むくむく通信

これからの生活スタイルを考えていきましょう!自然を愛する情報を発信します。

自然の方へ-19-

2013-11-13 | 自然の方へ
November 08, 2004
田舎暮らしの方へ-2-

田舎暮らしを考えるために、ボクの体験談をお話していきます。
なにかの参考になれば幸いです。
住む場所の選定ですが、ボクの場合、彼女の実家が金沢なので、その近くを選びました。
現在、主たる生活地は京都市内にあります。
田舎暮らしを考え出したのが10数年前です。

さて、どの場所がいいかな~、新聞で売り物件の詮索をしました。
仕事を離れて悠々自適生活を、なんてこと考えてましたから、
京都からの離れることは、当然のことですが、
近郊地なら、京都府北部とか滋賀県内、和歌山、岡山・・・
里山がいいのか、海辺がいいのか、
選択の幅を決めなければいけませんね。

それから、田舎暮らしの具体的な中味です。
お百姓をするのかどうか、つまり農業に従事するのかどうかですね。
現金収入を得るための仕事を現場にどう作るか、があります。
ボクの場合は、専業農家はできない、はたけ仕事を主にはできないな~。
もう40代になっておりましたから、10年計画で、50代半ばくらいに移住する。
それまでに、どこにいても多少収入が見込める仕事を作り出そう!

そうして、候補地を絞って土地を選定しました。
彼女の実家に近い土地、そこには親類縁者がいますから、
助け合って生活していくには、何かと都合いいかとの思いです。

山の中の、あるいは野原の一軒屋というのは、電気も水道もない場所です。
でも、これでは困ります。
といって古~い集落の中へ入るのも新参者で入りにくい。
そこで、都会地郊外の団地要素のある場所を選びました。

地場の不動産屋を何件か訪問し、親切そうな不動産屋をみつけました。
土地130坪、坪単価7万円ほどの物件がありましたので、そこに決めました。
土地は原野、公示価格は坪3000円ですが売買値段はその20数倍ですね。
公示価格が低いということは、固定資産税が安い!これは知恵ですね。
建物はどうする?
次回は住居についての話をします。

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自然の方へ-18-

2013-11-12 | 自然の方へ
November 06, 2004
田舎暮らしの方へ-1-

具体的に、都会生活から田舎暮らしへと生活スタイルを変えようと思うと、いくつもの山を越えなくてはいけないのが、現状だと思います。たとえば、現金を得る仕事をどうするのか、農業でやっていけるのだろうか。それ以前に、田舎暮らしを実行するには、手持ち資金がどれほどいるのか、などお金にまつわることが多数あります。この「田舎暮らしの方へ」シリーズでは、そんな問題を考えながら、具体的な、田舎暮らしの設計図を描いていきたいと思っています。というのもターゲットは、田舎を持たない都会人が、都会人であるから故、田舎暮らしを夢見ることが多いからです。

最近の傾向として、気持ちのなかにルーラル化現象が起こってきていませんか?ここで”田舎”って言葉つかいますが、差別的に使うことではありません。かって、都市と田舎、雅と鄙、中央と地方というように、真ん中と周辺があって、真ん中は価値の中心、周辺ほど価値が低い、こんな捉え方が代々続いてきたと思いますが、いまや、この価値軸そのものを変化させていくものとして、田舎暮らしということを捉えていきたいと思っているんです。

この発想は、米国が先にあってこちらが従属する関係を、断ち切ろうとする考えと連動するものであると思います。また、世界のこちらとあちらを区分する境界を、ゆるやかになくしていく実践の方法でもあると思います。とはいっても、具体的に、行動するには多くのリスクを背負います。このリスクは、都会生活に慣れた場所から田舎生活を考える視点です。経済活動の中心は、お金所有の多寡です。お金優先の考え方をリニューアルすることが必要です。それから、権威という代物です、これもリニューアルです。いい会社に勤めることで優位に立つ、という無意識の意識の払拭ですね。このような案件にリニューアルできれば、リスクはなくなります。ということで、田舎暮らしを考えてる人、いっしょに考えましょう。新しい生活スタイルは、新しい自分を作り出します。

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自然の方へ-17-

2013-11-06 | 自然の方へ
共同運営のはたけ
2005.9.13

野菜やお米をつくる!
それも有志が共同して、野菜やお米を生産し、分配する!

