「東京新聞」2022年10月1日
安倍晋三元首相の国葬で、友人代表としての弔辞を読み上げた菅義偉前首相。その内容は、首相在任中に発信力不足が批判された菅氏にしては、話しぶりも含め、友人としての思いがこもって感動的だったと評価する声も多いが、果たして手放しで肯定してよいのか、気になる点がたくさんある。感動でごまかされないよう、もう一度じっくりと菅氏の弔辞を見直してみた。(特別報道部・木原育子、中山岳)
緊張だろう。弔辞を入れた包み紙を机に置く手がかすかに震えていた。日本武道館内の記者席から双眼鏡越しに見た菅義偉前首相の表情は硬く、伏し目がち。静まり返った会場で、誰もが菅氏の言葉を待った。
◆詩的で心地よい「まるで恋文」
「7月の、8日でした」。聞き慣れた菅氏らしい少し抑揚のない声が、波のようにひたひたと会場に広がった。安倍元首相が亡くなった衝撃のあの日に、一気に引き戻されていく。
どんな時も「総理」と呼んでいた安倍氏を「あなた」と呼び、「セミ」といった夏の季語から「高い空」「秋の雲」へと、季節の移ろいを表現した文章。予定調和な国会答弁と違い、詩的で心地よく感じた。
約12分間の弔辞は絶賛された。菅氏に近い自民党の三原じゅん子参院議員はすかさずツイッターを更新し「まるで恋文」と表現。国民民主党の玉木雄一郎代表も「感動しました。あの挨拶で国葬儀に対する印象が変わった人もいるのではないでしょうか」と持ち上げた。近現代日本政治史に詳しい御厨貴・東大名誉教授は国葬当日夜のテレビ番組で、菅氏の弔辞の後、自然に拍手が湧き起こったことに触れ、「引き込まれた」と称揚した。
だが、国葬当日の高揚から日を置いて、あらためて文字になったこの弔辞を読むと、ひっかかるところが随所にある。
例えば、読み上げ開始後40秒で飛び出した「あなたならではの、あたたかな、ほほえみに、最後の一瞬、接することができました」という部分。
奇跡のような話で確かに感動的だが、弔辞によると、菅氏は安倍氏銃撃の知らせを受け、現場の奈良にすぐに駆けつけたという。病室の安倍氏は心肺停止状態のはずだ。その状態でほほえむことはありうるのか。
医師の木村知氏は「菅氏が到着した時、安倍氏がどういう状態だったか詳細は不明だが、その状況で表情筋が感情で動くことは、医学的見地からは、極めて考えにくい」と話す。ただ、否定もしない。「安倍氏のお友達である菅氏にはきっとそう見えたのでしょう」
◆「よりにもよって」他の人ならよかったの?
再び弔辞に戻ると、菅氏は「天はなぜ、よりにもよって、このような悲劇を現実にし、いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか」と続けている。
木村氏は「『よりにもよって』を、漢字で書くと『選りにも選って』。この言葉に、選ぶならほかにもっと適当な人がいるのにとの意を感じる」と述べる。「よりにもよって」との修飾語は「いのちを失ってはならない人から」にかかる。とすれば、「この一文で、他に選ばれるべきだった者、すなわち死んでもかまわない人の存在を認めている。まさに優生思想の考え方そのものだ」と批判する。
「安倍政権は生産性の有無で人の価値を決め、弱い立場の人を切り捨てる一方、森友・加計学園問題のように身内を優遇する選別政治を行ってきた。この一文を見て、ああ、やっぱりと思う人がいても不思議ではない。『いのちを失ってはならない人』ではなく、単純に、『私の大切な友人』にすれば、何の問題も違和感もなかったのに」
◆事前に作成したのに「たくさん若者」確認は?
