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生きづらい女子たちへ ALS女性嘱託殺人事件〜「死ねなくてかわいそう」の前にできること

2020年08月07日 | 社会・経済

Imidas 連載コラム2020/08/05

  雨宮処凛 (あまみや かりん)

 

    昨年(2019年)の7月21日、重度障害者の国会議員が2人誕生した。れいわ新選組の舩後(ふなご)靖彦氏と木村英子氏だ。そのことは大きなニュースとなり、世界各国でも報道された。特にALSで全身麻痺、人工呼吸器をつけた議員の誕生は世界初ということで、車椅子に乗った舩後氏の姿は世界中の注目を集め、また2人の姿は障害者、難病者たちに希望を与えた。

 あれから1年と2日経った20年7月23日、ALSをめぐる衝撃的なニュースが日本列島をざわつかせた。51歳のALSの女性に対する嘱託殺人で、医師2人が逮捕されたのだ。

 このニュースを受け、大阪市長の松井一郎氏は、「維新の会国会議員のみなさんへ、非常に難しい問題ですが、尊厳死について真正面から受け止め国会で議論しましょう」とツイート。一方、「死ぬ権利」はすぐに「死ぬ義務」に転じ、医療費削減などを名目に拡大していく可能性があるので危険極まりないという意見もあれば、「安楽死は認めてほしい」という声もあった。

 また、逮捕された医師の一人は「高齢者は見るからにゾンビ」などとネットに投稿し、寝たきり高齢者はどこかに棄てるべきなどと主張。それだけでなくペンネームで『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術』などの電子書籍を執筆していたことも明らかになった。「全国『精神病』者集団」はこの医師について、「津久井やまゆり園事件の犯人とは比較にならないほどの持論・実践を展開してきた人物です」と公式サイトで批判している(「緊急声明―京都における障害者の嘱託殺人事件について」2020年7月23日)。

 女性が死亡したのは昨年11月。奇しくもそれからすぐに世界中で新型コロナウイルス感染が拡大し、治療の優先順位を決める「トリアージ」という言葉は聞きなれないものから日常語へと変化した。ちょうど原発事故の後、「ベクレル」や「シーベルト」という言葉が日常語になったように。

 そんなコロナ禍の4月初め、アメリカのアラバマ州では、重度の知的障害者や認知症の人は、人工呼吸器補助の対象になる可能性が低いというガイドラインが出された。その後撤回されたものの、このガイドラインはアラバマ州の緊急事態における命への姿勢を嫌というほど露呈させてしまうものだった。

 そもそも、議論すべきはどの命を優先するのかではなく、どうやって呼吸器や病床を増やすかということであるはずだ。資源がこれしかないから一部の命は見捨てるなんて、何のために科学技術などがこれほど発展してきたのか分からない。

 さて、なぜこの連載でそんなことを書くのか。それは病や老い、そして介護の問題とジェンダーの間には切っても切れないものたちが多く存在するからである。

 ここで思い出すのは、ちょうど50年前、ある母親が子どもを殺した事件だ。重度障害のある子を「こんな姿で生きているよりも死んだ方が幸せなのだ」と、殺害してしまったのだ。この事件には世間への同情が集まり、母親への減刑嘆願運動にも発展した。その時、「母よ、殺すな!」と声を上げたのは、「殺される側」である脳性麻痺の当事者たちだった。勝手に「不幸」だ、「死んだ方がいい」と決めつけて殺すな、と。

 しかし、以降も母親による障害、病気をもった「子殺し」は起きている。

 例えば04年には、「第一の相模原事件」が起きている。神奈川県相模原市に住むALSの40歳の男性が死亡した事件だ。死因は窒息死。自宅で息子を介護していた母親が呼吸器の電源を切ったのだという。母親は自殺を図ったものの死に切れず、翌年に嘱託殺人罪で懲役3年、執行猶予5年の判決を受けている。

