むくむく通信

これからの生活スタイルを考えていきましょう!自然を愛する情報を発信します。

食べることの自給自足について

2014-04-14 | 自給自足のすすめ
食べることは人の生存にとって必須条件ですよね。
この食べ物について、いろいろな問題が提起されています。
その一つが、食ビジネスのあり方やファーストフードのあり方です。

数年前には、スローフードのムーブメントが移入されてきました。
それと呼応するようにルーラルライフのムーブメントが起こってきています。
ローカルエリア・ネットワークと自給自足のムーブメントです。

スローライフ、地産地消、環境にやさしい・・・
いろいろと流行語のようにしてあたらしい言葉が生み出されてきました。
食べることの根本を見直してみようというのが、根底にあります。

その上で、個人の生き方に着目しているのが、むくむく通信社です。
あたらしいライフスタイルを自分のものにする。
それが目的です。

グローバル化とは、資本の集中化だと理解しています。
資本の集中が個人にもたらす結果は、個人をいっそう拘束していくことになる。
労働は必要だけど、心をがんじがらめにしてしまう。
それに競争に勝つことだけが優先される価値観です。

そのことから開放されるためには、自ら生産する必要がある。
このように考えているのです。
食べることの自給自足とは、心の開放につながると仮説しています。
2006.1.14 nakagawa

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身体を養うお百姓&心を養うアート

2014-04-06 | 自給自足のすすめ
<お百姓すること、アートすること>

総合文化研究の枠組みでは、生産と消費、発信と交流、
この二つの領域二つの系を、総合して研究することとしています。
個人が自立する、そのためのプロセスです。

生産と消費のサイクルは、自分の食べ物を生産し消費します。
自給自足、地産地消、そのようなキャッチフレーズで流通しています。
このような考え方の背景には、いくつかの抵抗概念があります。

その大きな抵抗概念は、グローバル化し、エコノミック化していくことへの抵抗です。
そこで、あらためて個人とはなにか、個人の自立の必要性がテーマになるのです。
グローバル化、エコノミック化の未来予測に、資本の集中、生産手段の集中があります。

この未来予測では、個人がますます流動化し、根無し草のような不安と従属を強いられる。
抵抗概念とは、このことへの抵抗で、個人を安定させ自立させようとすることなのです。

その抵抗概念を、具体的に実践していくムーブメントが、表題のお百姓すること、アートすることなのです。
この実践を個人レベルで捉えて、地域&ネットワーク共同体に成熟させる。
まあ、基本的には、このように考えているのです。

食料生産が個人の手を離れ、アグリ資本によって生産手段を独占されます。
アート作品が第二貨幣として経済システムに組み入れられています。
この現状と未来予測の中では、個人の自立と解放はありえず、個人の、資本への従属が顕著になる。

もちろん、自立とはどんな状態を云うのかとか、個人がどうあるべきか、と云った議論が、
同時並行的に行われていかなければならないのですが・・・
総合文化研究所では、カフェ&プレスの場を設定します。

カフェ&プレスとは、地域&ネットワーク共同体の中心となる場の概念です。
自立した個人が、生産に携わり、消費し、そんな情報を発信し交流する場。
このような機能を持った場を生成していこうと考えているのです。

ヒトには、身体と心が共存してあります。
自立する個人に必要なことが、お百姓をし、アートすることだと思うのです。
2005.6.20 shigeo nakagawa

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食と農園について

2014-03-30 | 自給自足のすすめ
人間の生存に必要なものの第一条件は食料の確保です。
それから住居と共同生活体が必要ですね。
人間社会が進化して、これからも進化し続けるとしても、食料の確保は生存のための必要条件です。

現代は資本集中のグローバル化が進展している真っ最中です。
資本集中の途上にある世界経済構造です。
この流れが人間に何をもたらしていくかといえば、一層の欲求不満です。
あれも欲しい、これも欲しい、欲望は無限に増大していきます。
この欲望を手に入れようとして競争を生むのですが、すでに過度の競争原理が人のこころを蝕んでいくように思います。

少数の勝者と大多数の敗者、そもそも勝者敗者とゆう捉え方のなかにあることで、人の心は病む。
食べるものをつくる農園を手に入れるとゆうのが、現実の競争からの逃避ではなくて、新たな人間の在り方をつくるものでありたい。

いま、新たな生産者組織が組まれ、連携しながら、生産と消費の形が出来てきています。
写真は、菊菜のハウス栽培をしている現場です。
個人が自己防衛のために自家菜園をつくる。
これの発展形として、市場経済の中に拡大していく流通です。
生産者の反逆とゆうと大げさかな、農産物・食料の生産者、専業者が自立しようとしているんです。

