第1回
中島岳志(政治学者)
若松英輔(批評家・随筆家)
(構成・文/仲藤里美)
imidas 2020/04/27
中島岳志さんと若松英輔さん。この心を閉ざしがちな危機的な状況の中で、お二人に“コロナ後”を見据えての対論連載を始めていただくことになった。私たちの心に平穏をもたらす政治家とは? 過去から未来へ、縦横無尽に検証する。
二人の「リーダー」の演説
中島 「いのちの政治学」と題したこの対談では、政治家や運動家など、過去に存在したさまざまな人物の歩みを振り返りながら、私たちに今必要な「リーダー」というもののあり方を改めて考えていきたいと思っています。
「リーダー」のあり方を再考する必要性を切実に感じたのは、我が国の首相、安倍晋三氏が2020年2月29日に行った、新型コロナウイルス対策に関する記者会見のときです。あの会見で、首相はそばのプロンプターに映し出された原稿をひたすら読み上げるだけで、自分の言葉で語ろうとはまったくしませんでした。記者からの質問に対しても、事前に官僚が作成した回答を読み上げるのみで、他の質問は無視。質問できなかった記者が「まだ質問があります」と叫んでも、首相は振り返りもせずに去っていきました。
おそらくこのときに限らず、私たちはもう何年も、安倍首相という人の「声」を聞いていないのではないでしょうか。首相という一国のトップでありながら、誰かが用意したものをただ読み上げるだけの、非常に空虚な存在になっている、そのことがよく表れていた会見だったと思います。
しかも、会見を目にする国民のほうは「イベントは中止しなきゃいけないのか」「これからの生活はどうなるのか」と、非常に大きな不安を抱えていたはずです。それに向けて、最低限の補償すらも示さず、「同じ苦しみの地平に立っている」という感覚を与えることさえできなかった。いわゆる「森友問題」では、公文書の改ざんを強要されて自殺に追い込まれた財務省近畿財務局職員の遺書が出てきてもなお、いまだしっかりとした説明がなされていませんが、それとも共通する日本政府の態度をよく表した会見だったといえます。
一方、安倍首相の会見と非常に対照的に映ったのが、3月18日に行われた、ドイツのメルケル首相のテレビ演説でした。彼女は、コロナ危機について国民に向けて、こう語りかけています。
これは、単なる抽象的な統計数値で済む話ではありません。ある人の父親であったり、祖父、母親、祖母、あるいはパートナーであったりする、実際の人間が関わってくる話なのです。そして私たちの社会は、一つひとつの命、一人ひとりの人間が重みを持つ共同体なのです。
つまり世界中で、新型肺炎の致死率はこのくらいで、死者は何人で、それをこれからどのくらいの規模に抑えて……といった「数字」によってコロナ危機を語る言説があふれている中で、彼女は「抽象的な数字の問題ではない」と言い切ったわけです。そうではなく「生きた人たち」の話なんだと明確に、しかも非常にクリアでやさしい言葉で国民に投げかけているんですね。
その後、「戦いの最前線」に立つ医療関係者や、食料品などの供給を担うスーパーの店員などに感謝の言葉を述べた後に、国民に協力を呼びかけます。
誰もが等しくウイルスに感染する可能性があるように、誰もが助け合わなければなりません。まずは、現在の状況を真剣に受け止めることから始めるのです。そしてパニックに陥らないこと、しかしまた自分一人がどう行動してもあまり関係ないだろう、などと一瞬たりとも考えないことです。関係のない人などいません。全員が当事者であり、私たち全員の努力が必要なのです。
感染症の拡大は、私たちがいかに脆弱な存在で、他者の配慮ある行動に依存しているかを見せつけています。しかしそれは、結束した対応をとれば、互いを守り、力を与え合うことができるということでもあります。
(中略)
誰も孤立させないこと、励ましと希望を必要とする人のケアを行っていくことも重要になります。私たちは、家族や社会として、これまでとは違った形で互いを支え合う道を見つけていくことになるでしょう。
この文章を読んで、私は我が国のリーダーとのあまりの落差に愕然としました。若松さんは、どう感じられましたか?
