壁際椿事の「あるくみるきく」

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『権力にダマされないための事件ニュースの見方』(大谷昭宏・藤井誠二)

2012年03月22日 | よむ

『権力にダマされないための事件ニュースの見方』(大谷昭宏・藤井誠二)を読みました。権力とは、具体的には警察と検察のこと。政治家、官僚、税務署、裁判所まで含めてもいいと思います。

権力は、自身に都合がいい情報を世間に広めたい。そのため、記者クラブにニュースリリースを流したり、意図的に情報をリーク(漏ら)したりする。こうした情報操作で、世論をリードし、特定の政策を実施しやすくしていく。そんな、情報戦について、著者の二人が語り合った対談集です。

情報操作では、例えば「増税やむなし」といった世論に誘導していく。「原発がなければ停電になる」といった情報を広めていく。刑事事件の冤罪も、こうした情報操作によって、生み出されることもある。

公的機関から出される情報は、ある程度は適切で、正しい。そう信じていた自分には、目から鱗の連続でした。あまりに初心でした。例えば裁判の証拠。ぼくは、必要かつ適切な証拠が提出されると思っていましたが、そうでない。「最良証拠主義」という考えの下、検察は自身に都合のいい証拠(自分にとって「最良」の証拠)だけを提出するんですね。いくら正しくとも自身にとって都合の悪い情報は、抱え込んでしまう。まさかそこまでするとは。知りませんでした。

いまでこそ、最良証拠主義は改められています。公判前整理手続きで、証拠をリスト化し、それを全て出すようになったのだとか。だけど、そもそも都合の悪い証拠は最初からリストに載せなければいいだけの話です。恣意が働く余地は、まだいっぱいありますね。

大谷氏は、現在はフリーのジャーナリストですが、読売新聞社会部の出身。藤井氏は、高卒後からフリーライターとなり、冤罪事件などを追っています。片や組織出身、片や根っからのフリーと立場の違いゆえ、記者クラブの見方に違いがありました。

大谷氏は記者クラブは必要。ただし記者は、権力から流されるリリースやリークを鵜呑みにするなというスタンス。藤井氏は、記者クラブは出入りできる記者が制限されており廃止し、フリーも出入りできるようにという立場です。

以下、引用。
藤井:元財務官僚の高橋洋一さんがいっていましたが、官僚は記者クラブに「餌をまきにいく」といういい方をしますね。会見はブリーフィング(事前説明)の資料、省庁が発表するさまざまなデータ類などをどさっと(記者)クラブに持っていって「まく」。そうすると、クラブの記者たちが鳩のように寄ってきて、それを拾って記事にしてくれる。(後略)

確かに、少数かもしれませんが、大谷氏のように気骨のある記者もいるでしょう。しかし、総体として、記者が官僚になめられてしまったら、情報操作はされやすくなります。ここでも数の論理は成り立つ。一部の鋭敏な記者だけでなく、多数の記者が反権力であるべきなんじゃないかと思います。

また、このような記述もありました。原発事故を受け、記者は原子力の専門知識がなく、大本営の「ただちに影響はありません」を広げるだけだった、と大谷氏は後悔しているんですね。この後悔を踏まえ、専門記者を養成すべき、と提案されている。

(以下引用)専門家が「安全です」といった場合、(専門知識の乏しい)私たちは「ほんとうにそうなのか」とか「自信を持って、そういえるのか」という程度の追求しかできません。あとは、その専門家の良心にまかせるしかない。(引用終わり)

この引用から分かることは二つあります。一つは「本当のそうなのか」程度の追求では、嘘を追求し切れないということ。だから具体的な鋭い質問で嘘を突ける専門記者が必要ということです。

もう一つは、専門家の良心に任せてはならないということです。専門家は必ず嘘をつく。記者は性悪説に立て、ということです。悲しいけれど、性悪説は人間の本性なのかもしれません。

ぼくは、「公共の福祉」が、空気のようなものでなく、特定の誰かの福祉のことだと憲法の学習中に学びました。それと同じで、「国家権力」は漠然とした権力でなく、特定の誰かが有するものだと類推したのです。それで、権力の保有者は誰かに興味があった。個人を特定したかったわけです。ですが、なかなか分からない。最高権力者、野田さんだって「国民をいじめてやろう」という意図で増税を叫んでいるわけじゃないでしょ。

ツイッターに、このようなコメントがありました。「恐ろしいと思うのは小沢一郎を失脚させようとする陰のビッグブラザーが存在しているわけではないことだ。人格的な中心を欠いた巨大な反小沢勢力が空気のように存在しているのだ。」(土佐の酔鯨)という方のつぶやきです。

小沢さんの事件を離れても、一般的に権力とは、このようなものかもしれません。つまり「人格的な中心を欠いた巨大な空気のような存在」です。一人ひとりは名前も個性もある裁判官、検察官、警察なのに、なぜか「空気のような存在」になってしまう。この個人から空気への変身が権力の横暴を生む元凶なんだと思います。

この本は、両氏が権力を巡って重ねてきた対談が内容です。いよいよ発行という直前に、3・11が起きた。(以下、大谷氏の筆によるあとがきより)

驚愕する事実を私は突きつけられたのである。震災に触れるまでの章で藤井さんと私は、裁判所、検察、警察という国家権力の中枢が抱える問題について論及。さらには、それを監視すべき絶対的役割を担っているはずのメディアにも厳しい目を向けてきた。そのことと、東日本大震災という自然災害は、まったく異質かつ別個のものであるはずだ。

だが、全部の章をいちどきに通読すると、そこにおそろしくなるほど、通底するものがあることに気づかされるのである。その通底するものとは何か。ひとことでいうと、それは「国家観」ではないかと私は思う。(引用終わり)

この国家観につき、大谷氏は、我々国民一人ひとりが「国家は何かをしてくれるもの」「いざとなったら手を差し伸べてくれるもの」と甘えているのではないか、と投げかけます。そして3・11後、国家が何もしてくれないということが露呈した。

要は、情報的に、精神的に、お上に頼るな、自立せよ、ということでしょう(経済的には構造的な貧困問題があり、頼る権利を当然ながら有する人はいますね)。本当に、これからのぼくたち一人ひとりの自立が試されます。




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