おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

道端の歴史遺産4

2020-10-27 10:30:07 | Weblog

やっと京都の話が始まると思われるかもしれませんが、その前に山背の話を少ししておきます。なぜなら少し前になりますが面白い発掘に参加したのでそのお話をさせてください。つい最近ですが関裕二さんの京都古代史謎解き機構「大乱の都」京都争奪という文庫本を読んでいたら偶然その発掘に関する事柄が書いてあったので、少し紹介します。

現在僕がすんでいる町八幡はエジソンの竹が有名ですが、もっと前から「延喜式」には朝廷に山城と大和から矢に使う竹を献上させたという記述があり、すでに豪族が集落を形成していたと考えられています。そしてその本の中では、その豪族が実は九州の「隼人」の流れをくむ人たちらしいというのです。九州で力を持っていた豪族がヤマトとして奈良にまで行く途中で住み着いたのが僕のかつて勤務していた小学校の校区で行われた発掘と関係がありそうでした。

確かに八幡やその隣の京田辺市には車塚や蛇塚古墳などが多くあり、地元の農家の方と話すと須恵器の破片など田んぼからよく出てきたという話を聞きました。「大住」という地名が隼人の故郷である九州の大隅地方に由来すると考えられていて大隅から天皇とともに大和に来た大隅隼人がすんでいて、その人たちの墓が発掘されたのです。神武東征は神話の世界だと思っていたのですが、ある部分では史実を誇張して描くという技法が用いられてはいるがそのもととなる事実があるという、なんかトロイの遺跡を発見した歴史家のような気分を共有できました。

なぜこの話をしたかというと「隼人」の信仰は「月読神」で、大住にも「月読神」を祀る「月読神社」があり、八幡にはあの「徒然草」で有名になった高良神社も「月読尊」という「神」を祀っており、豪族たちは「神」を「天皇とは別の存在として認識していた」ということなのです。

最初から天皇は「現人神」ではなくある時から「現人神」になった。もしくはさせられたのかもしれないわけなのです。

それがいつなのか。

どうですか、歴史って面白いですよね。

その謎を解くカギが京都の町にあるわけです。平安京に遷都する前から京には渡来した豪族がいて、その協力を得ることができなければ長岡京から遷都はできなかったと考えられていますがその豪族が秦氏であり、半島からやってきて、九州に住み着きやがて京の地に住み着いた人たちとされていますよね。治水や養蚕に秀でていた人たちで、京都検定で難読文字の一つとされる「太秦」は秦氏がうずたかく絹を積んだ場所ということが地名の由来だといわれています。太秦には大きな古墳跡があるのですが、映画の撮影所で有名になりたのはずーと後のことです。

とにかく京都周辺には道端に歴史遺産がゴロゴロしてる、ただその自慢がしたくてすこし横道にそれたようです。


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