若松 今日の日本のリーダーとメルケル首相との決定的な違いは、その言葉の「方向」だと思います。
日本のリーダーの話は、「私が考えていることを国民に伝える」というかたちを取っています。しかし、メルケルがやったのはそのまったく逆で、「あなたたちが思っていることを、私が言葉にして伝える」ということだったと思います。つまり、メルケルが語ったのは、メルケル自身の言葉であると同時に、みんなが気づいていて、けれど言葉にできなかった思いだったのではないでしょうか。
スーパーマーケットの売り場で働く人たち、あるいは宅配便や郵便を運ぶ人たちといった、賃金からいえばおそらく高いわけではない職種の人たちが、これほどまでに社会を支えていたことを、私たちは今回初めて実感したと思います。そのように、平常時に見ていた社会とまったく違う社会の実相を今私たちは見ているということを、メルケルはまず言いたかった。その上で、この状況を乗り越えるには協力し合うほかはないのだとみんなが感じている、それを改めて言葉にして示してみせた。これこそリーダーの役割ではないかな、と思いました。
中島 この会見では、こんなことも語られます。
感謝される機会が日頃あまりにも少ない方々にも、謝意を述べたいと思います。スーパーのレジ係や商品棚の補充担当として働く皆さんは、現下の状況において最も大変な仕事の一つを担っています。皆さんが、人々のために働いてくださり、社会生活の機能を維持してくださっていることに、感謝を申し上げます。
スーパーのレジ係への謝辞に象徴されるように、メルケルの言葉を聞いた国民は、「首相は国民のほうにしっかりと目を向けている」という感覚、首相と自分がつながっているという感覚を非常に強く持つと思うんですね。そういう象徴的な言葉をこれほどクリアに分かりやすく出せる政治家を、久しぶりに見たと感じました。
また、もう一つ、私が彼女を素晴らしいと思うのは、自分の言ってきたことが間違っていたと気づいたときに、きちんと転換ができる人だということです。
それがよく表れていたのが、原発の問題ですね。ドイツは福島第一原発事故の後、当事者である日本以上に大きな方向転換をしました。2011年5月に、「2022年までに全原発を停止する」と、「原発を手放す」方向性を明確にしたのです。
若松 メルケルは、世界を冷静に見る「目」と人の心を見る「眼」、両方の眼を備えた人だという気がします。冷徹なまでの現実主義と、人の心の痛みを感じ取る力とが、彼女の中には併存している。これは、リーダーにとってかけがえのない資質ですよね。
日本の政治家を見ていると、冷徹な現実主義のほうだけで、もう一つの「眼」を備えていないと感じる人が多いのが怖いですね。人の痛みを感じることができず、冷徹な目でだけものを見て行動するリーダーは、必ず間違うと思うのです。
中島 しかも、困ったことにその冷徹なはずの目までが濁っている政治家も多いように感じます。
言葉を超えた「コトバ」とは?
