ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

せぬかなし

2017-10-07 04:21:21 | 短歌





鶴羽の 鵜の悲しみは せぬかなし せぬせぬかなし 機だに織らず





*ツイッターでは「鶴羽の鵜(つるばねのう)」などということわざのようなものもできてしまいましたが、蝉の歌から、「せぬせぬしぬ」などの蝉の声をかたどった言い回しなどもできました。これがおもしろいので、活用してみた歌です。

おもしろいから覚えている人もいるでしょう。ミンミンゼミを、「みむみむせむ」と絶妙に言い換えてみたのは、すぴかだったと記憶しています。あれはいいとわたしも思いましたね。

説明する必要もないでしょうが、一応言うのがわたしの流儀です。「みむみむせむ」というのは訳すると、「見よう見ようやろう」ということで、要するに、自ら自分でやろうとすることの意です。この反対が「せぬせぬしぬ」でしたね。「しないしない死のう」。こういうおもしろい言い回しは、活用しないではいられません。

鶴の白い羽をうらやましがって、自分につけてしまった鵜の悲しみというのは、やらないのが悲しいということだ。機を織ることさえしない。

何をやらないのか。それはもちろん、自分です。鶴をうらやましがって、鶴の羽をつけてはみたものの、鵜に鶴のようなことができるわけがない。機を織ることくらい簡単だろうに、それさえしようとしない。

鵜は鵜なりにできることがあり、そっちのほうに似合うような姿をしているものなのだが、鶴の羽などつけてしまうと、それもできない。

それで結局何もできないで、せぬかなし、せぬかなしと鳴いてばかりいるということです。

こういうことはよくありますね。嘘で作った自分を生きている人間がよく、わたしには何もない、と心で叫んでいます。心が読めるようになったあなたがたにもわかるでしょう。

それなりのことをやっているように見えても、それは大方、バックにいるほかの霊がやっていることなのです。だから自分は何もやっていない。それで、やっていても何かおもしろくない。全然自分ではやっていないからです。だから、何もないのです。

自分でやっている人は、それはおもしろいですから、何かがあるのですよ。やればやるほど、自分の力が太って来る。その変化や成長がうれしいから、何かがある、という気がする。

だが、自分では何もやらない人は、いつまでもむなしくて、いつまでも、自分が何もやらないのが悲しい、と嘆いているばかりなのです。






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