五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

熊本に於ける夏目漱石の住居変遷

2011-05-18 06:24:52 | 五高の歴史
色々五高に関するエピソードを掲げてきたが、自分の知識確認のためしばらくはその復習をしている。
熊本に於ける夏目漱石の住居変遷
熊本を舞台とした漱石の作品「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「二百十日」「草枕」等
漱石が熊本に在住したのは明治二十九年四月から明治三十三年七月の約四年三ヶ月」までの4年3ヶ月 
(到着)
池田駅(現上熊本駅)到着、明治二十九年四月十二日午後二時過ぎ同行は宇品から門司に向った船中で知り合った俳神、水落露石、武富瓦全・・そして久留米まで出迎えた菅虎雄の四人で降りた。

駅から人力車で京町の坂を上り、新坂を下る時熊本の樹木の多さに驚く「熊本は森の都だなあ」と言ったとか、それで漱石が「熊本が森の都」の名付け親といわれる
漱石は五高の英語教師として松山中学から赴任月給100円、ちなみに松山では80円だった、五高へ世話したのは菅虎雄であった。当時は小学校長10円~15円、巡査15円の時代で今の金額であれば百万くらいではないでしょうか、当時の五高敷地の価格一坪25銭 現在の相場25万円、一平方メートルでは8~10万くらいか
薬園町にあった菅の家に約一ヶ月近く世話になる。菅の末妹のジュンの勝ち気な性格に手を焼き「おジュンさんは苦手」ともらしたといいます。熊本では俳句をのこし九百五十九句を残している。

(第一の家)
最初の住まい光琳寺・・・現在下通り
東京から鏡子夫人を迎え結婚式を挙げる暑い日であったので新婦の父は障子を外し上着を脱いで新婦の浴衣でくつろぐ
東京から来た年取った女中さん、婆やさん、車夫が、台所で働いたりお祝いの客になったりして簡素な結婚式を挙げた。総勢6名費用は七円五十銭であったとか
現代の金額であれば10万から15万であろうか、この家はその昔妾がお手打ちになったとか、又家の前が墓地であったので鏡子夫人が怖がり転居した。現在は市の中心街で石の碑だけが昔をしのばせる。
         衣更へて京より嫁を貰いけり

(第二の家)
第二の家は合羽町(坪井)の家賃13円・・・当時としては高い家賃であった。現在は駐車場になっています。この家では漱石は「教師を辞めて単に文学的の生活を送りたきなり」という手紙を正岡子規に送っています。
         名月や十三円の家に住む
         蕾程の小さき人に生まれたし     このころの漱石の心境を読んだ句である


 (第三の家)
第三の家は大江の家この家は現在水前寺公園内に移築され保存されています。一般公開はされていません。
この家の時、明治三十年の暮れから正月にかけて五高での同僚教官であった山川信次郎とともに、小天温泉に出かけ「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ、情に竿させば流される。意地を通せば窮屈だ。」という文句は有名でこの名作「草枕」生まれたのです。
小天温泉は前田案山子の家・・その別荘に宿泊次女の卓子が出戻りしていた
那美のモデルで二人の接待にあたった。

(第四の家)
第四の家が井川淵の家で鏡子が最初の子供を流産しヒステリーになり増水の白川で自殺未遂事件を起したのでここでの生活は短かった。ここでの生活は漱石の人生に影を落とした。
寺田寅彦が友人のために点を今で言う単位を貰いにきたりしている。


(五番の家)
五番目の家がが内坪井の家で、今まで住んだ家では最も広くここで長女筆子が生まれた。鏡子も気に入っていた。この家が現在の漱石旧居で漱石の関係資料等が展示されている。熊本市が保存している。ここは漱石・鏡子とも気に入ったらしく寺田寅彦が馬小屋でもいいから置いてくれと頼みに来た。
        安々と海鼠の如き子を産めり


(六番目の家)
熊本での最後の家になったのが北千反畑の家で、この家での生活は三ヶ月余で在外研究員として英国に出発しています。現在は住居として住んで居られます。