ここでは無農薬野菜を作っています。
無農薬で無理なら減農薬、消費者へ提供する際には、その野菜の農薬使用回数を表示します。
化学肥料や農薬を使った野菜、遺伝子を組み替えた野菜・・・、こんなのが主流になってきた食料生産の現場です。

自然のかたちに戻そう、これが現代の良心的なコンセプトですね。
食と農園のありかたを求める。
人間回復へのターニングポイントとして捉えることが求められてると思います。

自然環境を取り戻していく運動。
その一つとして野菜の生産と供給をしていく取り組みが、ここにあります。
なによりも個人が勝者敗者の枠組みを壊していくための試みに繋げて、
人間解放をめざしていく、なんかこれはニュー・ルネサンスですね~

nakagawa shigeo 2005.3.10




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食と農/共同農園について

2014-03-15 | 自給自足のすすめ
食べることは、生きることの基本です。
自分の食べるものを自分で作りだすことを提案します。
つまり自分のための生産活動をする、ということです。
自分と自分たち、個人と共同体。
遠い関係じゃなくて、近い関係をつくりだしていきましょ!

食べるものって生きていくのにいちばん大切なものですよね。
この大切なものを自分たちの手で作り出すということが必要だと思うんです。
というのもぼくたちは消費者です。
生産は大きな資本の手に集約されていきつつあります。
地球規模で生産と流通システムが進んできていますし、
このままではいっそうの集約化が進んでいくのではないでしょうか。

生産の手段を自分の手に持つということは、自分が自立するということの基本だと思うんです。

こんなこと言い出すと、なにか難しいことを考えてるように思う人がいるかもしれません。
そんな人が悩んでいます「私のいる場所は何処?」なんて思ってますね。
私のいる場所を作り出すんです。
探していたって悩みが増すだけ、なんの解決にもなりません。
一生懸命働いてお金を稼いで生活してるんですけど、
食べるために働いてるみたいで働いていることに歓びが見出せない、なんてね。

そこで提案、食べるものを作り出しましょ!
生産することを手がけだしましょ!
ひとりで出来ないなら共同でやりだしましょ!

生産すること、このことの提案なんです。
すでに生産することや消費のための流通のところで、いろいろな試みがあります。
今年の春からいままでに、ぼくが知ったところでは、
京都農塾、NPO京都自給ネットワーク、るり渓やぎ農園、このようなグループがありますね。

ぼく自身はこの3年間自分で少しのはたけを耕してきました。
そこで分かってきたことが、個人でやるより共同でやるほうがいい!
このことなんです。
生産と消費のネットワークを自分たちで作り出すこと、
その関係のなかで自分の生活基盤を作り出すこと、このように思いだしています。

先にいいました「自分のいる場所」を作り出すんです。
大きな資本に集約されていく中で「自分のいる場所」を探したって、
こころの深くまで満たされることはないと考えています。

つまり消費者であるかぎり「自分のいる場所」は見つからない。
生産することを自分のものにしていくことで「自分のいる場所」を作り出せる。
このような思いが強まってきて、いまは確信するようになりました。

少なくとも自分が生産と消費のサイクルに携わることで、
これまでよりは確かに「自分のいる場所」が確保できるように思えています。

むくむく通信社のコンセプトは、このことの情報を提供することだと思っています。
自分の食べるものを作り出すことを始めていきましょ~!

nakagawa shigeo 2004.12.28







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食と農/自給自足をめざして

2014-03-05 | 自給自足のすすめ
自給自足をめざす!というのは一つのスローガンですね。
自分でつくって自分で食べるのは食料品。
主には農産物ということになります。

自給自足をめざすとき、その基本的な考えは、この農産物を作り出すシステムを考えることかと思います。

自給自足といってもいくつかのレベルがあると考えています。
その第一は、自分が生存するための食料を自分で調達するというレベル。
これは仙人隠遁生活(笑)ですかね~

世捨て人的なイメージがついてきます。
この場合、たとえ食料が確保できたとしても、生存に必要なものって食料だけじゃないですから、
食料以外の生活必需品をどうやって調達するか、ですね。
やはり、現代人には、貨幣経済のなかで部分自給自足しかできないと思います。

