ソプラノ歌手 中川美和のブログ

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「モーツァルトの旅」舞台裏⑥まとめ

2015-08-31 22:56:04 | コンサートのご案内&ご報告
音楽劇「モーツァルトの旅」についてのブログも、これで6回目になりました。
最後に、台本と劇の構成について書きます。

今回の音楽劇の中で、ストーリーの中心となって台詞をしゃべってもらったのは、主に男声陣の登場人物たちでした。
当時はやはり男性社会。仕事の場…つまり音楽が演奏される宮廷などは男性中心の社会であり、主に男性だけで話が進んでいく為、どうしても劇の中の台詞は、男声キャスト中心にお願いする事になりました。

その中で、モーツァルト役を、女性の私が演じたのは、やはり「ズボン役」というオペラならではの特殊性も使いたかったから。
宝塚のように、『男』そのものを演じるわけではない、オペラ独特の表現方法。ズボン役といえば「フィガロの結婚」のケルビーノですから。
そして、ズボン役と言えど女性が一人でも混じっていた方が、男性だけよりも、お客さまにも比較的見やすいかと思いました。

そして色々な方からよくきかれたのが、台本と音楽、どちらをどう組み合わせて作品を作り上げるのか、という事でした。
これはやり方が完全に決まってまして。私の場合は、まず先に台本を書きあげます。ストーリー先行型です。
で、そのストーリーに沿って音楽を挟み込んでいきます。
音楽がうまくはまらなかったらどうするの、とこれもよくきかれますが、意外にうまくいくんですよね・・・こればかりは何となく、です。

ただ、作品の中でキーになる曲と言うのはありまして、今回、一幕は「劇場支配人」、二幕は「地獄落ち」が揺るがないメイン曲でした。
そもそも、この音楽劇の物語は、初め「劇場支配人」のくだりから生まれました。
この話をすると、びっくりされます。直接物語の本筋とはあまり関係ない箇所だからかな。
でも、作品の生まれ方って案外そんなところだと思うのです。

そして皆さまから大変ご好評を頂いた、最後の終幕場面に使った「フィガロの結婚」のフィナーレ。これは物語の最後に相応しい音楽だったと思っています。
あの選曲は、台本を書いてる最中に、ひょいっと何となく思い浮かんだの・・・私はラストシーンは途中で何となく思いつくパターンが多いんで。

物語の最後は、やはりハッピーエンドで終わりたい。悲しい結末となった人達も、どこか幸せになれる曲が良い。
孤独な人も、決して見捨てられた一人ぼっちじゃない。
うまく言えないけど、あそこには、やはり「フィガロの結婚」のフィナーレしかないな、と思って、これをこの音楽劇「モーツァルトの旅」の最後に持ってきました。
この曲は、何故か皆が幸せな気持ちになれるという、魔法のような、不思議な曲なのです。
そこにモーツァルトの音楽の喜びを感じるのです。

私にとってモーツァルトの音楽は、理屈じゃなくて、感覚。感じた事がモーツァルトの音楽だと思っています。
お客さまと共有出来た空気の感情が、その気持ちが、モーツァルトの音楽。
それ以上の事ではないんじゃないかな。説明したり、論理的に話す事は、私にとっては難しい。

「コジ・ファン・トゥッテ」のフィナーレに悲しいものを混ぜる事も出来るし、バジリオのアリアの明るい曲調の中にも悲劇的なものを内包させ、そしていかようにも歌う事が出来る。
「魔笛」の「愛を感じる人ならば」の二重唱の、あの説明できない音楽の美しさ。「良い曲だなあ」としか言えません。

ただ、私は知ってほしかった。
モーツァルトの作品の中には、いわゆる有名な曲以外にも、これほどまでに色々な曲があって、こんなにも多彩な表現、こんなにも様々な横顔を見せてくれる音楽がたくさんあるんだという事を。
悲劇は悲劇のみではなく、喜劇は喜劇のみには終わらない。
そんな面白さを、わかりやすく楽しく、お客様に伝えられたらなあ、と思ってこの作品を作り上げました。

お聴き下さったお客様、ほんのひと時でも「楽しかった!」と思える時間を過ごして頂けたでしょうか。もし、少しでもそう感じて頂けたなら、クラシック音楽というエンターテイメントを提供する人間として、こんな幸せな事はありません。

終演後のロビーで、私の先生が泣きながら、
「私、モーツァルトを好きだって、もちろん思っていたけど、もっと大好きだったんだという事を、改めて気付かされたわ…」
と、おっしゃって下さいました。

先生は、モーツァルトのオペラのヒロインを持ち役にして、長年ずっと演じてこられた方です。そんな先生にこんな風に言って頂けるなんて、本当に嬉しい…!
私にとっては「先生」という存在の方が、そんな風に感じて下さったなんて、嬉しい以外に言葉がないです…

最後になりましたが、私のこの作品をとりあげて、上演させて下さった東京室内歌劇場さま。
制作の前澤悦子先生。
キャスト一人一人の皆さま。
ピアニストの朴令鈴さん。
東京室内歌劇場の事務局の皆さま。
稽古ピアニストの伊藤友香ちゃん。
そして何より、いらして下さった満席のお客さま。
皆さま、ありがとうございました!

