五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高の建物・第五高等中学校本館(五高記念館)について 

2011-05-15 04:05:46 | 五高の歴史
色々五高に関するエピソードを掲げてきたが、自分の知識確認のためしばらくはその復習をしてみたい。今日は五高の建物・第五高等中学校本館(五高記念館)について 
                            
 五高記念館は平成22年12月14日博物館相当施設として文科省より指定された。平成5年同窓生である故福島県知事、故守住参議院議員等初め熊本県文化企画課から一般公開の要望があったことに伴い公開されたもので、以来大学はこの歴史ある建物をユニバーシティ・ミュージアムの核として歴史観光の情報発信基地として充実させて来た。

第五高等中学校の教室として、明治21年(1888)2月に着工され、翌22年(1889)8月に完成した赤レンガ建物でイギリスのクイーン・アン様式と言われる明治期の熊本を代表する建物で、昭和四十四年八月には国の重要文化財に指定されている。

本館(284坪 940㎡)は煉瓦と自然石(安山岩)を積み上げた組積造で、現代の鉄筋コンクリートの建築とは異なり、煉瓦の厚い壁が建物を支えている。屋根は日本瓦が使用され左右対称の形や窓などに明治の西洋風建築の特徴がある。土台の石材は石神山から切り出された島崎石が使用され、煉瓦は細川家菩提寺である泰勝寺の東側に煉瓦製造所を設置して焼いたもので、基礎工事には深さ9尺(約3m)に及ぶ白川から揚げた栗石が敷きつけられたということが記録されている。そのため暫くは白川の水が澄まなかったという。明治22年の創建以来120余年の風雪に耐えながら今も優美な面影をとどめているのは驚きであるが、それはこのような入念な設計にあると言われている。

記録によると明治22年7月28日深夜には熊本地区は未曾有の大地震に見舞われ、民家の倒壊により圧死者、負傷者多数あって、両陛下からも御下賜金があったほどの災害にも関わらず、本館には些かの被害もなかった。このことは職員生徒の誇りは勿論のこと九州における最高学府として熊本県の誇りでもあった。明治25年にはシカゴで開催された万国博覧会に日本を代表する建築としてその設計図が出品されている。連日遠近から見学者が訪れ観光見学のコースにも入っていたという。

建設にともなう費用について、熊本県の地方税から10万円支出されていることは熊本県の教育に対する熱意が理解できる。同じ時期に設置が決まった他の4つの高等中学校の敷地がともに2万坪内外に比べて5万1千坪に及ぶ広大な敷地を確保したのは将来を見通した先人達の卓見であった。

嘉納治五郎、小泉八雲、夏目漱石をはじめの有名教授陣、同窓生として池田勇人・佐藤栄作の2人の総理大臣を始めとして幾多の俊才が学んだこの校舎から日本を動かした人材を生んだことは磨り減った石段がその歴史の長さを無言のうちに物語っている。

五高七不思議の中にも登場する正面玄関は不開扉として殆ど開けられたことはなかった。また開ける必要もなかったので正面玄関の石段は殆ど磨り減ってはいない、平成5年の五高記念館一般公開に伴い開放されるようになったものである、熊本の文化歴史資料の発信地として何時までも後世に伝えて行きたい建造物である。(東孝治)