 母親は裁判で、「息子に懇願されて」呼吸器の電源を切ったと証言した。が、息子はすでに話すこともできず、文字盤(視線で文字盤を示して会話する)で意思疎通するための目もほとんど動かなくなっていたという。しかし母親は、「今まで育ててくれてありがとう」と言われたなどと主張。精神的に追い詰められる中で、そんな「声」が聞こえたのだろうか。そうして執行猶予判決で自宅に戻った母親は、ある日、自らの首を刺すという方法で自殺を図る。帰宅してその光景を見た父親は、トドメを刺してしまう。

「妻は事件後からうつ病になり、有罪判決のあとも『死にたい』と言うのをなだめてきたが、あまりにも言い続けるので自殺を助けた」

 殺人容疑で逮捕された夫は、そう供述したという。

「介護殺人」の加害者になるのは母親だけではない。19年11月には、70歳の夫と93歳の義父、95歳の義母を殺害したとして71歳の妻が逮捕されている。夫は脳梗塞の後遺症で足が不自由で、義父は要支援2、義母は要介護1と認定されていた。「村一番の嫁」と家族が自慢していたそうだが、近しい人には「介護がしんどい」と打ち明けていたという。

    この世帯が介護サービスを使っていたかは不明だが、使っていたとしても3人の介護を一人で引き受けるのはあまりにも無理がある。

 ちなみに、「第一の相模原事件」でも母親はヘルパー を入れず、家族で介護していた。このような「家族介護」の危険性を、多くの人が訴えてきた。

 ALSの母親の介護経験のある川口有美子さんもその一人だ。彼女は私の著書『14歳からわかる生命倫理』(2014年、河出書房新社)の中でこの事件に触れ、以下のように言っている。

〈ALSでは、他にも一家心中事件などが起きているんですが、どのケースも家族が社会から隔絶していた。家族は閉ざされていたんです。だから、介護は家族だけでやっちゃ駄目なんです。もっと人を入れて、このケースだったら息子さんと母親をきっぱり引き離すことが重要でした。家族だけで解決しろ、介護やれってなると、絶対に家族の中で殺し合いになる。今は障害者施策で、公費で1日24時間ヘルパーが使える地域もあるのです。日本の障害者の介護には公費が使えるのですから目いっぱい、人を入れた方がいい〉

 川口さん自身も母親の介護を始めて8年目、自ら介護派遣会社を立ち上げた。そこからはヘルパーを育てて派遣する方に回り、母親の介護も完全に他人介護にシフト。最初は母親を含め4人のALS患者を6~10人のヘルパーで回していたが、ヘルパー養成機関が必要となり、研修事業を行うNPO法人「さくら会」を立ち上げ、理事となる。

〈そこでは一般の人をどんどんヘルパーとして養成して障害者の制度を利用して有償で働いてもらっています。それが、仕事のない人に仕事を提供することにもつながっています。尊厳死なんて選ばなくても、こうしてやっていけるんです。病気や障害や高齢で困っている人を、生活には困っているけど元気な人が介助する。こうして困っている人の中でお金が循環していくのです。

そういうところにこそ、国は資源を投入していけばいいのに

 素晴らしい実践である。が、川口さんはもっとすごい「実践」を教えてくれた。なんとALS患者の中には、自らがヘルパー派遣会社を立ち上げ、社長として経営している人が何人もいるのだという。

 ALSは知能には一切影響がない。寝たきりで、呼吸器をつけていても、指先やわずかに動く部分でパソコンを操作し仕事をしているのだ。そんなふうに経営者として活躍するALS患者たちは「社長モデル」と呼ばれ、世界的にも注目を集めている。そういえば、舩後議員も国会議員になる前は福祉企業の副社長をしていたのだ。

 病気や障害が重ければ重いほど、家族に生殺与奪のすべてを委ねることになる。もちろん、愛情をもって家族を介護している人が多くいることも知っている。しかし、一方で私たちは「介護殺人」「介護心中」という悲劇が多く起きていることも知っている。