終演後に一枚。

前列中央/朴令鈴さん(ピアノ)、右隣/古澤利人さん(シカネーダー)
2列目左から/吉田伸昭先生(ダ・ポンテ)、加地笑子さん(ナンネル)、
私(モーツァルト)、末吉朋子さん(コンスタンツェ)

後列左から/田中紗綾子さん(ソプラノ歌手)、杉野正隆先生(サリエリ)、
下瀬太郎さん(レオポルド)


お世話になりましたー!


8月いっぱいかけて、7月31 日に上演された音楽劇「モーツァルトの旅」についてのブログをずっと書いてきましたが、その間にも、別のコンサートなどの打ち合せをしたり、書類を作ったり・・・と、また新しい企画も色々と進んでいます。
うまく進むかわからないもの、すでに決まったものなどなど、企画の仕事はとても大変な事も多いですが、幸せもたくさん頂いています。
出演する方達の魅力を、最大限引き出して、何よりお客様に楽しんでいただける企画を出していきたいです。すっごく楽しみ。

そして、もちろんもちろん、私は歌手です。何より歌があっての私です。
演奏のみのお仕事も、これからも今まで通り、いえ今まで以上に頑張ってやってまいりますので、皆さま、どうぞよろしくお願いします~!
歌のお仕事、お待ちしてます~!

てなわけで、次からは「モーツァルの旅」以外のブログになります。
ではまた!


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「モーツァルトの旅」舞台裏⑤ 訳詞の事・2

2015-08-24 23:23:22 | コンサートのご案内&ご報告
あいててごめんなさい~。
企画書作りが続いて、ちょっと放置してました。うまくいくといいなあー。がんばるー。
さて、訳詞の話、続き。

『劇場支配人』の訳詞の話です。前回のブログもご覧になって下さいね。

「ムカつくわ!」という言葉のくだりについて。
大事なのは「ムカつく」という単語です。
私は訳詞は、お客様に全部を聞き取って頂こうとは思っていません。半分でも聞き取って頂ければ良い方かなと思ってます。
しかし、「ムカつく」が聞こえれば、なんとなくそこらの歌詞の趣旨や、ソプラノたちの感情は伝わります。
お客様は「ああ、このヘルツ夫人は、ジルバークラングをムカつくと思ってるんだな」と考えます。
これも、前回のブログで書いた「予想する」という行為です。

音符の量が少ないため、そのままの言葉を使う事は無理な中、どこまで意味をお客様に汲んで頂くか。難しいけれどやり甲斐があるのはそこです。

また、音符と言葉の量が合わないというほかに訳詞が難しいのは、西洋ならではの言葉の表現があるという事もあります。
特に、西洋のことわざや比喩が原語の歌詞に出てくると、
『あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛』となります・・・orz
いやほんとに、その位大変なんですわ・・・中でも、ギリシャ神話、星座などの引用が多いです。
苦労した話で、バジリオのアリアを例にさせて下さい。
いやー、これは大変だった(´Д`;)

今回「モーツァルトの旅」で、ダポンテのテーマ曲としたバジリオのアリアは、そのまま「フィガロの結婚」を上演するときにも使える訳詞にしたつもりです。で、このアリアの歌詞の中には、独特な言葉があります。それは「ロバの皮」という言葉です。
西洋では、ロバは間抜けの象徴なので、バジリオのアリアで連発される「ロバの皮」をかぶるというのは「間抜けなふりをする」という意味なのですが。
でもそこの解説なしに、いきなり歌の中で「ロバの皮」と言われたって、我々日本人には何のことやら・・・て感じですね。
かといって、「ロバの皮」とはかくかくしかじか・・・なんて、説明ができるわけもないので。そこをどうするか、が訳詞の見せどころなのですが。

なので、思い切って、アリアの最後の部分。
イタリア語の歌詞で「ロバの皮一枚で、この世の危険は避けられる」という意味の歌詞(※才気を隠し、間抜けなふりをして生きれば、世の中の禍から身を守ることができるという、比喩を含んだ教訓)のところに、
本来の歌詞にはない「道化の仮面」という言葉を入れました。
「道化の仮面、ロバの皮」
と続ける事によって、人間は並列の言葉は似たような意味だと予測します。
なので、「ロバの皮」は「道化の仮面」と同じような意味だと、お客様に想像して頂こうと思ったのです。「道化の仮面」ならどういう意味か分かるものね。

