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霧島家日誌

もう何が何だかわからないよろず日誌だ。

人間が神の似姿とされる事の意味

2009年07月13日 19時53分54秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君。いかがお過ごしかな。都議選で民主が第一党になった訳だが、衆議院選挙ももうすぐだ。麻生留任以外日本が生きていけそうなビジョンが見えないが、どうなるんだろうな。小泉プロレス劇場はここからが正念場であろう。

が、やっぱり時間はないから、またしてもレポートを書く事になった為、日誌の更新がてらまた書こうと思う。

今回のお題は『人が神の像と似姿に作られた(創世記)ことの意味とは何か』である。いい加減日本史の勉強したいんだが駄目かな。ミスターカミサマや。まさかこの間みたいに聖人にするつもりじゃなかろうな。パウロとかアウグスティヌスみたいに。


さて、人が神の似姿なのはどんな意味を持つのであろうか。この神と人間が似たよーな姿をしているというのは、我々の住む物理世界に対して我々人間が持つ絶対的優位性の現われだと私は考えておる。神は人間を作った時、解釈にもよるが天使を含め、動物だの何だの全てが人間に仕える事を命令しておる。故に、人間と動物では大きな違いがあって、それが『魂』なのだ。

人間には肉がある上魂があって、動物には肉があっても魂が無い。これは言い換えれば、人間には本能と理性があるが、動物には本能しかない、という事になる。この辺の問題は、中世までは基本的にガクシャサマの議論するところで、一般人、つまり農民であったり中世都市の市民だったりという連中は全然意識していない。

と言うか、当時は聖書を読んではいけなかったのだ。もし読もうと思っても、一般人は読み書きが全く出来ない。高地ドイツ人なら高地ドイツ語を片言(カタコト)で読み書きできなくはないが、聖書はラテン語であるからさっぱりだ。つまり、聖書を読む事は神父様の特権だったのだ。故に、一般人がキリスト教信者として登録されても、神父様が言うとおり祈ったりパンを食べたり油を塗られたりするだけで、キリスト教がどんなものかは具体的にには知らんのだ。

だから、ルターが聖書をドイツ語訳したら㌧でもない事になったのだ。しかも活版印刷技術も開発され、大量生産されてドイツ(と言うか歴史的ドイツ)全域に広がってしまう。それで農民戦争が起こり更にドイツ三十年戦争にまで色々ごちゃごちゃしたんだがその辺は置いておいて、これでプロテスタントが誕生したのだという事が重要である。

元はと言えば、プロテスタントはカトリックへの疑念…と言うと語弊があるがこう言えば判り易いからそのままで進む。で、ルターはカトリック的キリスト教に疑念を抱いていた。別に無神論者だった訳でもなくむしろ信心深い模範教徒であった。しかし、だ。普通、キリスト教信者は神父様とか司祭様と一緒にお祈りするだろう。しかしじゃあ祈ってればそれでいいんかいと思ったのがルターなのだ。祈るにしても、どう頑張ってもそこには欲望が混じる。ロンドン在住元ワラキア公アーカードさんが言っておったのと結構似ている。彼はこう言った。「神は助けてくれと祈る者を助けたりはしない。それは祈っているのではなく神に陳情しているだけだ。死ねばよい」とな。

つまり、祈り一つとっても危険な要素が混じる。又、教皇ならともかく、どんなに偉いキリシタンだって、上司は必ずいる。ならば、汝は上司に頼ってはいまいか? 自分は適当に祈っておけば上司が代わりに教皇へ届け、その祈りを教皇が神に託してくれると考えてはいまいか? 権威にすがってはいないか? 怠慢の罪を犯してはいないか?

で、ルターは悩み悩んだ末プロテスタントを誕生させたのだ。権威に頼らず、人間一人一人が神に向き合い一人一人の祈りを一人一人の責任によって行う訳である。んでその上聖書なんて読んだ日には、人々は神のもとに平等なのにおかしいじゃねーかって話になったりするのだな。それで農民戦争とかユグノーだとか三十年戦争だとかごちゃごちゃするのだがそれは置いておく。んでは、どうやって祈ればいいか?

