首相、世界に広がる核廃絶の声に背
「しんぶん赤旗」2023年8月7日
「『核抑止』は被爆者への国家の欺瞞(ぎまん)であり、すり替えであり、ごまかしです。被爆者にとって『核の抑止』とは、原爆そのものであり、原爆のきのこ雲そのものなのです」―2023年原水爆禁止世界大会の国際会議で胎内被爆者の濱住治郎さんは魂の怒りを込めて訴えました。
8月6日、岸田首相は、この思いに反し核兵器の存在を正当化する「核抑止」にしがみつく姿を示しました。広島平和記念式典でのあいさつでは「核兵器のない世界」を言いながら、昨年同様、核兵器禁止条約には一言も触れず、NPT(核不拡散条約)にさえ言及しませんでした。一方で、首相は5月の主要7カ国(G7)広島サミットで発信した「核軍縮に関するG7広島ビジョン」をあげ、「核軍縮の進展に向けた国際社会の機運を今一度高めることができました」と“成果”を誇りました。
しかし同ビジョンは、ロシアや中国の核軍拡を非難する一方、米国などの核兵器を「存在する限り、防衛目的に役立てる」として肯定。“広島出身”を名乗る総理大臣が被爆地・広島から核の威嚇で相手を脅す「核抑止」を発信したことに、被爆者から怒りと落胆の声が巻き起こりました。
これに対して、広島市の松井一実市長は平和宣言で、「核による威嚇を行うという為政者がいるという現実を踏まえるなら、核抑止力論は破綻している」と例年にない強い言葉で断言し、「広島ビジョン」を批判。各国の為政者に対し、「核抑止論からの脱却」を強く求めました。
世界大会の国際会議で、被爆で両目とも失明した妹が「わたし、何の罰を受けているの?」との言葉を残し、44歳で亡くなった話を語った長崎の被爆者の横山照子さん。生き残っても死ぬまで苦しみを与え続ける核兵器の残酷なまでの恐ろしさに海外の市民団体の参加者は涙を流しました。初めて同大会に参加し被爆者の証言を聞いたアメリカのマーガレット・エンゲルさんは、若い世代として核兵器廃絶の運動を引き継いでいきたいと決意を語りました。核兵器廃絶の声は国や言葉、世代の違いを超え大きなうねりとなり世界中に広がっています。
被爆者の思いを無視し、同条約の枠組みに入ることを拒み続ける人物が被爆国の首相でいることを日本・国際社会はこれ以上容認できないでしょう。(石橋さくら)
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広島 こども代表「平和への誓い」
誰もが平和だと思える未来を
2023年8月7日
6日に広島市の平和記念公園で開かれた平和記念式典で、「こども代表」の勝岡英玲奈(かつおか・えれな)さん(12)=市立牛田小学校6年=と米廣朋留(よねひろ・ともる)さん(11)=市立五日市東小学校6年=が行った「平和への誓い」は次の通りです。
みなさんにとって「平和」とは何ですか。
争いや戦争がないこと。
差別をせず、違いを認め合うこと。
悪口を言ったり、けんかをしたりせず、みんなが笑顔になれること。
身近なところにも、たくさんの平和があります。
昭和20年(1945年)8月6日 午前8時15分。
耳をさくような爆音、肌が焼けるほどの熱。
皮膚が垂れ下がり、血だらけとなって川面に浮かぶ死体。
子どもの名前を呼び、「目を開けて。目を開けて」と、叫び続ける母親。
たった一発の爆弾により、一瞬にして広島のまちは破壊され、悲しみで埋め尽くされました。
「なぜ、自分は生き残ったのか」
仲間を失った私の曽祖父は、そう言って自分を責めました。
原子爆弾は、生き延びた人々にも心に深い傷を負わせ、
生きていくことへの苦しみを与え続けたのです。
あれから78年がたちました。
今の広島は緑豊かで笑顔あふれるまちとなりました。
「生き残ってくれてありがとう」
命をつないでくれたからこそ、今、私たちは生きています。
私たちにもできることがあります。
自分の思いを伝える前に、相手の気持ちを考えること。
友だちのよいところを見つけること。
みんなの笑顔のために自分の力を使うこと。
今、平和への思いを一つにするときです。
被爆者の思いを自分事として受け止め、自分の言葉で伝えていきます。
身近にある平和をつないでいくために、一人一人が行動していきます。
誰もが平和だと思える未来を、広島に生きる私たちがつくっていきます。
美しい花を咲かせるように、美しい社会を創りましょう。