<記録と記憶>
釣り人の中には、釣り日誌をつけている人が少なくない。
いつ、どこへ、何を釣りに行き、どんな仕掛けで、何cmの魚をどれぐらい釣り上げたのか。さらに、当日の天候や潮回り、よく釣れた時間帯などなど、几帳面な人ほど克明な記録を残しているようなのである。
ところが、生来の横着者であるぼくなどは、釣り日誌などという記録をほとんど残していない。幾度かそれらしきことをしかけたことはあったが、いずれも長くは続かなかった。
せいぜい、スケジュールを書き込んだ手帳に行動記録が残っているぐらいのものである。
必要に迫られた際、過去の釣行を紐解く方法は2つ。
1つは、脱稿済みの拙稿をパソコンの送稿記録の中から探して内容に目を通したり、最近のことなら自らのブログを遡り読み返してみる。
もう1つは、釣行中に撮った写真を見返すこと。
昔から写真好きだったせいもあるのだろう、過去の写真を見ると、撮った際の背景が意外なほどはっきり記憶に残っている。
写真がフィルムからデジタルに換わり、記憶としての刻まれ方が若干弱まったことは否めないが、記録と記憶がほぼ一致していることに変わりはない。
フィルム時代にはもっぱら一眼レフを釣り具バッグに押し込み持ち歩き、ガサゴソ取り出してはパチリとやっていたのだが、今はポケットにコンパクトカメラを忍ばせておき、気軽に取り出してはシャッターを切っている。
記録機械としてばかりでなく、メモ帖感覚ですらある。
その記録とメモをパソコンに取り込み、簡単な文章とともにブログにアップするのが、今現在のぼくのやり方。まさに日記感覚である。
写真の内容は、魚を手にニッコリ笑ってパチリとやる“ニコパチ”ばかりでなく、季節や釣りに関わる周辺情報をも盛り込もうと意識している。
季節を感じられるのは、草木や花。日中の空に白々と浮かんだ月の形を見れば、潮回りなどは一目瞭然。
草木や花を見て季節を感じ、月の形や位置で潮回りや潮時を知り、太陽や星の位置で方角を確認する釣り人でいたいのである。
風流な十五夜の月は大潮の証。半月は小潮。月が頭上真上にくれば干潮時。
ただし、残念ながら夜の月を手軽かつ正確にコンパクトカメラで写すのは難しい。
もう1つぼくが頑なに決めているのは、“ニコパチ”写真を撮る際、ウデを伸ばし魚を突き出したりしないこと。
魚の大きさを正確に記録として残したいからである。
だれでも簡単に写真が加工できる時代だからこそ、なおさら等身大の描写にこだわりたいと考えているのだ。
記録と記憶を一致させてこそ、写真が釣り日誌としての価値を持つのである。
(2009年7月30日)