ただいまは 憂しとおもへる わがみこそ あすはきのふを 愚かとおもへ
*これも百合の賢治への返歌からとりました。毎日賢治の歌一つを選び、それに三つの歌を返すようにしています。そのうちの一つなのですが、けっこうおもしろいでしょう。
詠み手は深く考えずに、直感的に歌の意を採取してそれに反射的に答えていますよ。三つ詠むのに、実に、五分かかっていません。本当です。
まあ、わたしたちなら、これくらいのことは普通なのです。
別に悲しがる必要はない。あなたがたも勉強してスキルを高めていけば、いずれできるようになります。今は、永遠かとも思える月日を、そこに向かって努力していける自分の幸せを感じてください。
今でなければできないことがあるからです。なんでもやってみて、なんでも吸収していきなさい。おもしろいことがたくさんありますよ。
表題の歌ですが、係り結びの作例ですね。係助詞「こそ」に関連する結びが已然形になります。已然形は命令形と似ているので、現代の感覚でいうと命令されているように感じますが、意は終止形と同じです。命令形に近い形に言うことによって、意を強調しているのです。
今は悲しいと思えるわたしのことだって、明日になれば、昨日は馬鹿だったと、思うのだ。
この歌を返した元の賢治の歌はこれでしたね。
さだめなく 鳥はよぎりぬ うたがひの 鳥はよぎりぬ あけがたの窓
繰り返しの語句が、詠み手の苦しい迷いに思えるのです。きっと賢治は苦悩の日々の中で、時に自分は間違っているのではないかと、思ったことが何度かあったに違いない。
苦難の連続の人生でしたから。いろいろな人に馬鹿にされていた。真実自分は真心から人のためにやっているのだが、それがなぜかまっすぐに人に伝わらない。そういう日々の中では、真面目な人は自分に疑問を持つのです。
俺が悪いのか。間違っているのか。ならばどこが間違っているのか。
馬鹿な人は、こういう風に考えることができません。頭から、自分は正しいと信じている。間違っていても、正しいと信じている。自分に自信がないくせに、その自分を疑うということはしないのだ。
ずいぶんと賢治も苦しんだようだ。一度となく、間違っているのは世間ではなく俺なのかと、疑いを持ったに違いない。
そんな心を感じた詠み手が、表題の歌を歌ったのです。
今日は迷っている自分も、明日になればまた思い直すことができるだろう。やはり自分は正しいのだと。愛のためにまことをやろうとしている自分の方が正しいのだと。
たとえその人生が非業に終わっても、やりぬいたのは、賢治が本当の自分の愛を、信じていたからです。
時に迷うことがあっても。