おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

あたらしい年度のスタートですね

2022-04-05 13:48:35 | Weblog

管理職になられた方も何人かおられるようですね。おめでとうございます(本気で言ってます 笑)。
学校現場に帰れず地獄の日々を送ることが決まった人も、上と下のはざまで苦労する毎日が始まる人も、
そんなこと何も考えず、楽しい明日だけを考えられる人にも、春は同じようにやってきましたね。

 国が通常学級担任に特別支援学校での2年間の勤務経験をさせるという、ちょっと気になるニュースがありました。そこに見え隠れする「先生は学校の世界しか知らないからスキルがない」ので、経験すればなんとかなるという経験主義的なものになにか違和感を感じるのです。

 プログラミングが必要になれば「理系のスキル」、「特別支援(発達障がい)教育」が必要なので「特別支援教育のスキル」、新しい教育的課題と呼ばれるものが出ればそのことに対応することの大切さは理解できるのですが、ただでさえ「資質不足」だといわれている若い先生たちにすぐに対応することを求めるのは、なんか酷なことに思えます。

 今年から高校に入る子供たちは、18歳で成人になるのが当たり前の子どもたちになるわけですよね。今年から高等学校の学習指導要領も完全実施になるわけで「新しい時代の教育元年」が始まりますね。

 特別支援、情報教育、英語が全校種の教員の必要スキルとなる時代の幕開けですね。全部できるスーパーマンのような先生をお偉いさんたちはもとめているし、社会の方々も当然と考えているのなら、ますます先生希望者は減っていきますよね。

最近採用の高い倍率で採用された高校や中学の若手はできるかもですが、団塊の世代の大量退職の後採用されたベテランは大変だろうな(笑)でも、10年も20年も時間があったのなら出来てあたりまえですよね。

 間違いないのは3つともできる「管理職」に若い先生が出会うことは、とても難しいという現実をどう受け入れるかですね。
 もうすでに管理職試験に受かっている「貴方は特別支援の経験がないから2年間支援学校に行ってください」と言う側は、比較的楽なのですが、言われる側は大変ですね。マニュアルなしでの個別化支援対応です。

発達障がいの子どもたちが増えたという記事もありますね。

学校現場の特別支援を必要とする子どもたちへの対応の混乱は、教員をはじめとする「学校」というシステムへの問いかけがなかったことに起因しているのかもしれません。

かつての障害児教育を経験していない人たちにとって(先生も保護者も委員会も文科省も)公立学校で、
言い方は悪いですが「他の子とちょっと違う子に、特別のサポートする」ことの大変さを理解していなかったことが原因のひとつだと思います。みんな同じ教育を受ける権利があると思っている場所で特別なサポートを「えこひいき」とされないで受け入れてもらう土壌づくり、個々の人権意識が反映されるのが「学級」という器なのです。

 それまでは、そんなことより「学力」「教科学習」が中心だったから「他の子と違って変だと言われたら高校や大学にいけなくなるのでは」という「進学や成績を最優先にした学歴社会にどっぷり浸っていた親たちのねがい」ばかりが前に出てしまっていたわけですよね。

 いい意味でも悪い意味でも「学校は学力(成績、点数、教科指導)の世界、先生は生き方を教えてくれる人」という価値観がまだあったからなのかもしれませんね。知識量や受験スキルは塾の先生に負けても「理想」を語るのが先生の仕事だったのかもしれません。

 だから「学歴以外の生き方」にも価値があると思ってた僕のような「バカな先生」は「少数派」の「ちょっと変わった先生」だったのでしょうね(笑)、

 特別支援に関しては上野一彦学芸大学名誉教授を会長とした「特別支援教育研究実践委員会」の構成員となり、2007年から教材をリリースしてきました。
https://e-kokoro.ne.jp/ss/1/
去年は「生活ことば事典」、今年も子ども夢基金の支援を受け漢字学習コンテンツ開発を行います。

