすぐです。京都駅前の京都タワーが見えます。

少し国立博物館を覗いていきましょう。三十三間堂は修学旅行等でよく府外の方が来られる場所として有名ですが、意外とその反対側のあたりは見過ごしている場所のようです。

これは上野にあった「ロダンの考える人」と京都の「ロダンの考える人」です。

同じ地獄の門で悩んでいるのに少し違うように感じるのはなぜでしょう。

普段はこのアングルで無人の写真は撮れません。ラッキーな一枚です。

巨石フェチにはたまらないさわれる遺構があるのがいいですね

博物館の西側にある大和大路通りを上がると右手に豊国神社この辺りは 豊臣秀吉ゾーンで豊国神社の前の道は正面通り、伏見桃山時代はまさに秀吉の時代だと感じさせる地名がこの辺り一面にある

本瓦町 鞘町 馬町等々、そしてお隣が「国家安康」で家康に難癖をつけられたことで有名になった方広寺、でも地元では、気持ちの悪い不細工な大仏があったお寺ということのほうが有名。木造で奈良の大仏より大きな秀吉に似た大仏を作らせたのだが何度か焼けてしまったことに由来するらしい。なぜ、秀吉は阿弥陀が峰に墓を作ろうとしたのか。天皇家の菩提寺、泉涌寺のある隣の峰に墓を作るということは天皇と同じだというアピールじゃなかったのかな。それともそれ以上の存在「神」だということを誇示したかったのだろうか。

さて、隣の方広寺の釣り鐘

実際に見れば家康の難癖のつけ方がいかにひどいものであったかがよくわかる。いまだに関西の人間は秀吉、秀頼びいきが激しいように思うのだが、教科書では拡大された文字しか見たことがない人にはその実感がわかないのだと思う。

あの白いところが「国家安康」の文字、どうおもうのかな。

確かに秀吉もひどいことをしている。

正面通り沿いにある耳塚 。朝鮮通信使と呼ばれた人たちは必ず日本に来た時にここに立ち寄り、

淀から江戸に向かったといわれている。今でも京阪淀駅から見える淀城跡はこの朝鮮通信使のために作られた江戸時代のものと言われている、鳥羽伏見の合戦には関係があるかもしれないが、淀姫が住んでいた城跡ではないらしい。

今度は少し七条通りまで下がって、「大仏の交番」の前を渡って三十三間堂の辺りを散策してみよう。

赤い紅色の塀と通し矢やたくさんの仏像があることで有名な三十三間堂はあまり興味がわかないのでスルーします。むしろ面白いスポットはその周りにあります。

近所の人たちが「弁天さん」と呼ぶ養源院ここは静かで人が少ないけど一度は行ってみる価値のあるところ。テレビでお江の方が取り上げられてから少し人気が出たらしい。宗達のふすま絵や桃山城遺構の血天井のある「弁天さん」、「「血天井」の文字、ここにも血塗られた京都の歴史が見える。

このすぐ横の普段は鎖が下ろされた小道の奥に

平安末期の戦う天皇 家のヒーローだった後白河天皇の墓所も法住寺というお寺の中にある。秀吉の墓所を見上げる位置にある。ほとんどの江戸時代までの京都市内にある天皇の墓所といわれるところは平地にあり、明治天皇の御陵は東山三十六峰のはずれ伏見桃山にある。東京遷都後の墓所は明治神宮なのかな?

さて、さらに下がる(南に行く)と南大門が見えてきます。昔は左右に仏像が二体あったのですが近くの子どもたちの遊び場所でもあったため、国立博物館に保管されているそうです。何気に国の重要文化財のため、クレーン車や大型トラックが門をこすると新聞に載る騒ぎになります。

比較的新しい石碑にはこの辺りに土佐藩士か住んでいた建物があった=坂本も北添も住んでいたという坂本龍馬聖地アピールがありました。駐車場を作った時に何か出てきたのでしょうか。これも観光都市Kyotoの顔です。

三十三間堂の周りには「太閤塀」と呼ばれる秀吉の作った塀の遺構が見えています。奈良に行く大和大路がそのねきを通り、塩を都に運んできた塩小路がクロスしています。

さてその大和大路にある民家の軒先にこんな古ぼけた住所標識がありました。

この住所標識の価値がわかりますか?

この場所は「東山区」なのです。京都に区制度がひかれたのは明治時代「上京区 中京区 下京区」の3つしかなかった時代があったのです。右も左も南も西も、まして山科や伏見は「京都」ではなかった時代のレプリカではない住所標識が今でも現役なのです。僕はこの町内で生まれました。

チンチン電車が走っていたところが最初の京都だと祖母たちは話していました。今でいう東堀川通のことを言っていたように思います。

七条通り東大路通北大路通西大路通りに囲まれた旧市電の六番が走っていたところ今の市バスの206の走っているところが京都だと言い張る昭和生まれの連中はまだたくさんいるようです。鷲田先生の「京都の平熱」はこの市バスの206が循環する内側を「京都」だとされています。

さて最後に七条通りを西に京都駅に向かいます。本町通の七条、懐かしい味の蒸しパン。井上のパン屋の蒸しパンはまだあるのでしょうか。小腹がすいたときに思い出すのは子どものころ食べなじんだ味ですね。

七条通りから塩小路通りに抜け、とりあえずビールとすじ肉のお好み焼きで乾杯しましょう。結構歩いたはずですから、帰りの電車はゆっくりしてください。それと八条口裏のチヂミの王様でサムゲタンにしますか。


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