食べることは、人が生存していく基本です。ところでこの「食」について考えていくと、様々に不条理なことが見え隠れしてきます。食の問題は、生活者の大きな関心ごとですね。
消費者から生産者へ。目に見える現場で、野菜やお米をつくる。自分たちで栽培する野菜やお米には、有機肥料が使われて、農薬は使っていない。このことが確認できます。

野菜作りやお米作りの現場の自然環境が汚染されている。この汚染環境は、いますぐ個人で解決できることではないですが、個人がこれ以上汚染させない方法で食料を作る。

それにしても自分の目で確認しないと信頼できない。こんな気持ちを作り出してしまった食環境です。そんなことを思いながら、共同で運営するはたけです。
そこで採れるのは、有機肥料で無農薬の野菜です。そして生産の現場を共有することで信頼関係が生まれてくるように思っています。

赤熊自然農園
2005.8.29

自然農法で野菜を栽培し、消費する人に野菜を直販する「赤熊自然農園」があります。
農園の所在地は、京都府亀岡市東本梅町赤熊西山口20(TEL0771-26-2325)

ボクは、すでに何度か訪問して、はたけを見せていただいて、ある種の感動を覚えます。というのも農園主宰者判野さんの考え方、自然と人間の関係、自然と植物の関係、もちろん、人と人の関係のあり方・・・等々のベースに自然農法を捉えて実践されていることに、感動するわけです。

不耕起栽培。肥料や水をやらない。野菜の生長は、自然の成り行きにまかせる。野菜自身の力で成長を見守る。もちろん何もしないで野菜が成長するわけがないので、気配りや手入れは並以上だと思います。

様々な人の交流拠点としても機能しだしている「赤熊自然農園」です。
いま、ここに集うなかで、煉瓦パン釜を設計し制作途中の人もいます。はたけの一部を借り受けて野菜栽培をする人もいます。
食料を自給自足する。地域で生産と消費をする。あい農学校のコンセプトと交差する軸がいくつもあります。暫くは、取材をさせていただきながら、自然農法の勉強をさせていただきたいと思っています。

農の共同作業
2005.7.17

食べ物を作ることをテーマに、あい農学校の記事を書いています。
それも主には、共同作業として農作物をつくる話です。
いまの社会状況にあって、共同農園のもつ意味というのは大きいと思っています。

ヒト個人が土に触れる身体体験で五感を引き出し見直す、ということがあります。
それに自分の食べるものを自分で作るという、自給自足的体験があります。
それらを超えて、共同作業の持つ意味は、ちょっと大袈裟にいえばです。
人類が農耕手段を手に入れて、集落をつくっていくプロセスの再現作業です。

どのくらいの歴史的時間があるのでしょう?
農耕を始めて1万年くらいの歴史があるのだと聞き(読み)ました。
もちろん人間の文化力が成してきた果実をかじる現代社会です。
でも、あらためて共同作業を捉えてみると、その原点への想いを掻きたてます。

ヒトの心の奥のほうに自然と交感する領域があるとか、ですね。
土に触れてヒトと交わる体験、共同作業っていうのは、この体験?
いまはただ、想像するだけしかできないんですが、
繋がってるって想うだけでも、ハッピーじゃないでしょうか、ね。

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自然の方へ-16-

2013-11-05 | 自然の方へ
食料の自給について
2005.12.5

農作物について、ここまで大量生産化や合理化が進められてくると、その反対の方向へと動くことが一つのムーブメントになります。少量生産化と無駄化の方へです。ここで云う、無駄化とは、手作りに徹していく方向だと考えればいいですね。

生産者と消費者という二極化で、貨幣を介在する流通を前提に置くと、大量生産と合理化により、コストを下げるという発想が優先されます。だから、生産、流通、消費という分断化されたサイクルを一体のものとして捉えていくことで、発想の転換をおこなえないかと考えるわけです。

生産・流通・消費を一体化する方向は、自給自足を目指すことになります。じゃ~この自給自足を達成するのに、どれくらいの規模の人間集団が最小限必要なのだろうか。ひとりでは生きられないのだとしたら、どれほどの規模があれば、生きられるのだろうか。

