白飴の すくひの夢は かたくして ふたたびあかぬ いはとにこりぬ
*「かたく」は「難く」、「こりぬ」は「凝りぬ」ですね。漢字にすればいいものを、ひらがなで詠むのは、なんとなく漢字で詠むと変えようのない現実を感じる、その厳しさを避けているからかもしれません。それほど現実はきついことになっているのだ。
白飴のあまい救いのゆめは難しく、もう二度とはあかない岩戸の中に凝り固まってしまった。
ご存じの通り、かのじょは人類のすべてを救おうとしていた天使でした。それが可能かどうかは問題ではない。それをやりたいと思う人の心が大事なのだ。実際、かのじょは自分のその本願にしたがってやろうとしていた。
それをすべて拒否して、だめにしてしまったのは人類の方なのです。
白飴というのはもう、かのじょのもたらそうとしていた、全人類の救いの夢の代名詞となってしまいましたね。あまりに甘い。人類の現実はとても難しい。清らかな愛でただひたすら救おうとしていた魂を、ただ美しいのがいやだという理由だけで全否定してしまう。
こんな現実を相手にするには、かのじょよりももっと厳しいことができる天使が必要です。ゾスマのように、冷徹に合と否をを分けられるひとが必要なのです。
しかし全部を救う夢というのが愚か者の幻だというわけではない。実際かのじょは全人類を救える一手を打っているからです。あれを読みさえすれば、人間は自分をどうやって救えばいいかの方法がわかる。あとは、人類自身があの日記を読んで、実践すればいいだけのことなのです。
自分を救うのは自分しかいない。その自分を目覚めさせ、発動し、自分を救うことのできる自分に、自分を変えていくのです。それしかない。いや結局、人類の救済とはそれにつきるのだ。
ゾスマは人間の進歩度によって、ボーダーラインを設け、厳然と人類をふたつに分けるが、かのじょの仕事は分けられたどちらの人間にも配分されている。だれも拒んではいない。だからあれを読みさえすれば、自分を救うことができる自分になれる可能性が発生するのです。
全人類をそのまま段階をあげて救うという、白飴のように甘い救いの夢は、岩戸の中に凝り固まってしまった。しかしその夢が全くかなわないわけではない。人類は二つにわけられるが、いずれは、みなが、本当の自分に目覚めることができる、その可能性はあるのです。