カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 B年 年間第十六主日

2009年07月18日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
序文
山肌にそって流れ落ちる水、草の間からしみでる水、水底からこんこんと湧き出す水とは清水です。どの清水も清冽で手に触れて冷たく、口に含めば歯にしみて痛いほどです。水の豊かな菊池は野山の至るところでこの自然の恵みを受けることができます。水について話すとき、キリスト信者には洗礼の水を思い起こします。その時の神様の命、聖霊の潤し、清めの泉です。それだけではなく聖水のことを思い、神様の祝福につながっていきます。教会に入ってドアの横にある聖水に手を浸し、神様の祝福を受けて「父と子と聖霊のみ名によって・・・」と唱えながら自分の心、自分の体、自分の人生をイエス様の十字架に重ね合わせるのです。
菊池、山鹿教会は当主日にあたり、遊び心で海の日を祝うことにしました。魚と言えば、キリスト信者にとって色々なところで見逃せない絵姿になっています。古い教会の内外にまた、色んな聖画やキリスト教的な芸術作品の中にも見かけることがあります。それは初代キリスト教会の時から、「魚」は、ギリシャ語で(イクツウス)と書き表されイエス様の名前を意味していたからです。
「イ(イエス)キ(キリスト)ツ(ツェウス=神)ウ(ウヨス=子)ス(救い主)」だからです。この海の日に色んな魚の姿を思い起こして、イエス様の名前を祝いましょう。イエス様は私たちの日常生活の中で豊かな味と香りになっています。そこまで自分の人生の中にイエス様のことが沁み込むようになれば、より親しい身近な関係をイエス様と結べるのではないかと思います。同時に魚を見て、復活されたイエス様のいくつかの奇跡を思い起こします。五つのパンと二匹の魚を増やした時、夜通し何もできなかった弟子たちに多量の魚を捕らせた時、陸で弟子たちのために魚を炭で焼いた時です。
マルコ6・30-34
当福音書では宣教活動から帰ってきた弟子たちに対して、イエス様が大きな注目を示しています。同時に指導者のない群衆にも大きな憐みを感じておられます。神様は派遣された者たちを通して人類に対するご自分の慈しみと憐みを身近に示してくださいます。さて、当個所は三つの部分に分けられています。1)12人の弟子が宣教活動から帰ってきてイエス様に報告します。2)弟子たちはイエス様と一緒に人里離れたところで休息をとります。3)イエス様が群衆に対して大きな憐みを感じられます。
弟子たちがイエス様に自分たちの活動について報告した時、行ったことと教えたことについて話しました。その教えは、イエス様の教えと全く同じでした。宣教した時に弟子たちはイエス様自身の口、手、足、になりました。活動の後、イエス様に誘われてイエス様がされたように弟子たちも静かな所に行き、キリスト信者にとって欠かせない思いと世界を示しました。つまり、イエス様が指示した場所は静かな所であり、自分の故郷(神様の懐)です。弟子たちは祈りの中で、自分ができたことに対して感謝し、自分のことを新しく見つめ直します。実は活動できたのは弟子達の力ではなく、彼らを通した神様ご自身によるものでした。最後にイエス様が指導者のない群衆を深く憐れみ、自分の言葉を与え続けられています。また明らかにされたことは、弟子たちにとって、休むことはイエス様の憐みを身にまといながらイエス様と一緒にいるということなのです。
                               モヨリ神父