帰省報告(6)
この夏、お盆の時期に鹿児島に帰った目的の第一は、昨年亡くなった夫の祖母の初盆を迎えることだ。
夫の実家は、今は鹿児島市内なのだが、もともとはこの大根占の出身で、今も普段は使っていない家があり、お盆やお正月はここで過ごすことが多い。
田舎のお盆の行事というのは、地方によって本当に色々なのだなぁと思った。
私は、小さい頃は、大抵お盆は母方の実家である京都で過ごすことが多かった。
お盆には、亡き祖父がきゅうりとなすで馬と牛を作るのを見るのが面白く、お墓参り、8月16日の大文字焼きの送り火で終わるというのが恒例だった。
鹿児島でのお盆、特に今回は初盆ということで、またまた私の知らない世界が繰り広げられた。
私が錦江町の家に到着したのは12日だったが、その頃からぽつぽつとお参りの人が家にやってきて、お線香を上げていく。
家は、「これぞ古き日本家屋」ともいうべき作りだ。
床が高く、天井も高く、通気性がとても良い。
台風被害や雨漏りがひどいこともあって、最近屋根を葺き替え、窓をサッシにしてアルミの雨戸をつけたが、昼間開け放っていると、まだまだ情緒たっぷりの家だ。
一応右の写真が「玄関」ということになっているが、開け放たれたこの玄関や、周りの縁側からふらりと人がやってくる。
そうして、お線香をあげ、扇風機にあたりながら話をして帰って行く。
初盆を迎える家には、それに先立って、親しい家から提灯が送られる。そして、14日の夕方には送られたたくさんの提灯を冒頭の写真のようにお墓に持っていく。
お墓の周り、正面を除く三方にその提灯をぶらさげて、その提灯の中にろうそくを灯し、そのろうそくが燃え尽きるまでお墓外交が繰り広げられるのだ。
(お墓の写真なので、小さくしましたが、クリックで拡大します)
ろうそく一本、燃え尽きるのに結構時間がかかる。私は、昼寝していた一番下の子を家においてきたことと(家に他の人はいたけれど)、夕方といえども5時過ぎはまだ暑く、連れてきた次女が長時間もちそうになかったこととで、途中で帰ってきたが、最後まで参加した夫が戻って来るまで1時間半くらいかかっただろうか。
翌15日には、このろうそくは2本(同時でなく、1本燃え尽きたら、さらにもう1本)になるそうで、時間も倍だ。
うちは15日の飛行機で帰ってきてしまったので、参加できなかったけれど...
近くの集落では、お墓の周りで宴会になるところもあるそうだが、ここではお線香を上げて故人を偲び、14-15日二晩続けて、家で宴が催される。
朝から大鍋で煮物などを仕込み、たくさんの料理でもてなし、何十人来ただろう。
私などは、勝手がわからずうろうろするばかりで何の役にも立たなかったが、台所方は大変だ。
白
祖母は、昨年の10月、94歳の大往生だった。
体育の日の3連休の初日に「おばあちゃんの具合が悪いので、帰ってきて」と連絡があったときには、まさかすぐに亡くなるとも思わなかった。電話をしてきた方も、「ちょうど3連休だから、帰りやすいでしょう。」くらいの感じで、そこまで切迫している感じではなかったが、急いで支度をしてその日の午後鹿児島に帰った。
鹿児島市の実家では、祖母がベッドに横たわっていた。もう食事も摂れなくなっており、すっかり衰弱しているが、呼吸はしっかりしている。それまでずっと目を閉じて寝ていたそうだが、孫である夫や曾孫であるうちの子供達に呼びかけられると、もう見えなくなっている目をずっと開けて応えてくれた。
よかったよかった、と安堵し、その日駆けつけた他の肉親(祖母にとっての子供や夫以外の孫)も皆揃って、久々に賑やかな夕食となった。
白
そして、その晩、夜中に皆に看取られて逝ってしまったのだ。
白
最近は病院で最期を迎える人も多いので、このように自宅でみんなに手を握られ、呼びかけられて亡くなるというシーンを見てドラマのような、不思議な感じがした。
そして人が亡くなるとき、「待っている」というのはあるものだなぁと思った...。
子供も、孫も、曾孫も、みんながそろうまで、祖母は待っていたのだ。
白
連休の初日だったので、残り2日も休みで、通夜・葬式ともに連休中に済ますことができた。お蔭で遠方から集まった人たちの仕事を休む日数なども最低限となった。
うちの子供たちが亡くなるその瞬間を見るのはショックが大きいだろうと、亡くなったのはちょうど夜中の12時ごろ。大人は起きているが子供は寝ているタイミングだった。
最期まで、いつも細やかな気遣いをしてくれた、夫の祖母らしかった。
