おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

「人間科」を作りましょう。

2007-10-13 23:49:56 | Weblog
 僕が情報モラルを始める一つのきっかけが
あの長崎佐世保の事件だったけど、
あの出来事の後も、子どもたちの心の中に
人間らしい心を失った事件が増え続けているのだろうか?

 マスコミがセンセーショナルに喧伝しているだけとは言い切れない、
大きな子どもたちの変化を実感している。

 遊び時間の遊び方には
「順番を待って、その間に観察する(覚える)」という時間がなくなった。
「同じゲームに参加するか」「しないか、
もしくは別のゲームに参加」するということが「遊び」の大勢をしめている。

 いわゆる「順番待ちをする遊び」がなくなっているのである。
待つことができない、他者の振りを見て学ぶ余裕がなくなったのか?
すぐに全員が参加することを
平等とか仲間とかいった感覚でもとめているのかはよくわからないけど
「順番待ちをする遊び」は全くといいほど見られない。

 放課後にテレビゲームやデジタルゲームをするときにも、
待っているのではなく他のことをしている。

お互いのしていることは別々なのに
その空間を共有していると言うことだけで満足している友達関係・・・。

 ガキ大将がいて、なだめ役がいて、なんていう昔の感覚は
今はなくなってしまっているようだ。

だからといってガキ大将をつくれといっても、
それは無理だし間違いだろう。

 学校で育てなければならない力として
「心の教育」が叫ばれている。

生きる力の核となる人間性、具体的には感性や寛容、
正義感や責任感、思いやりや自立心、自律と責任感といった力をどう育んでいくのかが問われている。

これは難しい。

子どもたちが行う子どもたち自身の心の構築作業の支援として
教育を行っていくわけだから。

 時代は大きく変わってしまっている。
優秀で一流大学を出れば必ず立派な人間になれるという幻想は
オウムの事件で消えてしまったし、
おさない時にいい子が大きくなってもいい子でいるとはかぎらないという意識まで
生まれている。

子が親を殺すという新聞記事をよく見かけるようになったという悲しい現実がある。

 社会の一員としての意識の欠如は深刻な事態になりつつあるが、
社会の一員として必要なスキルを教える時間が学校現場から消えつつあるのではないだろうか。

学力って何だろう、
学校って何だったんだろうって問いかけが必要なときがきているのだろう。

 心を育み知識を身につけ健全なからだを作る。
この三つを育む場所が学校ではなかったのだろうか?

知識偏重主義や心と知識の二者択一論は学校現場にはなじまないものである。

 確かな知識を身につけるとともに他者との関係の中で
人間らしく生きる方法を身につけることが急務であると考えている。

道徳教育や人権教育そして僕たちが考えてきた
情報モラルもそうだけど、
こうした一つの道徳的価値や領域にとらわれない
「人間科」とも言うべき学習が今必要だと考えている。 
コメント
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