その第二は、共同で創りあげる自給自足体制です。
この共同体自給自足体制は、いってみれば貨幣経済が未熟だったころの体制です。

でもそのころの体制っていうのは、封建制といってますように、
ヒト個人の尊厳とか幸福という考えなんて見かけませんね。
奴隷制みたいな体制でした。

21世紀に入った初頭の現在として、自給自足ということを捉えることは、なにを意味するのでしょうね。
この意味するものを紡ぎ出さないといけませんね。

そこで出てくるのが、現状と近未来の予測です。
ヒト個人が、このままの状態でいけば、どのような立場になるのかな~
この立場をイメージすることが必要だと思います。

ここでは、問題提起にとどめざるをえないのですが、
ヒト個人の主体が大きな全体に巻き込まれてしまってのロボット化。
まだ生命体そのものを生み出す技術は持っていませんが、
ロボット工学の進化は、別の生命体を生み出す予感がします。
人工知能と人工身体です。

新しい人類を超える生命を生み出す可能性ですね。
予感的にいえば、これを否定することができないです。

自給自足をめざす!ということの意味は、これだけじゃありません。
近視的にみれば、グローバル化の進展で生産手段が一元化する。
生産手段が一元化するということは、ヒト個人が一元管理されることを意味します。

ボク個人の感情として、これは困るんです。
そう感情の問題です。
感情の問題というのも時代と共に変化しますから、現時点での問題です。

そのように捉えると、自給自足をめざす!というのも、21世紀初頭の現時点でのテーマかも知れません。
ヒトの現在的クローズアップされる問題ってあるじゃないですか。
たとえば、リストカットする少女。
登校拒否する少年少女。
社会制度への入り口にたったヒトが、なにか社会拒否する行動です。

現時点で、やはりこれは変な動向です、クローズアップされるべき問題です。
やっぱり、仕方が無いこととして容認するわけにはいきません。
これらの行動の背景に、感情があるように思われます。

この感情というものをどのように受け止めていくのか。
そのようなことにならない成長のあり方はないものか?

自給自足をめざす!という背景には、このような社会現象を解決する糸口として捉える、捉え方をしています。

ここでのこれらの提案は、全く十分ではありません。
おぼろげに見えてきている、現象への対処法なのです。

2004.10.27

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自給自足のすすめ-7-

2014-02-20 | 自給自足のすすめ
自分の食べるもんぐらい自分で賄えれば、かなりの自由が得られる!
つまりお金をたくさん儲けなくても、生活やっていけるんですからね。

生活のスタイルには各人各様、さまざまです。
でも、たぶん、誰もが自分の好きなように生きていきたい!って思う。
この「自分の好きなように」生きることのなかに、自給自足を加えよう。

でも、これは、考えれば考えるほどに難しいことのように思います。
というのも現代社会で生きる方法ってなると、まず第一にお金が必要です。
それもかなり大量に稼ぎださないとやってられないじゃん、ね。

家族の平均年収が、いかほどかは存じませんが、
財産無く、結婚して夫婦だけの稼ぎで所帯を作っていくとなると、
夫婦に子供2~3人の所帯で、マイホームを手にして、
子供を大学まで進めさせたとしたら・・・
単純に年収1000万円??!!!は、稼ぎ出さんとやってられんでしょね。

いやいや、中心にいらっしゃるお人は、そんな金額どころじゃなくて、
もっと高額所得者ですよね(笑)

平均的生活者の実態は、どんなもんでしょうね。
親からの資産なしのゼロ出発で、平均的サラリーマン像です。
そのサラリーマン家族、核家族の像です。
決して貧困ではないですが、豊かでもないですね。

ええ、そのなかで何の苦労も苦痛も無く生きていけたらラッキー人生!
でも、大方は苦労と苦痛をなめながらの生活を延々と続けてる。
いや、子供は宝です、もう子供と一緒に居るときってさいこ~幸せ。
いいんです、それで、マイホームパパ、ママ。

でも、ある瞬間!そんなんじゃない~~、自由が欲しい!
なんてことに目覚めてしまって、そっからの脱出を試みようとするときです。
遥か向こうに自給自足、じきゅうじそく、なんて熟語が漂ってのが見えるんです。
で、山へ入って、くるみを拾う、まさに原始生活らしさを夢想している自分発見!