 密室の家族介護ではなく、介護を家族以外に開いていくこと。いずれは全身麻痺となるほどの難病だからこそ、ALSの当事者や支援者たちは「社長モデル」を作り、また、地域で一人暮らしができる道を作ってきた。全身麻痺で呼吸器を装着しているのに、一人暮らしをしている難病者は多くいるのである。24時間介護が必要な身になっても、「家族の負担になるのでは」と心苦しい思いをすることなく、介護サービスを受けながら暮らしていく。それは家族に頼らざるを得なかった時代と比較すれば、夢のようなことだろう。

 また、現在では、寝たきりであっても様々なテクノロジーを使って社会参加している人も多くいる。

 例えば舩後議員は、「OriHime」という遠隔操作できる分身ロボットを仕事やコミュニケーションに使っている。全身麻痺でも視線でパソコン操作ができるので、自宅のベッドの上から分身ロボットを操れるのだ。そんな「OriHime」は、20年7~8月、モスバーガー大崎店で店舗スタッフとして実験導入されている。店舗からはほど遠い自宅にいる障害者らが、分身ロボットのパイロットとしてレジスタッフをするのだ(オリィ研究所HP )。

 現在、コロナによってテレワーク化が進んだ職場も多いが、遠隔操作の分身ロボットで働くという障害者、難病者の働き方は、まさに「コロナ時代」を先取りしていたと言えるだろう。

 さて、ここで京都の女性の話に戻ろう。報道によると、彼女も一人暮らしで24時間ヘルパーに支えられて生活していた。一報を聞いた時は、家族も介護に追い詰められた果ての自殺願望なのかと思ったのだが、家族に遠慮しなくていい環境を手に入れていたのである。しかし、病の進行は彼女を追い詰めていたようだ。また、彼女は人工呼吸器を装着していなかった。

 彼女の病状がどれほどのものだったのかは分からないが、筋肉が衰えていくALSでは、ある時期、呼吸器をつけるかどうかの選択を迫られる。自発呼吸も難しくなるからだ。それは呼吸器をつけて生きるか、あるいは死ぬかという究極の選択なのだが、結果的に3割が呼吸器をつけることを選択し、7割がつけずに死ぬ。その際、男性と比較して女性の方がつけないという選択をすることが多いと聞く。

 その背景にあるのは、「家族に迷惑をかけたくない」という思いだという。もちろん、男性の中にもそのような理由から呼吸器をつけない選択をする人もいるが、「家族の介護などのケア労働は主に女が担うもの」という価値観は、その割合に色濃く反映されている気がして仕方ない。

 しかし、一人暮らしをし、24時間ヘルパーに支えられるという環境を整えていた彼女は、少なくとも家族に気兼ねする必要はなかったのだ。もちろん、病気の残酷さはよく分かる。こんな状態になってまで生きていたくないという気持ちになるのも分かる。しかし、「それなら死なせてあげましょう」と尊厳死法制化の議論が進むことにはあまりにも違和感がある。「死ねないのがかわいそう」より前に、「生きる希望が見出せない状態をどう支援できるか」という問題ではないのか。最近は「欲望形成支援」という言葉もよく耳にする。

「あなたという人間が必要である」

 もし、京都の女性が多くの人からそんな言葉をかけられていたら、それでも死に引き寄せられただろうか?

 それだけではない。

「いつかみんな、特効薬が開発されて治る日を夢見てるんですよ」

 支援者にそう聞いた時、深く納得した。「過酷」に見える中でも生きられるのは、そんな希望があるからなのだろう。もし、自分が難病に冒されたら、もっとも望むのはそのことだと思う。そしてたまに、「ALSにこの物質が効くかもしれない」などのニュースが流れると、私の知る当事者は必ずそんなニュースをリツイートしている。

 病によって生きることに絶望し、命を絶った翌日、特効薬が開発されたりしたら死んでも死に切れない。新薬開発を含め、死なせる方法より、生きる方法を、もっともっと模索すべきだと、今、切実に思うのだ。


 これから札幌の皮膚科へ行ってきます。行きたくないけど、塗り薬がなくなり、病院も1週間のお盆休みに入ってしまいます。

 台風4号崩れの低気圧が強い風をもたらしています。雨はまだ歓迎なのですが風はトウキビがもう収穫というときには極めてヤバい!ほとんど倒れてしまうか?

では、行ってきます。