おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

向きあうこと

2008-02-03 22:50:08 | Weblog
教室で子どもたちと向き合うことが大切なのは教師なら誰でも知っている。

対面授業という伝統的な指導方法はもとより、
個々の子どもたちと話すときも指導するときも
、カウンセリングなど特別な対処法が必要なときは若干違うとしても、
お互いの目を見ながらするのが基本だと思っている。

対面して行う会話や授業を大切にしたい。
でも、子どもたちの生活スタイルは変化してきている。
同じ画面を見ながらゲームをおこない、会話を続ける子どもたち・・

機械と向き合っているが隣の友達とは向き合うことは少ない。
ついこの間までの我が家の朝の食卓では
、母親は台所でまな板に向かって話をし、
子どもたちはテレビに向かって返事をしていたし、
父親は新聞に向かって黙っていた。

塾を経営している友人と話していたときに
、子どもたちは車の助手席で
ハンドルを握っている母親や父親との対話を軽い食事をしながら楽しむ
と言うことを聞いた。

前を向いて運転している横顔に話しかけているらしい。

学校にITが導入されると聞いたとき、
一番違和感を覚えたのは、子どもたちがズーと機械と対面してしまうようなことに
ならないかという危惧をいだいたからだ。

今、子どもたちは
人と向き合う機会が少なくなってきてはいないだろうか・・。

むきあって自分の思っていることを話す、
伝えると言うことが、恥ずかしいという言葉で覆い隠されていることが
多くなったような気がする。

難しい概念としてではなく、
人としていきていくうえで基本的なことが何なのか
を問い直すときがきているのかもしれない。

コミュニケーション能力とかソーシャルスキルとか
道徳心とか自己規制力とか徳育とか、
いろいろな概念が一つの方向を指し示しているのたが、
それを子どもたちに身につけさせるための実践方法を示すことの難しさを感じている。

中教審はどうやら道徳を教えるために各校に教師を配備することを決めたらしい。
人を配備してくれることはうれしいが
配備された教師が道徳心のないことから起きる事象の対応係になったり、
道徳を教条的に教え込むだけのものにしないための何かが必要だ。

「徳育」を実践的道徳心の体得ととらえるなら、
それを指導する教員にも哲学や実践的道徳心が必要となってくるのかな。

けど、そうしたものが今の家庭や社会で価値として認められなくなっているという現実をぬきにして、
学校にだけ道徳の教師を増やせば何かが変わるのだろうか。

けど、はじめなければなにもかわらないだろな、やっぱり・・・。
さて、なにからはじめよう。
コメント
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