京都農塾で共同作業をしながら、無駄を積み重ねて少量生産を行いつつあるのですが、ふっとそんなことを考えていました。

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自然の方へ-15-

2013-11-04 | 自然の方へ
農産物をわが手に
2006.1.11

現代の消費生活を支える根本は貨幣、つまりお金です。価値の基準は、金額の多寡です。なかには名誉が基準だというのもありますが、基本は貨幣です。もちろん生産と消費が一体として構成される社会ですから、会社勤めして働くというのも、生産に関与していることには違いないのですが・・・。

あい農学校では、貨幣が根本の社会から、いかにして逸脱するかを考えていきます。その具体的な手段を手に入れることを提案しています。食べることは生存の基本です。だから食べ物を生産します。農生産です。これは発想の転換です。生産手段を手に入れることは、消費生活から生産生活への発想の転換です。

このブログは、そういった生産現場をつくりだそうとしている現場からの報告です。その目的は、乖離してしまった心と体を一体のものとして成熟させていく試みでもあると考えています。

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自然の方へ-14-

2013-11-01 | 自然の方へ
自給自足ということ-4-
2006.5.20

「まるエコ」というのがあります。まるごとエコロジーの略で、まるエコです。そのまるエコを概念化して、具体的な現場に仕立て上げようという目論見が、まるエコ塾です。そこで、まるエコとはなにか、と議論するわけです。まるエコは、心の問題でもあり、経済の問題でもあると考えています。自給自足をめざす方向で、物事を捉えていくところに、まるエコという概念が描けるのではないか、と考えるわけです。

自給自足という考え方は、経済の問題であり、経済システムのなかで、そこから逸脱していく方向です。で、現在の経済システムはというと、生産と消費を分離したなかで、貨幣を介在として、商品を流通させることに要約できます。自給自足とは、生産と消費を一体化することです。そのことを具体的に考えていく道筋に、まるエコという概念がたちあがってくると考えています。

現実に、都会生活者が、農地や山林を手に入れ、自給自足を試みようとすると、必要な資金が要ります。ある種、膨大な金額です。この必要になる資金を持たない者は、どうすればよいのか。実は、まるエコとは、こお資金を持たない者が、自給自足を実現させていくための、ノウハウのことではないか、と思うのです。ここでは、まるエコの経済側面を捉えているわけだけれど、理念だけではなく、具体的な経済の現場で、どのように対処していくのか、が問われているのだと考えます。

つまり、まるエコ塾で捉える視点は、ムード的な心のあり方とか、食べるために給金をもらう労働の外に置く、というのではなくて、労働そのものを中心とした新たな経済システムを思考し、実践していく視点だと思うのです。自給自足は経済システムの変更であり、まるエコ塾は、その変更を具体化していくプロセスの場であると考えなければいけないと思うのです。

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自然の方へ-13-

2013-10-31 | 自然の方へ


自給自足ということ-3-
2006.4.9

わたし自身の、食料の自給自足レベルは、どの程度だろうと考えてみます。この自給自足の範囲は、基本的には貨幣にて交換する食料確保ではなくて、貨幣経済を通さないで得ることができる食料のことです。この限りでみると、わたし自身の自給率は、自分の所有地で採取できる山菜レベルにとどまります。季節の旬に採れる山菜、ふきのとうやのぶきなどですが、率的にいえば全体のほぼゼロパーセントです。

野菜の種を買ってきて、所有地に種を蒔き、収穫します。京都農塾というところで、共同でお金を出し合って、種を含む諸経費をまかない、収穫します。4人共同で一反の田んぼを借りてお米を作っています。もちろん諸経費を貨幣にて支払うわけです。このように原材料や設備確保などを貨幣にて支払うことを考えると、自給自足率はほぼゼロパーセントです。

先に、土地の確保と種の確保が自給自足を成熟させる条件だとしましたが、土地の借用と種の購買は置いておいて、生産と消費を直結させているということで云うと、お米は100%、野菜は70%程度を確保しています。土地の借地代金は支払っていません。これは土地所有者の善意により無償貸与です。所有者は田畑の管理ができなくなった高齢者です。所有権利を手放したくないけれど、田畑を休耕させて荒れさせるよりは、他人の力により実らせようという折衷です。微妙なバランスのうえに立った善意だと思います。

