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ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

夢に鬼

2018-07-12 04:11:04 | 短歌





しづたまき いやしき身にて 月こはば 夢に鬼こそ おらびいでつれ





*今日は久しぶりに、今日のツイートから持ってきました。

「しづたまき(倭文手纏)」は、「しづ(倭文)」でつくった粗末な腕輪のことで、「数にもあらぬ」「いやし」にかかる枕詞ですね。古語辞典をくればこんな魅力的な言葉に出会うので、積極的に使っていきましょう。

いやしい身でありながら、月のようなあの人を欲しいと思えば、夢に鬼がおらびでてきた。

まあこんな意味になるでしょうか。

卑しい、賤しい、とかいうことばは、現代では人権的な意味からして苦しいものですが、しかし、卑しい人間がいないというわけではありません。

教養が低く、大勢の中に埋もれると簡単に自分を失ってしまうような人は、卑しいと言って構いません。彼らは高度な社会を営むためにほとんど何も貢献しないどころか、獣的エゴを巧みにぼやかして人を馬鹿にするために心無いことをしたりする。

こういうのを凡庸の人ともいいますが、善人や弱者のふりをして社会に害悪をなす人は多い。そういう人は、身分が卑しくなくても、卑しいのです。

自分の獣的エゴを充足させるために、人を馬鹿にしてもかまわないと考えているような人は、みな卑しいのです。

男にせよ女にせよ、そのような人ほど、実に高い美女に目をつけるものだ。人間ではない美女を見た途端、彼らはものすごい勢いで集団化し、おそろしい害悪を社会に引き起こした。

愛で国の運を支えていた美女を恐ろしい集団になって攻撃し、国を危うくした。これは逃げることのできない真実です。感性の進化した人類には、誰にでも簡単にわかることだ。古い世界の常識に戻ってごまかすことなどできはしない。

そんな卑しい人が愛の高い美女を欲しいなどと言えば、夢に鬼が出てくる。いえ、もっと恐ろしいものが、現実世界に叫び出てくる。

愛の世界からの、復讐が始まるのです。






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まよひのかがみ

2018-07-11 04:18:54 | 短歌





ふけぬれば まことの色を あざむきて 言ひ訳をよる まよひのかがみ





*今日も一年前のツイートから持ってきました。スランプ中ですから、過去の積み重ねは実にありがたいですね。今詠んでいる歌がそれほど悪いわけではないが、やはり栄えに栄えていた頃の歌というのに、今は惹かれてしまいます。

夜も更けてしまえば、ほんとうのことをあざむいて、自分を助ける言い訳を探すことでありますよ。その迷いを映す鏡にはだれが映っているでしょう。

まあ訳せばこんなところになりますか。

人間、自分を逃がす言い訳を探すのは、昼よりも夜が多いものですね。みなが眠っている静かな夜の時間には、だれもみていない自分一人の時間がある。そんなとき、人は誰知らぬことと思い込んで、逃げる言い訳をひそやかにあんだりする。

何をしたのか。それは痛いことをしたのです。自分を助けるために、他人にひどいことをした。ひとを妬んで、それは汚いこと、ずるいことをした。そういう自分であることが痛いばかりに、人間は巧みに逃げようとして、いろんな理屈を組み、言い訳を探す。だれかのせいにしようと、また痛いたくらみをしたりする。

迷いの鏡、とあるが、そんな自分を映す鏡があれば、そこにどんな顔が映ることでしょう。

誰が知らなくとも、おれだけは知っているよと、そういう目をしている人間が映ることでしょう。そうとも誰も知らなくとも自分だけは自分のすべてを知っている。そしてその自分は、底辺でみんなとつながっているのです。

心の深い層を見れば、人間はみな同じ心でつながっている。そこに触れることができれば、その人の考えていること、やったことなどだれにでも見抜ける。そんな段階が来ているのに、人間はまだ隠そうとしている。

自分のやったことが、あまりに恥ずかしいからです。すべてを嘘にしてしまいたいほど、恥ずかしくてたまらないからです。

だがいつまでもそのままでいることはできますまい。

何もしないでいると、何もないどころではない。今まで築き上げてきたものが一斉に倒れてくる。

そんなことになりますよ。






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望郷の声

2018-07-10 04:18:56 | 短歌





浅き春 黄金なる花 咲き群れて しづかにうたふ 望郷の声





*今日もまた一年前のツイートから持ってきました。とはいえ季節は合いませんね。いつでも、思いついたらそのまま詠んでいるものですから、季節などはあまり考えてはいません。