中島 言語学者の井筒俊彦は、言語によって伝えられる「言葉」とは別に、その人の態度や存在そのものから、言葉の意味を超えた何かが伝わってくるようなものを「コトバ」と呼びました。大切な思いが「言葉」にならないことって、私たちにはよくあると思います。「言葉」にならないからといって、その思いが存在しないというわけではありません。時に沈黙のほうが雄弁であることさえあります。「言葉」を超えた「コトバ」の世界があると思うのですが、若松さんのおっしゃる「人の心を見る眼」を備えた人は、この「コトバ」で伝えることのできる人でもあると思います。
私はドイツ語がまったく分からないのですが、それでもメルケルの演説を聴いているとどこかぐっと迫ってくるものがある。それは、彼女が「言葉」だけではなく「コトバ」を発しているからだと思うのです。
若松 華美な表現が使われているわけでもなくて、非常に冷静に、率直に話をしているだけなのに、それ以上のものが伝わってきますね。言葉以上のコトバが、そこにあふれているということだと思います。
韓国の康京和(カン・ギョンファ)外相の会見にも、同じことを感じました。彼女もやっぱり言葉だけではなくコトバを発している人だ、と。「私たちはこんなことをやりました」というだけではなく、「私たちの経験を、世界の経験として生かしてほしい。私たちも他の国の経験から学ぶ」という態度がはっきりと表れていた。そうした、「危機になればなるほど開かれていく」という姿勢も、リーダーにとってとても大事だと思います。
中島 政治家ではないのですが、私が「コトバが語られている」と感じたのは、日本相撲協会の八角理事長が、三月場所の千秋楽で挨拶したときです。彼は話し始めに、ぐっと涙を堪えるように黙り込みました。そして、「元来、相撲は世の中の平安を祈願するために行われて参りました」と話し、最後に新型コロナウイルスによって亡くなった人たちへの哀悼の意を述べたのです。
これもまた、非常に平易な表現でしたが、「コトバがあふれている」ところがあったと感じました。それはやはり、この状況下で開催していいのかどうかを悩み、最終的に無観客でやる、しかし一人でも感染者が出たら中止するというぎりぎりの選択をした八角理事長の、さまざまな葛藤や苦しみが表れていたということだと思います。逆に言えば、我が国のリーダーには、そうした葛藤や苦しみがないから、コトバが表れてこないのではないかと思うのです。
若松 プロンプターに映し出される言葉とは違って、コトバはその人の中からしか出てきません。内在するものがなければ、コトバは何も出てこないのです。
メルケルにしても康京和にしても八角理事長にしても、それまでの政策や行動への評価はさまざまかもしれません。それでも、彼らの中には言葉を超えて蓄えてきたものがずっとあり、それが今回のような危機の状況になって一気に湧出してきたということだと思います。
中島 勉強ができるとか、哲学を知っているとか、そういうことではないんですよね。誠実に、真摯に現実と向き合い、葛藤しながらいろんな痛みを経験してきた人間からは、おのずと言葉にならないコトバが発せられてくる。それを人はどこかで感じ取るからこそ、その人と一緒にやっていこうと思えるわけです。そうしたコトバを発せられる人こそがリーダーなのではないでしょうか。そのコトバが我が国のリーダーには存在していないということが、今回の危機であぶり出されたと思っています。
若松 コトバを生み出すのは、「無私」の精神だと思います。ここでいう「無」は、「私」を無くすということではなく、超えていくということです。英語でいえば「no self」ではなく「beyond self」、私自身を包み込みつつも私を超えていくというイメージです。それができていることが、コトバが発せられるための最低条件だと思うのです。
「私」を超えるということは、代わりに何かが前に出てくるということです。それは場合によって民衆の声であったり、相撲の歴史であったりするけれど、自分よりも前に出てくるものがあったときにコトバが発せられるのだと思います。
「自分を超えて何かを前に出す」というのは、なにも特別なことではなくて、たとえば親と子の関係などではしばしば見られるあり方のはずです。
しかし、それを政治の場、あるいは危機が迫っているような場面で実行できる人は非常に限られている。それをできる人こそが、リーダーなのだと思います。
「命の統計学」から「いのちの政治学」へ
中島 言葉とコトバの話に続いて、今回の対談のタイトルにもしている「いのち」についてもお話ししていきたいと思います。
私は「いのち」という言葉を、肉体的な生命を指す漢字の「命」よりももっと幅広い、人間の尊厳などを含み込んだ概念を指す言葉として使っています。私たち人間は、単に命だけを生きているのではない。身体は生きていても、いのちが失われてしまうことはあるし、逆に命は失われても、いのちが生きていることはあり得る。自由を奪われ従属を強いられた奴隷は、命はあっても、いのちが消えているかもしれない。死者は命がなくても、多くの人に想起され、振り返られることでいのちを保っている。そういう関係性が存在していると思うのです。
