五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

野村校長の教育方針

2011-05-25 06:13:09 | 五高の歴史


色々五高に関するエピソードを掲げてきたが、自分の知識確認のため時々はその復習をしている
      五高正門

野村校長の教育方針として第3回卒業生田中尚志氏が思い出として述べられていることが習学寮史の11ページにある。これを転載する。

野村校長は学者というより武人肌の熱血漢で眼光爛々、獅子奮迅の勢いがあり、国士教育のためには果断、猛進、泣くに非ざれば怒るという顔色であったと、 反面では、非常に学生を愛しスポーツ教育を施した、乗馬を奨励し、弓道場を設け、野球、蹴球、その他のスポーツ施設も備えた。学校幹事に 鹿児島出身の大橋太郎、体操に川上親賢、舎監には鹿児島出身で西南戦争の生き残り清水元吾、同郷の腹心飯田秀魁を任用して教育に当らせた。最も盛んに行われたのは器械体操であり、指導には重田、川上という第六師団でもっとも熟練した2人を当らせた。                             
と語っている。

この時代は、まだ近代教育制度が確立されていない時期で、私塾出身者も多く、年齢も学力も全くのばらばらでその能力に合わせて受験が出来た。入学試験では、数日の時間をかけて審査した上で、その結果を見て学力に応じて振り分けられた。第一回の生徒募集では、「出願者に対し、一回だけの通検だけでは、その学力を査定し難いので、普通試験法のほか、特に復習・訓練等、種々の方法を混へ、数週間を期して覆審照査を遂げ、然る後、各自の実力を差別すべき見込に付、従来学習した書籍など、なるべく携帯の上、数週間滞在のつもりで出校するように」と通告している。体力試験では、城壁の上を続く限り駆け足させ、障害物を越え、壁上に登らせ、また飛び下りさせるなど、各自の耐久力や気力も試験し、強健に、気力は旺盛なることを一般に知らしめて入学の当初から生徒の気風を一新させた。

授業では、原書をそのまま使用し、まさに英語学校の様相であった。明治政府の望んだ急進的な欧化主義に沿った教育を実践し、野村校長の一言一句は、五高校風に一大影響を与えた。
教師には、天下の豪傑を集めて教育に当らせたため、学生の気風は活発勇壮で、教育者も非教育者も国家本位の教育、国士教育の片鱗が見え隠れする。
まだ、近代学校制度が確立していない時期での混沌としている時代にあって、その中で野村校長が「酒も飲めないような男は国事を論ずるに足らず」といって教壇に立ったというエピソードも残っている。

このように初代第五高等中学校長野村彦四郎は明治政府が希望する教育方針を実践した推進者であったことは注目すべきことである。