(あい農学校blogに連載 2004.10.26)


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自給自足のすすめ-6-

2014-02-19 | 自給自足のすすめ
自給自足生活を考えていくとき、
農産物を作る栽培する、ということだけではなくて、
山菜や木の実を採取して食べる、ということがあります。

ここにあるのは胡桃と銀杏です。
ちょうど今の季節は秋。
胡桃が採れだしますね。

ここにはありませんが栗が採れだしますね。
ムカゴも収穫どきになってきています。
もう少し秋が深まると、銀杏が採れます。

木の実採取というのは、いたって原始的な生活です。
山へ入れば、食べられるものが沢山あります。
野菜栽培以前の食料調達の方法です。

食用の山菜採取を研究することと、木の実採取を研究すること。
山菜・木の実を採取し加工することを研究していくこと。
当然のこと、これまであった田舎生活のノウハウを生かす工夫です。
それと同時に、現代風アレンジも必要ですね。

あい農学校では、そのような創意工夫を新たに蘇えらせようと思います。
自給自足を実践するためにも、必要なノウハウだと思っています。




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自給自足のすすめ-5-

2014-02-16 | 自給自足のすすめ
秋になると山には木の実が生ります。
春には山菜摘みを、秋は木の実拾いを、ってところですね。
そこで胡桃-くるみ-の実のはなしです。

胡桃はヒト集団が採取生活していた頃からの食べものですってね。
やまに入ると水が流れている場所、よく沢の近くに胡桃の木があります。
自生の胡桃は、栽培種で販売されている胡桃より、小さい小粒です。
自生だからその環境に左右されるのでしょうね。

胡桃って外形が梅の実によく似ていますね。
ということからゆうと、梅の種、ってところですね。
胡桃の実が木から落ちて土の上で黒ずんできた皮の種。
この種の中味を食べるんですね。
脂質がけっこう多くて食べてもあぶらっぽい味です。

自給自足の方へと志向していくとき、
基本には自然のものを採取することを考えます。
野菜栽培とか家畜飼育というのに先行します。
野山にある自生の食べものは生態系そのものです。
その生態系秩序にそのままヒト個人の身体を置くことになります。
この態度が根本・基本ではないかと考えています。

川には小魚が棲み、山には山菜や木の実が自生する。
そこにヒトの生活根拠を置くということですから、
現代にあっては、必然的に環境問題を考えていかないとダメですね。
野菜栽培や主食生産にしても、機械を使わず人力に依存するとなると、
たとえば1反の田んぼで200キロ(以上)の米が収穫できるとして、
家族4人分の主食(一人年60キロ平均)がまかなえる量なんですね。

自給自足の方へ、といっても、実践していくには、
現代人の体力でどこまで可能か!
なんてことも考えていかないといけませんですね。





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自給自足のすすめ-4-

2014-02-13 | 自給自足のすすめ
ヒト個人が、こころとからだを委ねる社会のなかで、
自給自足の方へ思考をめぐらせていくのは何故?って考えています。

大阪府内の不登校小・中学生の数は約1万人との報道がありました。
全国的にはどれくらいの数の不登校者数があるのでしょうか?
なぜ、学校へ行けなくなるのでしょうね、理屈じゃないと思います。
こころとからだを社会(学校)に委ねることが出来なくなる心情ですね。

不登校やリスカする中学生が書き送ってくるHPのメッセージは、
泥沼に落ち込んでいくこころを、なんとか自分で救い出だそうとの叫び、と受けとます。
大人が自給自足の方へ思考をめぐらす背景は、
学童における不登校の大人版であるような気がします。

現代の社会が内蔵しているなにかが原因なのだろうと思います。
競争が生み出す弊害かもしれないし、期待への過剰反応かもしれないし、
おおむね、内面やさしくって頭のいい子が多いんじゃないんでしょうか?

自給自足という方向は、現代社会の価値観と異にします。
現代社会は、ヒト個人に消費者であることを求めています。
生産手段は集中してきており、ヒト個人の手許にはない現状ですね。

このような視点に立ってみれば逆説的に、
みずからが生産者になろうとする欲望の表れだと思っています。
農業者になろうという労働力への形態ではなくて、
みずからの自立を求めている欲動の表れではないでしょうか?

この考えは、わたし自身の体験にもとづくイメージ化です。
ここで自給自足なんてことを目指すことじたい、
家計の経済を維持することと、稼ぐための競走への人間不信、
これの狭間に置かれた現代人のストレスですかね。

人間社会のなかでのヒト個人の良心が自給自足の方へ向わせるのだとしたら、
これは近未来において、正当化していくべき生活のあり方だと思います。
不登校、リスカ、出社拒否・・・その先にみえる救い手が、
みずからを生産者に仕立てていく発想の、具体的に実現可能な社会が必要ですね。

あい農学校のコンセプトは、フリースクールです。
フリースクールではありますが、既存社会へ編入させるためのスクールではないです。
既存社会に参入しなくても、ヒト個人が生存できる新しい社会ネットワークのスクールです。
あと少し年月がすぎれば、その年月の間に理解者が増えてくることと思っています。
(この文が書かれたのは2004年です。)