新型コロナウイルス感染症によって何人死亡した、陽性反応が何人出たなど、数値化したデータが表すのは、この「命」のほうだけの問題です。しかし、そこで問題になるのは、では「いのち」のほうはどうなのか、ということ。病気にかかったかどうかにかかわらず、私たちは今、誰もがいのちの危機に瀕しています。そこにどういうメッセージを届けられるかが、リーダーにとって非常に重要ではないかと思うのです。
今の政治においては、統計的な数値によって表される命の問題ばかりが語られがちです。この「いのちの政治学」の対談ではそうではない、いのちに語りかけるようなコトバや政策とはどういうものなのかを考えたいと思っています。
若松 「命」というのは、計量かつ論証可能なもの。対して「いのち」とは、計量も論証も不可能で、けれどたしかに存在すると実感できるものだと思います。私たちにとっては両軸がどうしても必要であって、メルケルの話も、その両方をしっかりと見据えているからこそ私たちの胸に響くのではないでしょうか。
数字や言葉だけでは示せない、いのちというものをどう分かち合っていくのか。それが「いのちの政治学」だと思います。
中島 若松さんは最近、こんなツイートをされていました。
愚劣な政治は「いのち」を簡単に量に換算する。数字で語る事で理解したと思い込む。だが、現実はまったく違う。病むのはいつも誰かの大切な人であり、世界でただ一つの存在だ。これが「きれいごと」にしかならないなら、文学も哲学も芸術も不要だろう。これらはつねに、「いのち」の表現だからだ。(2020年3月14日)
おっしゃるとおりだと思います。そして、計量可能な命の面ばかりを語ろうとする人たちはいつも、その「量」をごまかそうとします。被害を小さく見せようとし、逆に危機を煽ろうとするときには数値を大きく見せようとする。それがこれまで行われてきた「命の統計学」だったのではないでしょうか。私は、そこにコトバを突きつけることで、それとは違う「いのちの政治学」の地平を開いていきたいと思うのです。
「命の統計学」の象徴が、水俣病の問題ですよね。被害をとにかく小さく見せようとごまかしが続けられた結果、救えたはずの多くの命が失われていった。そして、尊厳や社会関係といういのちまでもが奪われた。私たちが水俣から学ぶべきことは、非常に大きいと思います。
若松 現代においては、「数ではっきりと示せない」ことと、「存在しない」ということが、同じこととして扱われるようになっている気がします。でも本来、その二つはまったく別のことのはずです。
たとえばアウシュビッツにおけるユダヤ人虐殺について、600万人も殺されたなんて嘘だ、だからジェノサイドではなかった、などと主張する人がいます。しかし、ジェノサイドというのは、亡くなった人の数の問題ではないのです。仮に600万人という数字に誤りがあったとしても、亡くなったのが一人だったとしても、アウシュビッツで行われたことは許されてはならないはずです。
中島 私の専門の政治学で必ず学ぶことの一つに「統治の原理」というものがあります。ある国が植民地を支配するときに何を重視するかということなのですが、その大原則が「数を数える」ことと「分類する」ことなんです。
たとえば、イギリスによるインドの支配においても、最初に行われたのはインドの人々に「宗教は何か」「カーストは何か」といったことを尋ねて集計する、いわば国勢調査でした。実はそれまでのインドでは、宗教の境界線は曖昧で、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が明確に区分されていたわけではなかったのです。そもそも、ヒンドゥー教という概念が成立しておらず、一枚岩の宗教という認識もなく、さらにカーストの区別も明確ではありませんでした。イギリスはそれを無理やり、あらかじめ分類したカテゴリーにあてはめていきました。どういう分類の人がどこに何人住んでいるのかを把握することで、徴税をはじめとするいろんなシステムをつくっていくというのが、近代国家の原理だからです。
私は、この数と分類による「統治の原理」を超えたところにこそ、本当の政治があるのではないかと思っています。そして、そこを知るためには、いわゆる政治学だけではなく、文学や宗教といったものに接近していく必要がある。そこから「いのちの政治学」が見えてくると思うのです。
*後編につづく。「今、リーダーに必要なこととは?」(後編)は4月28日公開予定です。
(【4月28日予定】 goo blog、マルシェルでのサービス停止を伴うシステムメンテナンスのお知らせ)がありますので、アップできないかもです。