それこそが理性である。

人は各自の理性をもってものごとを判断し己の意を実現できるのだ。だから、祈る時も自らの理性をもって神に祈りを捧げるのである。神父様とか司祭様とかに丸投げせずに、自分の理性で、自分の責任で祈る。それこそがプロテスタントである。


となれば『理性』が重要である事は火を見るより明らかだ。理性とはひいては魂であり、神が人間を似姿として創造した要諦はここにある。魂を、ひいては理性を人間に与える事によって、人間が物理世界を支配する事を可能にしたのだ。故にそれを命じた、とも言える。人間は物理世界を支配できるのだ。理性を使って世界の真理を探求し、科学を発展させ、森を切り開き人間世界に従わせようとすべきでありそれは可能なのだ。

近世から近代(と言うか第一次世界大戦まで)にかけての思想。積極的で、人間の業を褒め称え、理性によって発達した科学をもって自然を従わせ、人間はどこまでも前進する事ができる――みたいな思想。この思想の背景にあるのは理性である。

科学万能主義もここに根源にある。一昔前まで、「科学は人を助ける」と思って頑張って科学技術を開発したのに、結局軍事用に使われたりして人を殺したり、環境汚染を引き起こして地球環境を悪化させたりしてしまい、絶望にくれる科学技術者は結構いたのだな。そういう連中の、「科学は人を助ける」という発想は理性から発信されている

人間には理性がある。だから科学を研究できる。そして神様から与えられたものが理性であるから、自らのやっている事の正当性を見失う事はない。唯一絶対の神がくれたものであるから、間違っている筈が無い。この発想から神の見えざる手も出てくる。高校の世界史でやったかもしれんが…

普通、市場で人がものを買う時、買う方は出来るだけ安く且つ質のいいもの、売るほうは出来るだけ高く悪いものを売ろうとする。どちらも理性を使って自分に利益が及ぶようにする訳だ。これだと経済が立ち行かない気がするものの、アダム・スミスが「人間は売り買いに理性を使う。神が下された理性で経済活動を行えば、神の見えざる手に導かれて景気は良くなる」みたいなことを言っておる。これも理由に理性を求めている。

それがたとえ欲望だったとしても、人間の欲望と動物の欲望は違う。人間の欲望は理性から発信されているのだ。動物の欲望は本能から発信さえているものであるから悪なのであって、理性が生み出す欲望は善である。だから↑のアダム・スミスのがああ言った訳だ。

更に、実は戦争まで肯定されておったのである。つまり戦争=理性の産物。戦争も外交の一種の形態に過ぎず、理性をもって行われる戦争はむしろ良い事であり外交上非常に有効な手段だと考えられていたのだ。まぁ今の価値観で言っても似たような話も無いではないが少なくともここまでプラス思考ではない。マイナスイメージだ。しかし彼らはプラス思考である。

で、案の定、第一次世界大戦で勝つ事に理性を使いすぎて大変な事になった訳だ。ここで理性、ひいては魂、神の似姿たる本能しかない動物と違って文明を発展させられる唯一の絶対者たる人間である、という発想が挫折するのである。

だから、欧州の歴史は第一次世界大戦が一つの画期となるのである。日本とアメリカはあんまり何もしなかったから第二次大戦が画期となる訳だが、アメリカはいまだ挫折してないからあんな感じということだな。南北戦争で挫折はしたんだけどな、一応。


斯様に、キリスト教における神の似姿という発想は、ついこの間まで社会的原理として受け継がれてきたのである。場所によってはまだその発想で生きている国も存在する。アメリカの事だが。だがこうした視点を通す事で、いかにキリスト教が世界を席巻してきたか判ろうというものであろう。