黄金なる花、とは菜の花のことですね。かのじょはこの花が大好きでした。かのじょが愛していた例の野原には、毎年春浅い時期に菜の花が群れ咲き、かのじょは毎年のように楽しみに見に行っていました。

菜の花とか、ミモザもそうですが、群れ咲く黄色い花というのは、わたしたちに望郷の念を起こさせるのです。似たような風景が、故郷にあるからです。

故郷の記憶は何もなくとも、なつかしさに魂がしぼられる。

そんな花を見ていると、まるで自分が異界にいるような思いにとらわれ、しばしこの世を忘れるが、いつまでもそのままではいはしない。かのじょはほほえんで、また現実にもどって、チラシ配りなどを始めるのですが。ただしばし菜の花の中にいたというだけで、世界が変わっているように思えてしまう。もう少し生きていけるような気がしてくる。またあの花を見に来よう、とそう思えるだけで、つらい仕事も楽しくなったものでした。

この世界は美しいが、あまりにもつらいことがたくさんある。そこで生きていくのは、並大抵のことではない。特に天使にとっては、苦しみ以外のなにものでもありません。神を信じ、美しい人類の未来を信じて、やっていくしかない。

今がどんなに絶望的でも、未来が何も見えなくとも、できることはみなやっていかねばならない。

今は、あのときからすれば幾分事態は進化していますがね、しかしそれもかたつむりのにじりほどのものだ。芯では激変しているが、状況はあまり変ってはいない。

だがわたしたちはやらねばならない。苦しいなどというものではないが、ほんの少しの希望に心を照らして、やっていきましょう。春がくればまた美しい菜の花やミモザの花を見ることができる。

たったそれだけのことでも、わたしたちは今日を生きていくことができる。






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あほうのしこめ

2018-07-09 04:19:25 | 短歌





くはしめが 不幸にならぬ 悔しさを かみてののしる あほうのしこめ





*今日も一年前のツイートから持ってきました。最近の歌はスランプ気味なのでね、詠んではいるが、なかなか気に入ったものができません。我慢のしどころだ。自分が思うように自分をできない時期というのはありますから。少しの間、昔の歌をあげて、なんとかしていきましょう。

これは厳しいですね、もろにそのまま詠んであるという歌です。ふつうこういうことを歌う時は、「鶴ばねの鵜」などをかりて柔らかく隠喩で表現したいものだが、それそのものをそのまま詠ってある。

美人が不幸にならない悔しさをかんで、美人の悪口ばかりをいう、馬鹿な醜女であることよ。

訳すまでもない歌ですが、いちおうやってみました。こうするとまた厳しい。しかしかえってそれが快いとも感じる。実に、美人の悪口をいうブス女のやっていることがひどすぎるからです。

大勢の影に隠れて、自分がやっていることは簡単にばれないということにしていると、ブスは好きなことをやる。好きなことを言う。あることないこと激しく言い募り、なんとかして美人を汚い女にしようとする。それどころか、もっとひどいことをする。

女性を地獄に突き落とすなんてことも平気でやるのだ。これはたまらないほど汚いということを、平気でやるのです。

大勢の馬鹿とは困ったものだ。人を馬鹿にすればどんなことが自分に帰ってくるか、何も知らないからやれるのですが、その馬鹿さ加減がひどいなどというものではない。

あまりにも醜い。

ですからこういう、あからさまにそのままいう歌も、何の罪も生じないわけです。ここまで言っても、誰も反論できない。

ブスは美人が不幸になってくれなければいやなのです。自分が不幸だからです。美人のほうが馬鹿なのだにしないときつすぎるほど、自分が馬鹿だからです。しかしそれは間違いだ。実際は、美しい人ほど賢く、不幸になる業が少ないのです。

いいことを勉強し、高いことができるようになっているからです。それで人々のためにいいことをしてきたからです。そういう人のほうが美しくなるのが普通なのです。

しかしブスというのはそれがいやなものですから、勝手に人から美貌を盗んで自分の方を美人にしてしまう。けれど、内面から見れば自分の醜さがわかるものですから、他の美女を見れば激しく嫉妬する。

