五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

記念館周辺の散歩

2011-05-09 06:16:26 | 五高の歴史

      
        立田山にある苔園


立田山について

かつては黒髪山と呼ばれていたが、奈良時代に赴任した国司が奈良の龍田を偲んだ歌を詠んだことから、こう呼ばれるようになったという。黒髪の名前は現在も付近に丁名として生きている。
立田山にある施設としては熊本市の緑地公園として昭和30年に開設されている。現在は立田山憩の森として遊歩道、展望台、休憩所などが整備され利用されている。



立田山頂上に来るまでに豊国神社がある。現在は豊国廟跡と言われては立田山中腹の立田山貯水地近くの平坦地にある。中央に大石を2か所積んであり、その一方は現在も燈明所が設けられ、側には文久4年銘入りの石垣石利用の手水鉢1基がある。
   
この豊国廟は、加藤清正が慶長4年に豊国大明神宮として造営したことに始まると言われ。瓦には金箔が張ってあり、瓦に太陽の光が反射し、白川の魚が逃げてしまったという伝説も残っているとか、
   
このように壮麗をほこった豊国神社であったが、加藤家の改易後は社殿は撤去されて締まったと言うことである。豊臣氏を滅ぼした江戸幕府にとって、秀吉を祀った豊国廟の存在は面白くなかったのではなかろうか。
加藤清正は関ヶ原の戦いでは東軍家康に組したとはいえ、秀吉に育ててもらった恩は決して忘れられなかった。この豊国神社を通じても清正と秀吉のきずなや清正と家康との関係を垣間みることが出来るのではなかろうか?