 勤務していた街で「特別支援教育研究会」を沢山の先生と立ち上げたのですが、ほとんどのメンバーが退職しました。もう15年です。継続して「特別支援教育デザイン研究会」と名前もアップデートしながらボツボツと教材を開発してきました。コロナ禍で最近急に、いろいろな問合せが増えてきました(笑)

 大学入試に情報という教科も入るし、小中学校でも始まる「特別の教科 道徳」や「総合的な探求の時間」という表記が用いられるようですね。

 特別活動も特別支援も新たな学習指導要領に準拠してカリキュラム等の見直しが始まるはずですが、
ただ看板だけが変わるということなのではないはずですよね。今までの「道徳」と「特別の教科 道徳」の具体的な学習イメージの違いが判らないと理解しにくいのです。

 特別の教科道徳では「情報モラルでいうところのモラルの部分」と「倫理で教える価値の部分」や「心の教育」という言葉もあってそれらとの「違い」がよくわかりません。ただ、「評価」も必要でその基準(規準)を示すから「教科扱いする」なんてことではないと思います。道徳のテストが行われるなんて茶番ですよね。

 「公共心」や「愛国心」「〇〇を愛する心」を教えることに躊躇していた国が「正義の物差しの基準を示す」というのならそれはそれで恐ろしいことだとも思うのですが、どうでしょう?

 総合的な学習の時間(高校などでは大学受験のための時間確保に使われていたといううわさもある時間)の表記が「学習」から「探求」になることで「大学入試対策用の時間枠」から「教科学習の深化の時間」に代わり「論議や討議」という時間がかかる学習スタイルに変化できるのなら、看板が変わることにも意味があると思います。

 ただ、「情報機器のスキル学習」や「STEM」という「科学技術偏重になりやすい学習スタイル」を重視しすぎると「探求」から「知の創造」は起こらないようにも思います。「学びに向かう力や人間性」とのバランスを考えたカリキュラムデザインが必要になるのですが、カリキュラムデザインなんかは教員採用試験にはない項目なので、また二項対立的な議論が経験主義的な権威の上に立つ人たちから始まるとお先真っ暗ですね。

 特別支援学校に在籍するギフテッドの子どもと通常学級に在籍するギフテッドの子どもへの対応を一元化して論議することは少し危険だと思います。
 「学力だけが秀でている」個性と「学力だけ不足している」個性が共存する学校という器の在り方の論議がないと、「特別支援学校と通常学校」が乖離した「違う個性をもつ」からその「違う個性が同質の子供たち」だけに特別な教育的支援やサポートを行うことを是として、サポートを受けられないものや支援されることに戸惑いの意思がある者たちとの乖離を生み出し、そのような危険性を防ぐために分離させることが最良の対応という、僕にはちょっと納得できないインクルーシブ教育」(笑)を作ってしまいそうですね。

 僕は特別支援学校からスタートした教員生活でしたが「普通の子ってどんな子だろう?」っていう疑問の答えは、まだ見つかりません。成績成績分布をグラフ化した時「フタコブラクダ型」になると平均的な学力の子というのは一番少なく見えますよね。

「健常児」という言葉もありますが、「他者が見える障がいを持っていない」という意味では理解できますが、「他者が理解できない行動や発言をしなくて、他者とのコミュニケーションをもつことができる」という意味を持っているとは思えないように思うのです。

他者とのコミュニケーションをもつということはだれでも難しいと感じているように思うのです。

医学的用語、心理学的専門用語、教育用語が混在して「何が問題なのか」をわかりにくくしています。
教室にサポートできる環境もないのに、合理的配慮は「ほかの子どもと同じように扱ってはいけない」というイメージだけを教師に与え
保護者には「通常学級で特別のサポートを必ず行ってくれる」というイメージを与えてしまったため、
「特別支援学級」「通級支援教室」という公立学校における「緩衝地帯」が出来上がったのかも、知れませんね。


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