そしてさらにわかり易いように、今回の音楽劇では、バジリオのアリアを歌う前に、ダポンテに解説の台詞を喋ってもらいました。
「ちょっと身を守るためにかぶったはずのロバの皮・・・馬鹿げた道化の仮面のはずが、取れなくなってしまったよ!」
と言わせました。
アリアの前にこういう台詞を言ってもらえば、「ロバの皮」が間抜けなものとはわからなくても、なんとなく、「道化の仮面」と似たような意味合いのものかな、とお客様が想像ができるかな、と。

そんなわけでして、ロバの皮についての解説はここまで(笑)

まあそのくらい、「ロバの皮」一つで、ここまでいろいろ考えて放り込むわけでして。
そのくらい西洋の比喩表現っていうのは難しいです。
原詩をできるだけ尊重はしたいのですが、お客様に通じなくて、「?」と思われたら意味ないよなー、というのもあるので・・・もちろん、それは自分で調べるのも一つの楽しみ方だと思いますし、それはそれでありだと思います。
でも、どうしても難しければ、私は別の言葉に置き換えるのもありだと思っています。

以前、フィガロのアリアを訳した時は、あまりに西洋の比喩が怒涛のように連発される上、バジリオのアリアのように解説する時間もなかったため、比喩表現は全部バッサリとカットして、韻を踏んだ別の言葉やことわざにしました。

あと、訳詞の使い方について。
このように、アリアと台詞を組み合わせる音楽劇の形ならではの技もあります(´ω`)ノ
これは、訳詞の話というより、ちょっと台本の話にもなりますが。

多分、この音楽劇をご覧になったお客様は、もう台詞はあまり覚えてらっしゃらないと思います。(そりゃそうだろう)
台本は、もちろんストーリーを中心に作りますが、ただこういった音楽劇を作るときには、アリアで歌われる歌詞の中の大事な単語を、お芝居部分の台詞に放り込みながら使っています。

どういう事かと言いますと。バジリオのアリアには、イタリア語で「figlio caro」という歌詞があります。
直訳すると「いとしい息子」ですが、歌の中では母親が息子に言っているわけではなく、若き日のバジリオが女性に言われている言葉なのです。
ですから、「かわいい坊や」と訳しました。

これは大事な言葉だなあ、強調させたいな、と思いました。
表現の仕方はさまざまですが、この言葉を大事にすることで、バジリオ・・・今回の場合はダポンテですが。その人がとても人間くさい、味わいのある人に思えてくる。

なので、アリアの直前の台詞の中でも「かわいい坊や」という単語を言ってもらおうと思いました。
しかし、大事な言葉は少々目立つ言い回しだけあって、うまく台詞を作らないと、お客さまに変な違和感を感じさせてしまう。
「えっ何でダポンテ、いきなり『坊や』なんていうの?えっえっ」とか思われるてしまうと、アリアの時には興ざめ・・・
それは嫌だなーと思い、自然にきこえるようダポンテには、「坊や」という台詞を何度か言ってもらう事にしました。

最初にダポンテがモーツァルトに出会ったときに、わざと「坊や」と言ってます。
それはモーツァルトを試している、斜に構えたダポンテの性格上の行動ではあるのですが、と同時に、言葉それ自体は、このアリアのための伏線でした。

で、そこを踏まえて、ダポンテがバジリオのアリアを歌う直前に、モーツァルトに向かって
「かわいい坊や、きみはこのままだと、死んでしまうよ」と言ってもらいました。
そこからバジリオのアリアに入れば、「かわいい坊や」は強調されつつ、変な目立ち方はしないかなー、と。
・・・まあこのアリア直前のセリフ、多分お客様で覚えていらっしゃる方はいないと思いますが(笑)

こういった音楽劇では、台本の伏線はストーリーだけではないのです。
私はクラシック音楽を伝えるために、この音楽劇を作っているので、いかに自然にお客様にアリアに集中して頂くか、という作業は一番大事なこと。だから、台詞の中にもアリアの伏線をちりばめています。

ただ、難しいのは、そのアリアの大事な言葉を台詞としてお客様に提示することと、その台詞の、演劇的な重要性をどこまで両立させられるか。
やはりそこがうまくいくと、台本としても良い流れになりますね。台本の演劇的な流れがうまくいくと、アリアも集中したまま聴いて頂けます。

前述した、ダポンテのアリア直前の台詞「かわいい坊や、きみはこのままだと、死んでしまうよ」は、「かわいい坊や」を言ってもらうために作った台詞でしたが、台詞としても、ダポンテの心情を表現する、とても意味のある大事な台詞になりました。
台本を書いた人間としては、ダポンテの台詞の中で、一番大事に思っているところです。

こういった、こちらの都合で書いた言葉と、キャラクターらしさとしての台詞の融合は結構難しいのですが、深く考えないと、なんかうまくいきます 笑
考えて書くと、駄目ですね。まあ大体そんなもんです。

まだもう一回だけ、「モーツァルトの旅」について書かせてください(笑)


