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広島原爆の日 「伸ちゃんの三輪車」

2018年08月06日 | 社会・経済

広島原爆の日 

父の悲しみ、語り継ぐ「伸ちゃんの三輪車」

  毎日新聞2018年8月6日

 

   73年前の8月6日、人類史上初めて原爆が投下された広島は、一瞬にして街が、人の営みが消えた。最愛の家族を失った悲しみを胸にしまい、あの日を語らなかった人。水を求める負傷者を助けられず生涯悔やみ続けた人--。被爆者が次々と世を去る中、その姿を見てきた2世や次世代の子供たちは託された思いを受け継ぎ、核兵器のない世界に向けて一歩を踏み出すと誓った。

 

被爆2世として決意

 

 毎朝小さな地蔵に手を合わせる父の背中が、日常の風景だった。広島市中区の原爆資料館で多くの来館者の心を揺さぶる「伸(しん)ちゃんの三輪車」。被爆死した我が子を三輪車とともに自宅の庭に埋めた故・鉄谷信男さんの深い愛情と悲しみを伝える代表的な遺品だ。戦後生まれた三男の敏則さん(69)は、多くを語らなかった信男さんが地蔵の前で毎日つらい記憶と向き合っていたと後に気付いた。「被爆2世として父を語り継ぐ」。73回目の夏、新たな決意をした。

 信男さんはあの日、爆心地から1.5キロの薬局を営んでいた自宅で家族と被爆。3人の子供を失った。自宅前で三輪車で遊んでいた長男、伸一ちゃん(当時3歳)はやけどで顔がはれあがり、「水、水」とうめきながらその夜に死亡。翌日には焼け跡から長女路子(みちこ)さん(同7歳)、次女洋子ちゃん(同1歳)の遺骨が見つかった。信男さんは伸一ちゃんを火葬する気になれず、一緒に遊んでいて亡くなった近所の女の子と手をつながせ、大好きだった三輪車と一緒に庭に埋めた。そこに「伸一に似ている」という小さな地蔵を置いて、毎朝線香を立てて手を合わせるようになった。

 被爆から40年の1985年7月、信男さんは自宅の建て替えを機に伸一ちゃんを掘り起こそうと決め、親戚や一緒に埋葬した女の子の母親ら十数人が庭に集まった。敏則さんらが50センチぐらい掘ると、三輪車のハンドルが見つかり、さらに掘ると、白い骨が出てきた。丁寧に土を払っていくと、手を重ねたままの2人の姿があった。小さな指先、頭蓋骨(ずがいこつ)もほぼ残っていた。敏則さんは驚いたが、「父は取り乱すことなく静かに見ていた」。遺骨は墓に移し、三輪車は原爆資料館に寄贈した。

 信男さんは三輪車の展示を機にメディアの取材も受けるようになったが、敏則さんら家族に被爆当時や伸一ちゃんについて語ることは一貫してなかった。幼い敏則さんが伸一ちゃんを埋めた場所のそばを走り回っても怒らず、地蔵に拝めとも言わなかった。強く印象に残っているのは朝食前、庭先で地蔵に静かに向かい合う父の姿だ。遺骨を掘り起こした後もやめず、98年に亡くなるまで続けた。

 「あまりに当たり前の風景だったので、何となく始めた」とその後は敏則さんが引き継いだ。毎日手を合わせるうちに、気付いた。「毎日地蔵の前に行くことは、毎日子供を失ったあの時を思い出すということ。私なら耐えられないが、どんなにつらくても忘れたくなかったのだろう」

 70歳が近づき、メディアなどを通してしか知らなかった父の体験や思いを自分でたどりたいと考え、書き残したものや記録を探し始めた。6日朝もいつものように手を合わせた敏則さんは「それぞれの家庭に被爆体験の伝え方がある。うちは父が背中で、ごく自然に忘れてはいけないと教えてくれた」。父の姿を子や孫たちに伝えることが、自分の役割だと思っている。【寺岡俊】

 

 

 

広島平和記念資料館