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自給自足のすすめ-3-

2014-02-04 | 自給自足のすすめ
なにはともあれ自給自足することを考え出すと難問にぶつかります。
主食となるもの、副食となるもの、動物性蛋白源なんかをどうする。
先にも記しましたが、自給自足への道は貨幣経済から遠ざかることです。
そうするとお金を出さないと手に入らないものばっかりですね。
それをどのようにして自前で食料の自給率を100%にするか、ですね。

ヘンリー・D・ソローは、1845年からウオールデン池畔に小屋を建て始めます。
2年間少しをそこに滞在して自給自足を体験しますが(「森の生活」を参照)。
そこで、経済に多くの関心を寄せて記述しているのですが、
貨幣から遠ざかれるとしてもゼロではないですね。
貨幣での交換は最小限にしていく、ということでした。

参考文献となるソローの記録にしても最小限の貨幣が必要としています。
でもね、いまあらためて自給自足の可能性を見つめるというのは、
現代社会が抱えているヒト個人をめぐる諸問題を見つめる、
ということにつながるんですね。

個人所有が徹底し貨幣経済の社会にあって、
土地の所有をどうするのか、
作物の種をどうして手に入れるのか、
などなどの問題がでてきますね。

そこで究極の理想としての自給自足を語って、
その形にどのようにして近づけることが出来るかが、
実践していく途上で明確になってくるものと思っています。



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自給自足のすすめ-2-

2014-01-30 | 自給自足のすすめ
食料生産の分野で自給自足をめざす意識のなかに、
アグリ資本に握られた食料の大量生産への抵抗または対抗ということがあります。

この抵抗・対抗のネットワークは、他のムーブメントと歩調を合わせながらです。
1989年以降の、また2001.9.11以降の新しいムーブメントとして捉えることができます。
いうまでもなくアメリカ型グローバリゼーションへの対抗軸としての視点です。

確かにわたしが-自給自足のすすめ-というときこの潮流を理解したいと思います。
環境保護や人間解放へのムーブメントの一環として捉えることを理解します。
でも、ここで大上段に事を語ったとしてもむなしく思ってもいます。

目指すところの環境保護や人間解放といっても、メガ資本主義という、
その根底のシステムをどのように変換するのか、
という次のビジョンが見いだせないからです。

このような現状ですから、まず実践をやっていこうと呼びかけます。
ムーブメントが先にあって、そのために行動を起こす、ではなくてです。
声なき声と括られてきた声なき声のヒト個人が、具体的な現場に参加する。
そのようば仕組みを作っていきたいな~と思っているのです。

正直、ヒトの行動って理屈やなくて感情なんですね。
そのことが気持ちよかったら、必然的にその流れになってくる。
そこで、わたしはみずからの体験をつくりながら、
その体験の気持を知らせてあげようと思っているんです。

山へ入って採取生活がどこまで可能か、とか、家畜を飼い、はたけを耕し、
自然循環がどこまで可能なんだろう、とか、
肌身をもって体験していくということを、お勧めしています。

声なき声が、声になるためには、声になる手段を手に入れることも考えなくてはならないです。
写真学校、文学校、農学校の三点セットを使いこなして、その気をもって学びあいをしましょう!

ここが出発点かな~、金メダルを目指さなくてもいいんです。



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自給自足のすすめ-1-

2014-01-27 | 自給自足のすすめ
自給自足のすすめ-1-

食品の安全性についての議論があります。
遺伝子組み換え食品、化学肥料、農薬。
身体への食料補給はヒト生存の基礎ですから無関心でいられません。
無関心ごとではないから規格化が必要である。
そこでJAS法(日本農林規格法)が制定されている。

自家菜園で化学肥料や農薬を使わないで農作物をつくるとどうなんですか?
ここで採れた野菜は有機無農薬栽培です。
第三者機関による認定がなくても、JAS表示しなくても有機無農薬栽培の野菜です。
ちょっと無機質な話題になっていますが、食品をめぐる話題を展開していくのに、
このことをふれずに通過できないように思うので、ここから始めます。

今日から断続的にですが、「自給自足のすすめ」をシリーズで掲載していきます。
まずは定義からします。
自分が食べるものは自分でつくる、これ自給自足です。
自分たちが食べるものを自分たちでつくる、これ共同自給自足です。
そしたら人間がつくる食べものだから地球上の食料は共同自給自足じゃないか?

いいえ、ここでいう自給自足とは、貨幣が伴わないで生産と消費が行われることです。
このような側面で定義しておきます。
つまり、自分たちでつくって自分たちで食べるなかで、お金がいらないということです。
この条件を軸に、自給自足の可能性を検証していきたいと考えています。
これが第一の切り口です。

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