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「モーツァルトの旅」舞台裏④ 訳詞の事

2015-08-18 23:14:11 | コンサートのご案内&ご報告

テレビ番組「ナイナイアンサー」にもご出演されている、作家・翻訳家の三石由起子さんに、音楽劇「モーツァルトの旅」をご紹介いただきました~。褒めて頂けてうれしいな。
・・・いやすみません、めっちゃうれしいです。えへ。

すごくうれしいのは、訳詞に気付いて頂けたこと。もちろん、お客様が歌をきく時、訳詞は右から左に、無意識にすーっと聞き流して頂けるのが一番なのです。
ただ、やはり三石さんは作家さんで翻訳家なので、言葉に敏感な方に認めて頂けるのはすごく幸せです。

でも三石さん、これは歌手へのおべんちゃらではなく、やはり歌手に実力がなければ、どんなに良い訳詞を作ってもお客様には聞き取れませんよ…
そこは、本当にそう思ってます。

てなわけで、せっかくなので訳詞の作り方について、ちょっとお話させてください。

私が訳詞をする時に心がけているのは、お客様に一番楽に耳に入りやすくすること、です。
で、それには、できるだけ単語の数を少なくすること。
だから、どうしても元の歌詞に忠実な訳詞、という訳にはいかなくなります。

文章でオペラの歌詞を対訳する場合は、いくら文字数が多くてもかまわないので、できるだけ忠実に訳すことが大切になりますが、歌手が歌う歌詞の日本語訳詞の場合は、そうもいかないので。
音符より大幅に多くは言葉を入れられないですしね…
まぁとにかく、訳詞は字数制限がハンパない。
対訳と訳詞の大きな違いはそこです。

字幕は作ったことないですが、字幕にも字数制限があって苦労があるんだろうな~。一度やってみたい気もしますが。

で、訳詞する時、私は単語の「繰り返し」をよく使います。
繰り返しは、文章として読んだ時には、あまり美しくありませんが、耳のみで聴く場合、単語の繰り返しは韻としても処理できるので、字で読んだ時ほどの違和感はありません。

単語の数があまり多過ぎると、お客様が前の言葉を忘れて頭の中で整理できなくなったりします。
だから私は、原語で代名詞になっている所に、敢えてもう一度その単語を出したりします。
たとえばですね。

原語の歌詞を普通に訳したら
「ワインが飲みたい、あれが欲しいんだよ」
という文章を、歌にのせた訳詞にするときは

「ワインが飲みたい、ワインが欲しいんだよ」
という風に訳詞にしています。

なぜこうしてるかと言いますと。
最初の場合。
「あれ」という単語が出てきたときに、お客様は無意識に「あれ」が何を指しているのか、思い出す作業を瞬間で頭の中で行います。
そうすると、その後の「欲しいんだよ」という言葉を聞いている時に、ほんのわずかですが気が散ります。
怖いのは、あくまでそれは本人が意識しないレベルで、脳の中で行われていることなんです。
どれほど本人が歌に集中していても、こうしてわずかに気が散ってしまうと、その後の「欲しいんだよ」を聞き損ねてしまう可能性が出てくるのです。

「欲しいんだよ」の、最初の一文字目・・・「ほ」→は、ローマ字で表記すると「HO」ですよね。
歌の場合、お客様がわずかに気を散らすと、最初の子音「H」を聞き逃す可能性が出てきます。
「HO」の「H」を聞き逃すと、「ほしいんだよ」は、「おしいんだよ」と聞き間違えてしまいます。

するとお客様は考えます。
「おしいんだよ・・・てことは『惜しいんだよ』って言ってるのか?
いや、『おいしいんだよ』って言ってるのかもしれない。・・・あ、もしかしたら『欲しいんだよ』って言ってるのかも。あ、文脈から考えて、きっとそうだ!」

・・・とまあ、こんな風に、正解にたどり着くまでに数秒考えたりします。で、その数秒がその後の言葉の聞き間違いを更に誘発していく…
というおそれがあるんです。
この正しい言葉を考える作業も、かなり無意識に人間は行っているのです。人間の脳ってすごいよね・・・

さて、話を戻します。
「ワイン」という単語を「あれ」という代名詞を使わないで、
「ワインが飲みたい、ワインが欲しいんだよ」と繰り返して表現した場合。

「ワイン」が繰り返されることによって、一度出てきた単語が歌手からまた発語されると、
二度目の「ワイン」の、「ワイ」辺りまで聞いたところで、お客様は
「ああ、「ワイン」って言ってるんだな」
と、これまた無意識に予想をします。

そうすると、最後の「ン」の所までは聴かないでも「ワイン」という言葉だな、と正解を出して下さるので、頭と耳に余裕が出ます。
すると、その続きの言葉「欲しいんだよ」を聴くときには、ゆとりができ、「あれ」という、代名詞を使った時よりも聞き取りやすくなります。