自給自足を貨幣経済構造のなかで、この構造から逸脱していくというのは、現状では不可能に近いと捉えています。そこで、次のステップでは、自給率をあげる方策を模索していきたいと思っています。貨幣経済に置き換える経済の仕組みは、贈与経済の仕組みです。

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自然の方へ-12-

2013-10-30 | 自然の方へ
自給自足ということ-2-
2006.2.26

消費者が生産者に転換する。そういうことではなくて、消費者であることと生産者であることが同一であること。消費者とか生産者という区分を無くした状態。自給自足とは、この区分を無くした状態だと考えます。
自給自足で、自然のままのものを採取する、漁獲する、これで賄えればいうことないんですが、これでは原始の時代というか、縄文時代の生活様式になってしまいます。たしかに話題として、原始や縄文時代を引き合いにだされますが、生活様式をそこから引用するということです。

自給自足を成熟させていく中心は、土地と食料の確保が、第一の条件になります。そのうえで食料確保のための道具類と住環境のこと。それと平行して理性と感情のことを、考えていく枠組みが必要なのだと思います。
この状態で、現状を思うと、食料自給の元になる<種>のことがあります。種をどのようにして確保するか、です。野菜の種の現状は、その生産の大元を、おおむね大手資本に握られています。自給自足のためには、大手資本によって作られた種を買うのではなくて、自主栽培種を使うことになります。

土地については所有権の問題があります。種の入手については、種の交換会とか、自主流通させるお店とかがありますが、もっと顕著化してこなければ、いけないと思います。一方で、自給自足の共同単位は、この土地の所有と、種の自給と循環システムをもつことが必要になります。
繰り返しになりますが、自給自足を成熟させるためには、土地の確保と種の確保。この二つが共有されるべく基本的条件になると考えています。

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自然の方へ-11-

2013-10-29 | 自然の方へ
自給自足ということ-1-
2006.2.21

自給自足って、最近、よく言われています。経済システムのなかで、グローバル化する世界に対して、ローカル化を目指す、といったような感じだと思うんです。グローバル化の行き先は、生産力の集中だとも思います。生産力の集中は、権力の集中でもあるわけです。ここで語られる、もう一つのシステムが、自給自足。生産力の個人化、非権力の構造。自給自足の捉え方のベースには、そんなことがあるのではないかと思います。

食料生産の現場は、機械化が進み、ハイテク技術が導入され、大量生産がおこなわれています。地球規模でみれば、食料の自給自足を、最新技術を駆使してやっているわけです。じゃあ、ここでいう自給自足と、どう違うのでしょうか。資本の集中がいけないとか、大量生産がいけないとか、そういうことで反対してみても、時代の趨勢として、もう逆らうことが出来ない。無駄な抵抗はやめろ!なんていわれてしまいそうな感じです。

たしかに不合理なことは、多々あります。生産コストを下げるため、特定品種を大量に生産する。遺伝子組み換えや、家畜の改良、F1種の問題など、個人の感情レベルで納得のいかないことが多々あります。でも、もうあきらめの境地で、個人の力ではどうしようもない。だから集団で反対しようなんていっても、集団化できない環境でもあるんじゃないか。そんな感じがする世の中です。

ここでいう自給自足は、結局、自分を捉える手段として考えるしか、ないように思うのです。自給自足は、生産と消費を一体化するものです。地球規模で、自給自足をやってるとはいっても、生活者は消費者です。この消費者が生産者に転換する。この考え方が、自給自足のベースなんです。この視野を手に入れることで、何かが見えてくる・・・そんな感じがしているのです。

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自然の方へ-10-

2013-10-28 | 自然の方へ
自然農ということ
2006.6.22

自然農の特長は、ハタケや田んぼを耕さない、農薬や化学肥料はやらない、草(雑草)や虫を敵としない、ということです。別の観点からいうと、土を生かす農法、いのちを生かす農法だといえます。

このような定義をしたうえで、自然農による田植え、を体験しています。場所は滋賀県にある安土町。安土(あづち)といえば、ええ、安土桃山時代なんて時代区分されるときの、その安土です。つまり織田信長が、お城を築いた場所です。この安土には、ヨシ原がひろがる西の湖(琵琶湖の内湖のひとつ)があります。この西湖に面した場所に、自然農による田んぼ実験が始まったというわけです。

