おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

黙っていることのむこうに

2011-12-08 00:14:46 | Weblog
ある中学校で
社会科の授業を参観させていただいた。

「昔、1993年頃まで沿岸漁業がさかんで・・・」という生徒の発表に
1993年で昔なら、僕は大昔から生きているんだろうかと
ふっと思ってしまう自分に何となく割り切れないものを感じる今日この頃です。

 幼かった頃明治の人の価値観や生き方なんて何となくレトロで
あこがれみたいなものはあったんだけど
古くさいものだと思いこんでいたあの頃の感覚で
きっとこの子達は僕を見るんだろうなと思うと、
底冷えだけではなく寒さが身にしみてきます。
 
 いろんな学校へ行かせてもらう機会があり
教師の発問に対する応答の場面や話し合いの場面で
児童や生徒の反応が余り活発でない場面を見かけることが
ときどきあるのですが

 なぜ反応が鈍いかを考えるとき、色々な要素が頭に浮かんできます。
①教師の発問がまずい(適切でない、不明確である、意図を児童生徒がとらえにくい)のだろうか
②児童生徒の理解が不十分で反応できないのだろうか
③理解はできているが反応することにより
クラスの他の子どもたちからの視線が気になるので反応しないのだろうか

 ①や②はある意味、個人の問題なので個々の努力の中で改善できる部分も
見えてくるかも知れないし、支援を必要とする子どもたちには、
その支援の方法を考えていくことで改善が見られる可能性があるとおもいます。

 しかし③の場合は個人の努力ではむずかしい課題があると思う。

 最近は発言することで目立つことをおそれることより、
自分が発言することで授業時間が長くなることを気遣うこどももいるということを聞いた。

理解しているのに発言できないからチャットで話し合いををさせれば
発言が増えると考えて授業にチャットや掲示板を取り込むことはたやすいと思います。
 それぞれが家庭でコンピュータに向かいテレビ会議で授業を行えば
他の人のことは気にしなくていいから自由に発言できるかも知れないし
「いじめ」も゜不登校」もおこらないかもしれません・・。
 けど何か違うように思えてならないのです。

 人の目を見て話す。自分の気持ちを言葉に込めて話す。
言いたいことは相手を思いやりながら伝える。
こんなあたりまえのことが「昔」はできていたようにおもうのですが・・。

 「授業を理解しているのならちゃんと話せよな。
そんな時間ぐらいいくらでも確保してあげるよ」と言う先生は
このシステマチックに毎日を過ごして行かなくてはならなくなってきている
教育現場で見つけることはむずかしいのかもしれません。

 「今」の先生や生徒が感じている1時間の長さは
僕が知っている昔の1時間の長さよりずっとはやく流れているのかもしれないね・・。
価値観の多様化、こんな言葉が最近の教育現場でのキーワードとなっているようです。
「格差」という言葉の次に「幸せの物差し」という言葉がでてくるといいのですが。

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