もちろんこれは無意識に一瞬で行われる作業です。でも、普段私たちは言葉を聞くときに、細かく最後の一文字までは聞こうとはしていないのです。
脳と耳が、勝手に「予想する」という作業を無意識に行っているのです。
その「予想する」作業を行う回数が多ければ、訳詞はより聞き取りやすいものになります。

これは、私がドイツで学んだことかもしれません。
私がドイツにいた時、初めの頃一番大変だったのは、ドイツ語を聞きとるのに、単語や語尾変化に至るまで、とにかく一文字も聞きもらさないようにしていた事です。
そうして聞いていても、知らない単語ばかりだったし、知っている単語でも、語尾変化すると聞き取れなくなってしまう。
それでぐったりして、最初のうちは事務的なやり取りや買い物だけで、頭がふらふらになったりしたものです。

それは、言葉を「予想」できないからだと気づきました。知っている単語数が少ないから仕方ないのですが・・・
しかし、慣れてくると、たとえばスーパーの買い物などは、出てくる単語の予想がつくので、いちいち全部を聞き取ろうと努力しないでも済むようになるため、疲れなくなってくるんです。

それまでは大変だったなあ・・・(遠い目)

さて話は訳詞に戻ります。
だから、歌詞をきいたお客様に「予想させる」作業を多くし、
そして、この単語は何だ?とお客様が「考える」作業を少なくすることが、大事だと思っています。

お客様が歌詞をきいた時の、頭の中でのタイムロスを少しでも減らしていくのです。タイムロスがあると、前述したとおりの理由で、聞き逃してまうおそれが増えていくので。

なので、訳詞は普段我々が使っている範囲の単語で行うことを心がけています。
その中でも、少し簡単かな?と思う単語を選んでいくこと。簡単な言葉は考える時間を必要としませんから。
普段でも、難しい単語をきくと「あれ?」と思って一瞬考えますよね。そういうことです。

ただ、そうすると、必然的に使える単語数が減ってしまうので難しいんですけどね・・・

あとは、日本語特有の言い回しや、ことわざなどを使うことで、予想してもらうという方法もありますね。
「一難去ってまた一難」とか、「それでは皆様、ごろうじろ」
なんて訳詞を、今回は使ったりしました。

どちらも、本来の原語の歌詞にはない言葉ですし、日本語としてもあまりよく聞く言葉とは言えませんが、
キャラクターの性格、文字数、音符の数、聴きやすさを考慮した時、そういった表現の方がすんなりいく場合もあります。

それから、口語で目立つ言葉をあえて放り込むことも。
三石さんが取り上げて下さっている『劇場支配人』の「ムカつくわ!」のくだりは、
本来は「皆が私をほめたたえる」という意味のドイツ語でした。ですが、どう頑張っても、音符におさまりきらないんだなあ、この言葉が(笑)

そう、訳詞で大変なのは、音符という制限があるのです。その音符のリズム、音の上下と日本語の発音もリンクさせなくてはいけないんです。

・・・ええ、そのことについて書きたいんですが、長くなっちゃったので、まだ次に続きます(笑)

母が、ブログが自己満足すぎる!と言ってましたが、いいじゃん、私のブログなんだから、自己満足でも・・・笑


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「モーツァルトの旅」舞台裏③ シカネーダーとダポンテの事。

2015-08-14 23:40:24 | コンサートのご案内&ご報告
モーツァルトの親友、シカネーダー役は、バリトンの古澤利人さんでした。
実在のシカネーダーは台本作家で、「魔笛」の台本を書き、且つパパゲーノ役の初演を務めた人で、ザルツブルク時代からのモーツァルトの友人でした。

役者、歌手、演出家に、台本作家で、劇場支配人、と何でも器用にこなす人だったのですが、どうしても私は気になってた事があって。
実際のシカネーダーが、実はどんな人だったんだろう、という事です。

あて書きの天才でもあったモーツァルトは、曲を見ればその初演の歌手の、なんとなくの、人となりも見えてきます。
でもだからこそ、シカネーダーの性格がよくわからなくて。
劇場の支配人で、且つ役者、歌手、台本作家として色々出来る人ならば、すごく器用な人で、才気が見えそうなもの。
なのにパパゲーノのアリアは、とても素朴でシンプル。そして自然体。
…逆の人に見える…

パパゲーノという人物を演じるのに、ある種の器用さは必要だとは思いますが、けれどあの旋律は、才気が見え、器用な人間にあて書きされたものにはどうしても思えなかった。
何でも出来て器用だけど、それが鼻につかず、むしろ素朴なものを自然体で表現できる人。そんな真反対のものを持ってる人なんて、いるの…?
どんな人なんだろう…とずっと思っていましたが、利人さんが演じているシカネーダーを見ていると納得できました。

利人さんは、ミュージカル「レミゼラブル」にも出演されている方ですから、素晴らしく演技が上手く、あらゆる事を器用にこなす。
パンフルート、鳥の扱い、お客様へのアピールもお手の物。なのに、その器用さが嫌味にならずに自然体で素朴なものをお客様に見せつつ、そこに存在してくれる。