約一反(約300坪、約千㎡)を確保した田んぼの一角で育てた苗を、一本ずつ植え込んでいきます。一本植えです。もちろん手植えです。なにを言おうとしているかといえば、機械を使わない、ことを強調したいわけです。人力です、ヒトの労働力です。効率化、高収穫とかの尺度で測ったら、とんでもない低効率、低収穫だといえるので、一笑されてしまうことかも知れないですね。

ああ、もう発想と価値観の大変換をやらないと、理解するのが無理な世の中でしょうね。でも、自然農の取り組みは、飛躍しちゃいますが、ヒトが幸福になれる方法かも知れないです。いいえ、幸福(満たされた心)になるためのツールだと仮説しているのです。また、追ってここにお知らせしていきます。

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自然の方へ-9-

2013-10-24 | 自然の方へ
田んぼの風景
2006.6.12

自分が食べるお米を、自分で作る。自給自足と言うのだそうですが、農家でもない限り、そんなことは、できないこと。そう思っていたんですけど、オーナー制田んぼ。昨年から始めて2年目になります。

つまり、田んぼを貸してもらって、自分が食べるお米を、自分でつくることが出来るようになった。自分でつくることが出来る、とはいっても、田植えから稲刈りまでの全てを、自分でするというのではありません。

1反を四人で借りている。京都農塾のメンバーです。土地所有者の方から、無償貸与していただいて、お米を作っているのです。この田んぼの場合、減農薬栽培です。最初に除草剤をまいて、その後は農薬散布はしません。田植え、稲刈り、収穫後の保管などは、地元の専業の方のお世話になっています。

この一反の田んぼで、収穫するまでに諸経費が12万円ほどかかります。四人で割って一人3万円ほどです。収穫は480キロを目安にしていて、一人120キロです。いま米の消費量は、年間ひとり60キロといわれています。だから、二人分の収穫です。市場で買うより、かなり安いことになります。でも目的は、安く手に入れるということではなくて、自分の食べるお米の生産そのものに関わるということです。自給自足の始まりです。

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自然の方へ-8-

2013-10-23 | 自然の方へ
自然の方へ-8-
2007.2.8

<京都農塾>
京都は園部に京都農塾という農の学び場があって、ぼくはこの3年間、京都農塾の塾生として、月に1回か2回、農作業の体験学習をしています。ぼくの生活根拠地は京都市内です。JR等での交通の便を考えると少し不便ですので、乗用車を使っています。国道では亀岡市街が混むので、京都縦貫道路を利用してしまいます。いまのところ帰農する、つまり農業者になるつもりはしていないのですが、京都農塾では、農業者になりたい希望者には、それなりの措置がとれるようになっています。アーバンライフを棄てて、専業農業者になるノウハウも備えた農塾です。

環境問題が話題になっていて、現在の都市部における一般的な生活態度を続けていく限り、環境に負荷をかける当事者となる。まあ、現状を環境破壊の悪とする立場ですが、この観点からいうと、環境にやさしい農作物をつくるノウハウで、塾生で共同作業をする。つまり善の実践をするという、まことに前途明るい、希望ある人生を送ることができる。ハッピーな方へ導いてくれる場、だといえると思います。化学肥料ではなく有機肥料を使い、農薬散布はおこなわず自然のままに露地栽培をする。そこで採れた野菜を、共同で料理して昼食にする。いくつかの生活態度の理想形を想定するなかにあって、まさにこの場は、理想形の入り口なのです。

ぼくは、アーバンライフからルーラルライフへ、都市型生活から田舎型生活へ、つまり<自然の方へ>ということは、このルーラルライフ・田舎型生活へと向かう道筋のことをいうのだと考えているのです。そのためには、環境問題知識に先立つ技術的ノウハウが必要であり、その実践場としてとらえています。でもしかし、それは表層の出来事であって、貨幣を使う消費者としての発想を、農産物つまり食べ物を生産する現場消費者であってはならないと考えているのです。生産と消費を一体のものとして得ていくとき、それは貨幣経済からの脱却を意味するととらえています。この脱却のプロセスこそが、ここでいう<自然の方へ>のテーマであるのです。