それで美人を馬鹿にするためにあらゆる嫌なことをやり、一層醜くなっていくのです。






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りんごの罪

2018-07-08 04:20:36 | 短歌





てふの子の りんごの罪に 宿を借り などてわが世を うましとぞいふ





*これも一年前のツイートからとりました。もとのうたは「借り」が「狩り」になっていましたが、これなんかもリアルタイムでやっていることの証拠ですね。

すぴかの絵つき短歌の歌ですが、芋虫が林檎の中に住んでいるという感じの絵を見て、すらすらと詠んで、そのまますぐに発表したのです。推敲などほとんどしていません。ですからそういう間違いも時々あるのです。まあ、このようにして、間違いを正すことのできる機会もできたことですから、いいことにしましょう。

何でも、がんばってやっていると、未来に何かがあるということなのです。

「てふの子」はもちろん芋虫のことですね。芋虫とか青虫とかいうよりも詩的なので、よく多用します。

芋虫が、林檎の罪の中に宿を借って安住していて、どうして自分の人生を立派だと言えるのか。

まあ芋虫というのは、いつまでも成長しない馬鹿の暗喩です。やろうと思えばやれることもやらないで、低いレベルの自分で安心して、何も努力しないひとのことです。

なんでも、なにもやらない人ほど、自分の世界に安住してそこから出てこないものだ。そしてそういう人ほど、偉そうなことを言うものだ。すべては自分のせいなのに、政府だの世間だのなんだのと、責任をすり替えて、ごたいそうな理屈を述べて、何でもひとのせいにしようとする。

だれかのせいにしなければ、痛すぎる影を、自分は持っているということでしょう。何もしなければ何もない。何もないその人生を、ロハスだのなんだのとすり替えて、いいことにしてしまったりする。悪いのは自分ではないということにするために、人間はいろんな理屈を使うのです。

しかし、いつまでも芋虫のように甘えて、うじうじと苦い葉を噛んでいると、そのうち中身が腐ってきますよ。痛みを我慢して、脱皮をしなければ、新しい自分はありません。なにもできないうちに、人生を終わってしまう。

林檎の罪に宿を借るとは、甘酸っぱい子供の甘えの世界に、安住し続けようとするということでしょう。それはいけないことだから、罪なのだ。

いつまでも子供のままでいることなどできません。大人として、馬鹿をやめ、自分自身として生きることができなければ、もう人間は人間でいることすらできません。






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はしためのつとめ

2018-07-07 04:17:57 | 短歌





はしための つとめをまめに せしものと 神は許しぬ たまゆらのきぬ





*「まめ」は「実」とか「忠実」などと書き、ここでは、まじめなこと、勤勉なこと、という意味です。ほかに健康だとかいう意味もありますね。

これは一年前のツイートにあったもので、すぴかがシンデレラの絵本の挿絵によせて詠んだものです。魔法使いの魔法で、美しいドレスをまとったシンデレラの絵につけてありました。

はしための勤めを真面目にしたものだと、神はゆるしたのだ。ほんのつかのまでも、美しい衣装を着ることを。

魔法は十二時までです。それが終わったら元のはしための衣装に戻らねばならない。そしてまた、真面目にはしためとして働かねばならない。女性にとってはつらいことかもしれませんね。美しく装うことができないのはつらい。けれども、ほんとうは真面目に働いたものでなければ、そんなきれいな衣装を着てはならないのですよ。

最近の女性を見て感づいている人もいるでしょう。あまり上等なきれいな服が似合わない。そんな服を着ていると嫌な感じがする。なぜならその人は、そんな衣装が着れるほど勉強をしていないからなのです。

まじめに勤めて、高いことをしている女性なら、なんとかなるのです。ですが、何の努力もしていない女性が、きれいな服を着ると、いやな感じがする。そんな服を着てはいけないような感じがするのです。

それは人間にも、ほんとうのことが見えるようになってきたからです。逃げることはできない自分の真実が見えるようになってきたからです。

本当に立派な服を着るためには、立派なことをせねばならないのだということが、わかるようになってきたのです。ですから、何も努力していないのに、立派な服を着ている人が、おかしく見えるようになってきたのです。

シンデレラは、毎日、家族のためにはしためのように働いてきました。みんなをきれいにするために努力してきました。ですから神がつかのま、美しい衣装を着ることを許したのです。

お話ではそののち王子様が探しに来て、彼女は立派なお妃さまになれるのですが、ほんとうはシンデレラはまたはしために戻り、ずっとはしためをしていくのです。みんなのために、働いていくのです。

ほんとうはそっちのほうが、ずっと美しくて、幸せだからです。






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白飴のすくひ

2018-07-06 04:22:37 | 短歌





白飴の すくひの夢は かたくして ふたたびあかぬ いはとにこりぬ





*「かたく」は「難く」、「こりぬ」は「凝りぬ」ですね。漢字にすればいいものを、ひらがなで詠むのは、なんとなく漢字で詠むと変えようのない現実を感じる、その厳しさを避けているからかもしれません。それほど現実はきついことになっているのだ。