この作品のシカネーダーは天才ではありませんが、人を愛する事を知っていて、そしてそれに信念を持っていて、自然な形のまま、喋り、そのまま歌う。まるで鼻歌を歌うように構えずにアリアを歌う。
ああ、実在のシカネーダーはこういう人だったんじゃないかな、とごく自然に納得できました。

もちろん、利人さんはそういうシカネーダーという人物を演じているのだと、理屈では分かっています。
プライベートの利人さんの性格は知りませんし、あくまで私の台本の通りに動いて下さっているだけ。
でも、その自然体なまま、「愛」だの「許し」だの、ともすると陳腐になってしまう台詞を肩の力を抜いたまま話すから、モーツァルトを演じているはずの自分にも、演じる事を忘れさせて、すとんと心に落としてしまう。
台詞の説得力がすごい。
だからモーツァルトがシカネダーと歌った「魔笛」の二重唱、「愛を感じる人ならば」のところでは、私はモーツァルトというよりも、自分の気持ちで歌っていました。

それは利人さんが、あまりに普通に、何よりも大切な事を語ってくれたから、私を納得させてくれたんだと思います。

本当にすごいです。
シカネーダー役の一番の特徴は、ただモーツァルトのそばにいるだけ。そばにいる事で、多くを語らず、寄り添い、見守ってくれる親友を表現してくれました。
この演技はおそらく、とても難しいのではないかな…何もしないで、しかしその役として存在し続けなくてはならない、という演技は…。

いつも優しくて、それでいてどこか寂しげにも見える利人さんの雰囲気は、長調の明るい曲を、明るく歌えば歌うほど、寂しく聞こえてくる。
モーツァルトの音楽の不思議な所はそこですね。逆の精神を入れれば入れるほど、ひしひしと逆の何かが伝わってくる。

お稽古の時に、パパゲーノのアリア「可愛い恋人か女房が」を歌っている利人さんを見ていたら、ああ、僕(モーツァルト)はこの人のための曲を書いたんだな、という感覚がごく自然に胸に落ちた瞬間がありました。
自分の台本で申し訳ないですが、傲慢だとも思いますが、でも私がモーツァルトになったと、自分でしっくりきた瞬間はその時でした。

たぶん、モーツァルトは肩の力を抜いてパパゲーノのアリアを書いたんじゃないかな。何かをしているシカネーダーを見て、ああ、こんな感じかな・・・と微笑みながら書いたような。
だから、「パパゲーノ」という役を書いたというよりも、やはりシカネーダーという人を投影して書いたようにしか思えません。
だからこの「モーツァルトの旅」という作品では、シカネーダー役にはテーマ曲がないんですよね。
何故なら、パパゲーノの曲全部がシカネーダーの曲だから。だって、これは実在のシカネーダーがそうだから・・・


そして、モーツァルトのオペラ三部作「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」の台本を書いた、台本作家ダポンテ役はその対比となる人物でした。
二人の台本作家であるシカネーダーとダポンテの二人を、私は同じ行動をとる人たちとして書きました。モーツァルトに対して、同じように人の弱さを語り、許しを語り、オペラを書くよう勧める。

ちなみに個人的に台本でうまく書けたなーと思ってるのは、このダポンテです(笑)
しかし濃いキャラなだけあって、作品の中では、悪役(という言い方は正しくないけれど)に近い存在で。
なので、目に何かを宿している人でいて欲しかったのですが。
ダポンテ役の吉田伸昭先生の目はすごかったです・・・
お稽古で、モーツァルトがダポンテに追い詰められていく場面で、本当に怖くて、稽古なのを忘れてひたすら飲まれてしまったことも一度ではありませんでした。
キャラクターテノールの狂気って怖すぎる・・・

それでですね。
ダポンテという役のイメージは、「不思議の国のアリス」(原作ね)の、きちがい帽子屋のキャラとか、「パイレーツオブカリビアン」のジョニーデップの初登場の場面の、あの目がダポンテのイメージなんです。
そこさえズレなければ、あとはどんな役作りでも構わなくて。
で、その事を吉田先生にお話ししたら、
「僕、オペラの『不思議の国のアリス』の帽子屋、初演から三回もやったわ…」と言われ、爆笑してしまいました 笑
やはりそういうイメージなのか…笑

さて、実在のダポンテは、モーツァルトの人生において結構重要な人だったはずだと私は思うのですが、これまでのモーツァルトの舞台作品や映画においては、ほぼ語られることがありませんでした。オペラの人間としては、どうもそこが残念で。
まあダポンテを語ると、オペラについて言及することになるから、時間がかかるし難しいんでしょうけれど。