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自然の方へ-7-

2013-10-22 | 自然の方へ
自然の方へ-7-
2007.2.6

月刊現代農業(発行:農文協)の2月増刊号タイトルは「脱・格差社会<私たちの農的生き方>」と銘打たれて、「格差社会」を問い直し、「自然な暮らし」を推奨するといった特集が組まれています。アーバンライフとルーラルライフ、つまり都市型生活様式と田舎型生活様式があって、どちらかといえば、田舎型生活様式の方へとの案内役を担っている参考書です。

世界の大きな流れとして、環境破壊問題がクローズアップされてきて、テレビニュースなどで環境に関する国際会議の模様なども報道される昨今です。地球環境が壊れてしまう、地球温暖化、北極の氷が解けて海面が上昇する。今年の暖冬なんて、この壊れかけた地球が警告を発しているのかも知れない。そんなふうにも思える日々です。人間の生存をかけた環境問題です。とはいえ、大きな世界のニュースを知っても、他人事ではなくて、それに対処する自分を発見していかないと、意味がないのです。

この論には、<自然の方へ>とタイトルをつけましたけど、これはぼく自身の問題として、ぼくの生き方の、多少はそれなりの実行をしだしている現場から、シミュレーションしてみようとの試みです。個人のレベルで、捉えていかないと話は始まらないわけです。そうですね、ひとり一人が、自然の方へと歩みだすことで、地球環境を悪化させないための、少なくとも最大の効果が発揮できると思うからです。人それぞれに生活場があり、それぞれの立場があるわけだから、それに無理のないなかで、いかにして自然の方へ向いていくかを、考えるための、そうして実践していくための参考となれば、うれしいことです。

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自然の方へ-6-

2013-10-21 | 自然の方へ
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2006.1.11

いま求められていることの一つに、身体感覚を取り戻すことがあります。身体感覚とは、聞いて、見て、触れて、匂いをかいで・・・という感覚のことです。この身体感覚をよみがえらせるらせることが、ヒトに求める課題だろうと考えています。
風や雨など自然の音を聞くこと、四季折々の野山の光景を見ること、ヒトの心が自然環境の中へ広げられていくとき、そこは驚きと発見の場所です。なによりも自分が自分であることの発見です。

心が自然の方へ向くとき、それは癒しの部類かも知れない。日常の生活は雑多でストレスが溜まります。特に現代社会構造のなかで、サラリーマンをしているヒト及び家族なんぞは、お金に縛られて身動きできない状態です。心は飛翔したいと求めます。束の間の現実逃避する処は多々ありますが、すべてそれらは一過性の逃避です。
自然の方へということは、一過性の現実逃避ではなくて、ヒトのあるべき姿に戻してあげる方へいくことだと考えています。

商品経済の枠組みから逸脱すること・・・。理想形でいえばそのように言えるかもしれません。自給自足のなかで物々交換しあう方へ、です。いま大きな世界が行こうとしているグローバリゼーションの流れから逸脱すること・・・。ヒトのヒトたる心を取り戻すために、です。

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自然の方へ-5-

2013-10-19 | 自然の方へ
自然の方へ-5-
2005.12.5

自然の方へ向かう生活を作り上げていく第一歩は、食べ物を自給する手立てを考えてみることから始まります。自然の方に向かう反対の位置に、工業的大量生産の方向があります。だから自然の方へ向かうための、農産物の自然化です。自然化とは、つまるところありのままに、自然のままに、という方向です。

<縄文>あるいはそれ以前の食料調達は、自然のままを拾い集める採取生活だったといいます。この調達方法は原始的だといわれます。つまり文明・文化とは、原始的な方法から、人間の手が介在し、機械が介在してくることで、進化とみなすわけです。で、ここで云う自然の方へ、というのはこの進化を逆行させる試みと云えます。

秋の山に入れば木の実がある。胡桃や栗や銀杏がある。それで全てがまかなえるとは思わないが、食料の足しにはなる。この程度の気持ちの方が楽だから、そのように気持ちを切り替えて、胡桃や栗や銀杏を採取する。そうして思うのは、その方へ向かう気持ちを大切にしたい、ということです。

食することを放棄して生命を維持できないのだから、人間の知恵として、なるべく楽して、安定したなかで食料を調達したいと思う。そのためには、稲作や野菜栽培が主流になる理屈はわかります。でも、自然の方へと移行させる原点は、採取生活を経験していくところから、始めたいと思うのです。

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