翌朝起きたら、昨日会ったひいばあちゃんが亡くなっているという状況に、子供達の反応はどうかと思ったが、子供なりに冷静に受け止められたようだった。とても良い機会を与えてくれたと思う。
白
この夏も、そんな祖母のために、久々に顔を合わせる面々。
こうして偲ばれるおばあちゃんも幸せだし、おばあちゃんが集めてくれた皆に囲まれた我々も幸せなのだと感じた夏だった。
白
あ
あ
あ
==帰省報告終わり==
この夏、お盆の時期に鹿児島に帰った目的の第一は、昨年亡くなった夫の祖母の初盆を迎えることだ。
夫の実家は、今は鹿児島市内なのだが、もともとはこの大根占の出身で、今も普段は使っていない家があり、お盆やお正月はここで過ごすことが多い。
田舎のお盆の行事というのは、地方によって本当に色々なのだなぁと思った。
私は、小さい頃は、大抵お盆は母方の実家である京都で過ごすことが多かった。
お盆には、亡き祖父がきゅうりとなすで馬と牛を作るのを見るのが面白く、お墓参り、8月16日の大文字焼きの送り火で終わるというのが恒例だった。
鹿児島でのお盆、特に今回は初盆ということで、またまた私の知らない世界が繰り広げられた。
私が錦江町の家に到着したのは12日だったが、その頃からぽつぽつとお参りの人が家にやってきて、お線香を上げていく。
家は、「これぞ古き日本家屋」ともいうべき作りだ。
床が高く、天井も高く、通気性がとても良い。
台風被害や雨漏りがひどいこともあって、最近屋根を葺き替え、窓をサッシにしてアルミの雨戸をつけたが、昼間開け放っていると、まだまだ情緒たっぷりの家だ。
一応右の写真が「玄関」ということになっているが、開け放たれたこの玄関や、周りの縁側からふらりと人がやってくる。
そうして、お線香をあげ、扇風機にあたりながら話をして帰って行く。
初盆を迎える家には、それに先立って、親しい家から提灯が送られる。そして、14日の夕方には送られたたくさんの提灯を冒頭の写真のようにお墓に持っていく。
お墓の周り、正面を除く三方にその提灯をぶらさげて、その提灯の中にろうそくを灯し、そのろうそくが燃え尽きるまでお墓外交が繰り広げられるのだ。
(お墓の写真なので、小さくしましたが、クリックで拡大します)
ろうそく一本、燃え尽きるのに結構時間がかかる。私は、昼寝していた一番下の子を家においてきたことと(家に他の人はいたけれど)、夕方といえども5時過ぎはまだ暑く、連れてきた次女が長時間もちそうになかったこととで、途中で帰ってきたが、最後まで参加した夫が戻って来るまで1時間半くらいかかっただろうか。
翌15日には、このろうそくは2本(同時でなく、1本燃え尽きたら、さらにもう1本)になるそうで、時間も倍だ。
うちは15日の飛行機で帰ってきてしまったので、参加できなかったけれど...
近くの集落では、お墓の周りで宴会になるところもあるそうだが、ここではお線香を上げて故人を偲び、14-15日二晩続けて、家で宴が催される。
朝から大鍋で煮物などを仕込み、たくさんの料理でもてなし、何十人来ただろう。
私などは、勝手がわからずうろうろするばかりで何の役にも立たなかったが、台所方は大変だ。
白
祖母は、昨年の10月、94歳の大往生だった。
体育の日の3連休の初日に「おばあちゃんの具合が悪いので、帰ってきて」と連絡があったときには、まさかすぐに亡くなるとも思わなかった。電話をしてきた方も、「ちょうど3連休だから、帰りやすいでしょう。」くらいの感じで、そこまで切迫している感じではなかったが、急いで支度をしてその日の午後鹿児島に帰った。
鹿児島市の実家では、祖母がベッドに横たわっていた。もう食事も摂れなくなっており、すっかり衰弱しているが、呼吸はしっかりしている。それまでずっと目を閉じて寝ていたそうだが、孫である夫や曾孫であるうちの子供達に呼びかけられると、もう見えなくなっている目をずっと開けて応えてくれた。
よかったよかった、と安堵し、その日駆けつけた他の肉親(祖母にとっての子供や夫以外の孫)も皆揃って、久々に賑やかな夕食となった。
白
そして、その晩、夜中に皆に看取られて逝ってしまったのだ。
白
最近は病院で最期を迎える人も多いので、このように自宅でみんなに手を握られ、呼びかけられて亡くなるというシーンを見てドラマのような、不思議な感じがした。
そして人が亡くなるとき、「待っている」というのはあるものだなぁと思った...。
子供も、孫も、曾孫も、みんながそろうまで、祖母は待っていたのだ。
白
連休の初日だったので、残り2日も休みで、通夜・葬式ともに連休中に済ますことができた。お蔭で遠方から集まった人たちの仕事を休む日数なども最低限となった。