それで、台本を書くときに少し調べたら、実在のダポンテの破天荒ぶりはモーツァルトに負けてないので、何か書きやすそうな人だなー、と思いました。

まあ、そもそもああいったオペラの台本を書く時点で、普通のひとじゃないよね…と思い、だからダポンテ役はテノール(笑)
そんなわけで、今回私は「フィガロの結婚」のドン・バジリオをモデルにして、ダポンテを作りましたが、あくまでモデルはモデル。
書きあがったらもう別の感じになってましたねえ。
ただ、ダポンテが歌うバジリオのアリアの歌詞にあるように、その才気ゆえにそのまま生きることができず、本音を語らず、世の中を斜めに見てて、自嘲気味な所はそのままで。

そう、そのダポンテのテーマ曲となっているドン・バジリオのアリア「私も若いころは」は、とにかく名曲です。
「フィガロの結婚」を上演する時には通常はカットされますが、あまりにそれは勿体なさすぎる。
悲しくて仕方がない・・・
この曲は絶対にメインを張れる曲だと、私はずっと思っていたので、ダポンテが歌唱する時は、この曲を一番目立つところに配置しました。

あの明るくてコミカルに聞こえるあのアリアの裏にある、ある種の緊張感。歌詞に隠された悲劇、不条理、怒り。
それをコミカルな曲調にのせているのは何故なのか。ドン・バジリオがそう生きなければいけなかった理由は何だったのか。
その思いを、役柄に投影させて、ダポンテというキャラクターを作りました。

だから、ダポンテがアリアを歌い終えて後奏で退場する時の、客席のすごい拍手の大きさには、役を忘れて私がガッツポーズをしそうになりました(笑)
しかも、ダポンテが退場する時の吉田先生のあの目と、動きと言ったらもう、ええ、もう(興奮)
台本を書いた私の想像をはるかに超えて下さいました・・・もう絶対、吉田先生、私よりダポンテの事わかってるよなーと思います。
吉田先生、ありがとうございました・・・!
本当に理想のダポンテでした。

さて、その才能ゆえにずっと孤独の中を生きてきたダポンテは、同じように才能を持つモーツァルトに、どこかで理解を求めます。
ただ結局2人は相容れることはなく、ダポンテは孤独のまま立ち去りますが、実は、シカネーダーにはそんなダポンテも救ってほしかった。

なので、この作品は表面的な主役はモーツァルトですが、もう一人の主役はシカネーダーなんですよね。ドラえもんとのび太くんみたいもんで。どちらも主役。選べない。
で、ダポンテとモーツァルト、天才と呼ばれる二人が行きつけなかったところに、シカネーダーは到達していてほしかった。
敢えていうなら、シカネーダーが持っていたのは、人を愛する才能でしょうか。
この世で一番大事なのは、どんな才能よりも人を愛する事なんだよ、と変な主張をするわけでもなく言ってほしかった。
実際、実在したモーツァルトは、作品の中でそう言っていたと思うので。

だから今回の「モーツァルトの旅」という作品では、シカネーダーが、真のモーツァルトの代弁者だったのかもしれないなあ、と今書いてて思いました。利人さん、ありがとう(笑)

さて、まだもう少しだけ、続きます。訳詞の事とかを書きますー。


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「モーツァルトの旅」舞台裏② サリエリとレオポルドの事。

2015-08-11 23:24:22 | コンサートのご案内&ご報告
女声に続いて、男声の話。

モーツァルトのライバル・・・的なイメージがある、サリエリ役はバリトンの杉野正隆先生。
このサリエリという人は、皆さまご存知、映画「アマデウス」で有名な方ですが。

でもそのライバル役なイメージのままに脚本を書いてしまったら、ストーリーが「アマデウス」みたいな方向にしか行かないし。
どうしようかなーと思って、「アマデウス」のサリエリとは逆に、逆に…と描くことにしました。
尤も、それでもやはりお客さまのイメージのサリエリ像がありますから、
あまりに強く違和感を出さないように考えて、最初のうちは、モーツァルトと敵対しつつ音楽は認める、というスタンスで。

「アマデウス」のサリエリに近い状態から登場させて、あとはそこからどんどん変化させて、ひたすら人格者で、いい人、という方向に作っていきました。

そして、演じられた杉野先生にはあふれんばかりの真面目な雰囲気があって・・・だから逆に、ギャップを期待して、コミカルな部分をお願いしたら面白いかも・・・と、思ったりして。

そこで、少々コミカル部分を担当して頂きました・・・ありがとうございます!
台詞稽古の時から、他のキャスト達から
「久しぶりに『アッパラパー』って言葉きいたんだけど」とか
「杉野先生に、この台詞言わせんのか・・・!笑」
などのお言葉を頂きました・・・笑

杉野先生、ありがとうございました!あそこまで一気に笑いを取って下さるとは思わなかったです・・・
でもですね。時間の都合でカットした台詞があったのですが・・・実はそれがあると、めちゃくちゃかっこいいんだけどな…サリエリ。
無念…

