整形前夜 (講談社文庫) | |
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講談社 |
人生はぴんとこない戦いの連続だ。
と、穂村弘の頭からあふれ出す思索のかけらを集めたエッセイ集。
なぜか、この本「整形前夜」はぴんとこないエッセイの連続だ。
この頃、詩人としての穂村さんが好きになった分、エッセイの共感部分が薄れてきたような気がする。
「共感」と「驚異」という項目でその1・その2・その3と詳しくそれでいてしつこく述べている。
詩とか俳句とか短歌が読まれてないのは、たぶん詩歌が「わからない」からだろうと。
近代以降の詩歌は、どんなに「わかる」ひとにも半分くらいしか「わからない」ジャンルなのだ。
専門的にやっている自分自身でも、「わからない」のが普通。
だから怖がらずに読みましょうと言っても、今の読者はわからないことへの抵抗感はとても強い。
確実に「わかる」ところへの着地することを求めている。その結果、近年の小説などでも、「泣ける」本、「笑える」本とか、感情面での一種、実用書のような扱いになっている。
「共感(シンパシー)」と「驚異(ワンダー)」、言語表現を支えるこれらふたつの要素のうち、「泣ける」本、「笑える」本を求める読者は圧倒的に「共感」優位の読み方をしているのだろう、言葉のなかに「驚異」なぞ求めていないのだ。
ただ、ある種、生の時間が進むにつれて高まる「共感」とは人間の生存本能の一種だと・・・。
「お天道様ありがとう」「道端の石ころや雑草たちありがとう」「御先祖さまありがとう」という「共感」の光につつまれながら、安らかに個体としての死を迎えたい・・・。
本来、若者は「驚異」よりに憧れるものなのに、近年「ありのままの君でいいんだよ」「しあわせは自分の心が決める」的な「共感」寄りにシフトしているのは、あまりににも次へのエネルギーを感じることはできなく更新無き世に、より大きな世界の滅びを予感させる・・・と、危惧している。
難しいですな、「共感」ばかりの本だと、恋愛小説の延長みたいで、なよっぽいし、「驚異」ばかりの本だと、読むのに骨がおれ、読めない自分にイラついてしまう。まさに、この味加減匙加減の微妙な間て読んでいるんですな。(まあ、私の場合はいたって「共感」寄りでおますけど)
まあ、久しぶりに「驚異」よりの、穂村弘さんの「整形前夜」でおましたで。
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