うちの子供たちが亡くなるその瞬間を見るのはショックが大きいだろうと、亡くなったのはちょうど夜中の12時ごろ。大人は起きているが子供は寝ているタイミングだった。
最期まで、いつも細やかな気遣いをしてくれた、夫の祖母らしかった。
翌朝起きたら、昨日会ったひいばあちゃんが亡くなっているという状況に、子供達の反応はどうかと思ったが、子供なりに冷静に受け止められたようだった。とても良い機会を与えてくれたと思う。
白
この夏も、そんな祖母のために、久々に顔を合わせる面々。
こうして偲ばれるおばあちゃんも幸せだし、おばあちゃんが集めてくれた皆に囲まれた我々も幸せなのだと感じた夏だった。
白
あ
あ
あ
==帰省報告終わり==
現場の作業員さんがばあちゃんの50回忌に行くっていってびっくりしたことありまます。みんなから「もうよかろーもん」って言われてましたww
しかし、お墓で撮影とは大胆なww横になってる墓石が気になる・・・
>子供も、孫も、曾孫も、みんながそろうまで、祖母は待っていたのだ。
こういう風にみんなが集まるのを待って,自宅から,静かに送り出されていくというのは,理想の最期ですね。
あやかりたいものです。
作家の吉村昭さんの「自死」が話題になっていますね。
目の前で「自死」された津村さんの切なさ,衝撃は計り知れませんが,消えかけた自分の命の火をロウソクの炎を吹き消すように自分で消すというのも一種の美学なのかもしれませんね。
映画「ミリオンダラーベイビー」には少し違和感を感じましたが,吉村さんの最期には,壮絶でありながらも潔さも感じました。
ところで,「大文字焼き」にビビッと来てしまいました。
私もかつてそう読んでいたのですが,京都の人から,「大判焼きやあらへんのやから,けったいな呼び方せんといて」と言われてしまいショックを受けた経験があります。
(単に)「大文字」又は「五山送り火」というのが正解だそうで...
ちなみに,暇なときにこちら(http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/gozan/index.html)をご覧下さい。
送り火の点火の映像等が見られてなかなか楽しめますよ。
横になっている墓石が私も気になりました...
うーん、私も気になってきました。
★ガマ太郎さん★
今回はワタクシの立場上、墓外交の最中に写真バチバチ撮るのもはばかられたので、帰り際の隠し撮り。(しかも、同じように初盆を迎えていらっしゃるよそ様のお墓...汗)
やっぱりお墓で写真って、やっぱりまずいですか?霊とか?ご先祖様に失礼?
私の方の実家では、お墓の前で一族の記念写真など撮りますが(^^;)
★vagabond67さん★
吉村さん、自分でそういうことをされる力が残っていたことがすごいと思いました。と、いうかそういう力が残っているうちに決断したのがすごいのか...
私の父方の祖母は普通に(と、いうのも変ですが)たくさんの管につながれ、意識のない(ように見える)ままの最期でした。とても自分で管を引き抜けるような状況じゃないって感じです。
癌というのは、闘病自体も辛いと聞きますが、実際に自分がそういう事態に陥ったとき、どんなふうに行動するのか。日頃から胆の据わった人でないと、なかなかこんなふうにはできないでしょうね。
ところで、大文字の件ありがとうございました!ブログで「大文字」だけ書くと「おおもじ」のようでもあることに加え、「大文字焼き」は全国スタンダードだと思っていました。
確かに、京都人は「大文字焼き」とは言いませんね。祖母と母(←京都人)も「大文字」ですし、私自身(←京都弁バイリンガル?)もそうです。ちょうど「泉岳寺」とか「浅草寺」と同じイントネーションって感じでしょうか。
点火の映像も見てみました。いつも遠くからながめるばかりのものでしたので、(まあ、たまにテレビでもやりますが)こんなにじっくり見たのは初めて。面白かったです。ありがとうございます!
お婆様は本当に皆さんに見守られて幸せだったのでしょうね。私は両親二人とも見とれませんでしたし、祖母も間に合いませんでしたから。
お坊様がおっしゃっていましたが、本当に仏様が親族を集める機会を設けるのがお盆なり、お彼岸という時期なんだそうですよ。
私のはここ何年(何十年?!)も、自分の方のご先祖様をお盆やお彼岸にお参りしたこともなければ、お盆やお彼岸に親戚が集まったこともありません。
お墓参り自体、何十年もしてないない...
こういう行事に参加すると、自分のご先祖様は淋しく思っているのかもしれないなぁと反省しますね...