で、サリエリのテーマ曲はコンサートアリア「彼を振り返りなさい」。
これを歌った歌手の名前忘れちゃったんですが(ごめんorz)、
その人はモーツァルトがすごく評価していた人なんだなーというのは、楽譜を見ればよくわかります。

改めて「彼を振り返りなさい」の楽譜を見ると、派手な音の跳躍、細やかな技巧・・・とにかく華やか。
そしてそうとはきこえない複雑な進行。一見ただの繰り返しに聞こえる所も、そうではない。
私がバリトンだったら、この曲絶対歌いたい!
で、今さらこんな事を言うのは失礼なんですが、杉野先生の声は本当に気品があって、美声で・・・
私、杉野先生の声でどうしてもこれ聴きたくて・・・どうしてもこれ歌ってほしくて、キャー(゜∀゜)ノみたいなノリでお願いしてしまいました・・・笑

そして、“Rivolgete a lui lo sguardo”と後半、“Bella Bella~”以降の歌詞は、ちょっと劇の中身とひっかけてます(´ω`)

あと、お気づきのお客様も多かったと思いますが。
劇中でサリエリがヨーゼフ二世に対して歌うアリア、「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」は、
サリエリがフィガロ、モーツァルトがケルビーノのポジション、という二重構成になってます。
ちなみにヨーゼフ二世は伯爵、ダポンテはバジリオです。
私はケルビーノを演じてるみたいで楽しかったな―

ちなみに余談ですが、実在のサリエリとモーツァルトは6歳しか違わないんです。

映画「アマデウス」のサリエリも、もう少し歳上てイメージありますよねー。
で、今回のサリエリはイメージはもっと年が離れてる設定で、完全にモーツァルトの保護者状態…笑
師と弟子、みたいな関係性でした。
実はサリエリの性格づけのモデルに、ちょっとだけ私の先生の雰囲気も入れてるのです。ふふふのふー

さて、モーツァルト一家のパパ、レオポルドについて。
彼は子供時代に登場しますが、すぐに死んでしまいます・・・
レオポルドは象徴的な役なので、そうでもしないと目立ち過ぎてしまう。バスの声はやはりえらい存在感が出てしまうから。

しかもレオポルド役の下瀬太郎さんは、身体もすごく大きいし、とにかく圧倒的な存在感。
なので、レオポルドと騎士長をリンクさせての、『地獄落ちの場』をお願いしました。
『地獄落ち』は私のお気に入りなので、演奏できて嬉しいー!迫力ですよねぇ、この場面・・・
通常のガラコンサートなどではなかなか演奏されないのですが、あまりクラシックを聴いた事のない方にも、この場面を違和感なく聴いて頂けたようで、すごく嬉しかったです。

アンケートにも「鳥肌が立った」と書いていただけたりして、嬉しかった。
『ドンジョヴァンニ』を一本観なければ、なかなかこの場面を聴く機会はないものね。
このオペラで一番好きな場面です!絶対かっこいいものー。

で、下瀬レオポルドには、最初と最後に『後宮からの誘拐』のオスミンの歌をお願いしました。
この曲は、この作品の中でとても大事な、一つの象徴となる曲なのです。

これは、本当に不思議な曲で。ちょっときくと明るかったりするのだけど、めちゃくちゃ寂しくなる。コミカルなのに切なくて。とてもシンプルな旋律で。
明るい場面にも、悲しい場面にも、心にすとんと残る、モーツァルトの凄さがよくわかる曲です。
でも、これをガラコンサートで演奏する事はまずないから・・・

お客さまには、このオスミンの歌と、先ほどの地獄落ちの場、この二つの曲を聴いていただきたくて下瀬さんにお願いする事にしました。
モーツァルトが死ぬ場面では、死んだ父レオポルドがこのオスミンの歌を歌いながら、息子を迎えにきます。
この場面は泣いているお客様がたくさんいらしたから、この歌の素晴らしさはお客さまの心に届いたのだと思います。
下瀬さん、ありがとうございます~!

ところでちょっと書きましたが、下瀬さんは、とにかく身体が大きいんですわ。
で、私は皆さまご存知の通り、とにかく小さいんですわ。

お稽古の時、姉ナンネル加地さん、父レオポルド下瀬さん、そしてモーツァルトの私、の三人が並んでいたら。

コンスタンツェ末吉さんとソプラノ歌手紗綾子ちゃんが、ウフフキャッキャとか何とか、なんか盛り上がってんな―、と思ってよく見てたら、
手を上げたり下げたりして、
(加地さん) (下瀬さん) (私)

と、やっていた。

うん、まあ、わかりやすいサイズだよね・・・笑

私と下瀬さん、本人同士も向かい合った時
「・・・でかっ。」「・・・ちっちゃっ。」と、思わず呻いてしまったしね・・・

・・・どっちも規格外です・・・

長くなったので、二人の台本作家、ダポンテとシカネーダーの話はまた次回~。



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