白飴のあまい救いのゆめは難しく、もう二度とはあかない岩戸の中に凝り固まってしまった。

ご存じの通り、かのじょは人類のすべてを救おうとしていた天使でした。それが可能かどうかは問題ではない。それをやりたいと思う人の心が大事なのだ。実際、かのじょは自分のその本願にしたがってやろうとしていた。

それをすべて拒否して、だめにしてしまったのは人類の方なのです。

白飴というのはもう、かのじょのもたらそうとしていた、全人類の救いの夢の代名詞となってしまいましたね。あまりに甘い。人類の現実はとても難しい。清らかな愛でただひたすら救おうとしていた魂を、ただ美しいのがいやだという理由だけで全否定してしまう。

こんな現実を相手にするには、かのじょよりももっと厳しいことができる天使が必要です。ゾスマのように、冷徹に合と否をを分けられるひとが必要なのです。

しかし全部を救う夢というのが愚か者の幻だというわけではない。実際かのじょは全人類を救える一手を打っているからです。あれを読みさえすれば、人間は自分をどうやって救えばいいかの方法がわかる。あとは、人類自身があの日記を読んで、実践すればいいだけのことなのです。

自分を救うのは自分しかいない。その自分を目覚めさせ、発動し、自分を救うことのできる自分に、自分を変えていくのです。それしかない。いや結局、人類の救済とはそれにつきるのだ。

ゾスマは人間の進歩度によって、ボーダーラインを設け、厳然と人類をふたつに分けるが、かのじょの仕事は分けられたどちらの人間にも配分されている。だれも拒んではいない。だからあれを読みさえすれば、自分を救うことができる自分になれる可能性が発生するのです。

全人類をそのまま段階をあげて救うという、白飴のように甘い救いの夢は、岩戸の中に凝り固まってしまった。しかしその夢が全くかなわないわけではない。人類は二つにわけられるが、いずれは、みなが、本当の自分に目覚めることができる、その可能性はあるのです。






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朝鳥

2018-07-05 04:19:52 | 短歌





ひとのよの めざめをさそふ 朝鳥の かほをかぶりて つひに鳴かずと





*これは一年前のツイートから持ってきました。すぴかが絵付きの短歌をやっていたころのものですね。この歌がついていた絵は、子供のような顔をした人物が、雄鶏の顔を頭にかぶっているというようなものでした。

人の世界の目覚めをさそうという朝鳥の顔をかぶっておきながら、ついにそれは鳴かないという。

つまりは、この世の中にはいろいろな人がいて、次の新しい時代がどうとか、人間社会を次代に導くとか、そういう類のことを言っている人がかなりいるのだが、言っていることの内容は、実に過去の世界からの引用ばかりだったりする。それかそれを絶妙につくり変えたり言い変えたりしているだけだったりするのです。

だれも新しい時代を知らないのです。

もうそれはそこまで来ているというか、ほんとうはもう来ているのだが、だれもそれを見たがらないというか、認めたがらないというか。いつまでも古い世界の価値観を着て、それがどんなにいいか、すばらしいかということばかり言っている。

つまらない女優を最高の美女だとほめそやし、うそでつくりあげたサッカー選手を英雄だともてはやしたりする。世界はまだ狂劇の最中にいるようだ。見ている人は半分目をさまして、もうあきれてきているというのに。

この世を作り上げているなにものかの正体が馬鹿だと気づいた時、人間はどうすればいいかを、ほとんど知らないのです。なぜならそれは今まで経験したこともないようなことだからだ。だから朝鳥のように新たな時代の到来を高らかに歌えるはずがない。時代の変容を感じておずおずと世界を見回しているのが関の山だ。

それならば、新しい時代がどういうものであるかを知っているか、それがどうしたらわかるかを知っている者に教えを請わねばならない。人類はもうそろそろ、人類よりも高い存在などたくさんいることを認めねばなりません。

万物の霊長と奢っていられたのは、まだ人類が幼く、そういう幼児性の自己完全性の意識が必要だったからだ。自分が最高の者でなければ、生きてはいけない時代だったのだ。しかし真実はそうではない。神ははるか高みにいる。