菅氏の弔辞は「武道館の周りには、花をささげよう、国葬儀に立ちあおうと、たくさんの人が集まってくれています。20代、30代の人たちが、少なくないようです」と続く。文面は前もって作ったはずで、菅氏は献花の参列者に若者が多いと確認してアドリブを入れたのかと疑問がわく。
ともあれ、この「若者のための安倍さん」アピールに不自然さを感じる人もいる。「SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動、シールズ)」元メンバーの是恒香琳さん(31)は「現実が見えていないのでは」とにべもない。「献花に訪れた若者もいたとは思いますが、私の周囲は仕事に忙しかったり、台風被害があった静岡にボランティアに行く準備で『国葬どころじゃない』と冷めている人は少なくなかった」
是恒さんは、安倍政権は就職率の高さを誇り、若者や女性の味方であるかのようなアピールが目立ったと言う。「実際は非正規雇用が多く課題も多かった。政策の中身はおざなりなのに『若者の支持が多い』と政治利用したのが安倍政権だったのではないか。何より選挙の投票率の低さが、政治に失望している若者の多さを表している」
菅氏は弔辞で、安倍政権の「成果」も並べた。まず挙げたのが環太平洋連携協定(TPP)。他国との交渉に時間をかけるべきだという菅氏に対し、安倍氏は「やるなら早いほうがいい」と考えていたという。菅氏は「どちらが正しかったかは、もはや歴史が証明済みです」と絶賛した。
ただ、TPPは2016年に日本を含め12カ国が署名したが、17年に米国が離脱。残り11カ国で合意し18年に発効したものの、多くの市民が恩恵を実感したとは言い難い。
東大大学院の鈴木宣弘教授(農業経済学)は「安倍政権は米国の意向に沿って必死にTPP交渉参加を急いだが、トランプ米大統領が離脱を表明してはしごを外された。米国離脱後の他国との交渉は、日本企業に有利な条項が凍結されるなどした一方、農産物の輸入枠は拡大されて国益を損なう点もあった」と指摘。国内農業への悪影響の検証もないままで、「TPPを正しかったと断じるのは、理解に苦しむ」と批判する。
◆特定秘密保護法も安保法も「正しい判断」
弔辞のハイライトで飛び出したのは「総理、あなたの判断はいつも正しかった」との言葉。特定秘密保護法、平和安全法制、改正組織犯罪処罰法を挙げ「難しかった法案を、すべて成立させることができました」
だが、いずれも国会審議中は国論を二分するような反対運動が起き、「自民1強」で採決が強行された法律ばかりだ。それを忘れたかのような賛美一色の弔辞に、評論家の佐高信氏は「自分たちだけが正しいというような独善的な考え、狭さを感じた」と語る。
佐高氏が特に見過ごせなかったのは、弔辞のクライマックス。菅氏が、安倍氏が読みかけだったという山県有朋を取り上げた本に触れたことだ。「山県有朋と言えば藩閥政治、言論弾圧の象徴だ」。山県の死去時、雑誌記者だった石橋湛山はコラムで「死もまた社会奉仕」と痛烈に批判した。佐高氏は「強権政治の親玉のような山県を持ち出すとは、おめでたい弔辞だ。自民で首相も務めた石橋が批判した逸話を知らなかったのか」と皮肉る。
駒沢大の山崎望教授(政治理論)は「自民の身内として、菅氏が情感に訴える表現で安倍氏を悼むことは理解できる。だが、国葬の弔辞で安倍政権や政策を賛美するのは危うい。政権の全てを正当化し、異論や反対論を封じることにつながるからだ」とし、こう警鐘を鳴らす。「安倍氏の死を悲しむことと、政権や政策への評価は本来、全く別のはず。それが今回の弔辞では一体化し、まさに政治利用と言わざるを得ない」
◆デスクメモ
頑張る選手の姿には誰もが感動したが、その裏側に汚職が広がっていた東京五輪。目を赤くして弔辞を読む菅氏の姿と声も、確かに感動的かもしれないが、冷静に読み返してみれば、これだけのひっかかりがある。感動で、安倍氏にまつわる負の記憶を上書きされるわけにはいかない。(歩)
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園のようす。