人類を新たな時代に導くために、あらゆる努力をしてくださる、偉大なる存在がいる。

その存在は言うのです。

神を信じてついて来いと。恐れずに、神の胸に飛んで来いと。

人類はまだ、それを信じることができず、古い時代の幻にとまったまま、逡巡しているのです。






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苦しき我

2018-07-04 04:20:54 | 短歌





ねぬなはの 苦しき我を 去らむとて 千重に積みぬる かたなきためし





*「ねぬなはの(根蓴菜の)」は「長き」とか「繰る」「苦し」を呼ぶ枕詞です。ここでは「苦しき」を呼ぶことばとして採用しました。「千重」は「ちへ」、「かたなき」は、効き目がない、どうしようもないという意味です。

苦しい自分から去ろうと、千度も重ね積んできた、どうしようもないためしであることよ。

人間は、自分を去ることなどできません。自分が自分である限り、自分から逃げることはできません。やったこともやらなかったことも、自分の一部として永遠に自分についてくる。それから逃げることはできないのが、自分が自分として生まれてきた宿命です。

しかし、馬鹿というのはこの自分から逃げたくて、あらゆるあがきをするのです。他人の方がよく見えて、他人を馬鹿にしていやなことをしてしまい、そんな自分がまたいやになって、他人と自分をとり変えようとしてしまう。そんなことをすればまた自分がいやなことをしたことになってまた自分が嫌になる。

何度も言っていることですが、これが自分が嫌な人の負のスパイラルです。馬鹿な人間は永遠にこの繰り返しを生きているのです。

自分に目覚めるということは、ほかのだれにもないものをもっているこの本当の自分自身の真実をつかみ、負のスパイラルから脱却することです。解脱とも言います。人間は霊魂が十分に大きくなり、知識も増え、もうそれができるようになるまで進んでいるのです。

蝶の変容に隠喩すれば、蛹の段階に入ったと言ってよい。霊魂が次の段階に進化する準備段階に入ったのです。

ここまでなってきておいて、未だに芋虫のころのような馬鹿をやっているのは痛ましい。もうほとんど空を飛ぶことさえできるようになっているのに、未だに動物的な段階の欲にこだわっているのは愚かしい。人間はもう違うことができるようになっているのに、未だに見栄えや嘘が通用するまぼろしの世界に酔っているのはおかしい。

かのじょの残したカードに、芋虫の憂い、とかいうのがありましたね。もう羽化して蝶々になっているのに、未だに芋虫の真似をしている虫の絵でした。全然わかっていないのです。何もかもがもう変っているのに、人間は未だに、嘘でできたサッカー選手や、偽物の美人女優をもてはやしているのだ。

ああいうものは、いまだに魂が負のスパイラルに迷っている馬鹿なのです。いつまでもみていると馬鹿になりますよ。

千重の馬鹿などやめて、ただひとつの本当の自分の世界へ、飛んでいくことです。






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かたなし

2018-07-03 04:20:22 | 短歌





野の月を 恨みつくして 消しつるを 悔いもかたなき 人の愚かさ





*「かたなし(形無し)」とは、跡形もないとか、効き目がないとかいう意味です。容姿が醜いとか汚いとかいう意味もあります。どちらにしろあまりいい意味ではない。

野の月と呼ばれるあの人を、恨みつくして消してしまったことも、今更に悔いても効き目もない、人の愚かさであることよ。

古い言葉では、どうしようもない、という感じになりますね。四文字で痛い意味を込められるので、覚えておいて損はないでしょう。

四文字以下で強い意のある言葉はできるだけおさえておいたほうがよいです。別に苦しむことはない。人間の記憶力というのは結構たよりになるものだ。印象的な語句に出会うと自然に覚えているものです。

勉強とは積み重ねです。こうして何げなく文章を読んでいるうちにも、いろいろな言葉が自分に染み込んできます。そして力がついてくる。かたなしということはない。ちゃんと形はついてくるものですよ。なんでも自分でやってみることがみそだ。

ただ何にも勉強しないで、馬鹿なことをやりすぎて、取り返しがつかないことになってしまってから、悔いるのでは遅い。正しいことはむさぼるほどに勉強していき、自分を高めていきましょう。そうすれば、後で悔いることが少なくなる。

あなたがたがかのじょを消してしまったのは、ほんとうの美女というものがどういうものであるかをまるで知らなかったからでした。そして美女というものに出会ったらどうすればいいかもまるで知らなかったからでした。

美しい人がどんな美しいことを考えているかが、わかったら、もう二度と同じ過ちはしないようにしましょう。そして再び同じ試練が来た時、正しい態度をすることができたら、あなたがたの勉強はかたなしではなかったということになります。






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