カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 B年 復活節第二主日

2009年04月18日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、


  牡丹は「百花の王、百花の神」と称されるほど重量感と気品にみちた花です。咲き開いたときの存在感は言うまでもなく、芳香を伴った大輪を目のあたりにすると日輪よりも大きく感じるほどです。散ってゆくときもまるで大地の音を響かせるようで、大人の生死を見る思いです。日本の詩人は自分のことを蜂のようなものだと例え、牡丹は大自然に例えています。蜂が牡丹に入り込むと素晴らしい世界、香りと色の世界に入り込み、大きな喜びを味わい自分の人生の目標を果たすようなものだと考えたのです。それは神様の世界に入り込むキリスト信者と同じです。
復活節の第2主日に向かいます。まだ復活祭です。聖霊降臨まで、まだまだ復活祭の喜びを味わう時です。復活されたイエス様の姿は私たちの目の前です。「私だ、恐れることはない。」「いつもあなたと共にいる。」「あなたがたに平和があるように」と心からおっしゃっています。
「トマスはイエスが来られた時、かれらと一緒にいなかった。」
12人の使徒の一人、イエス様の弟子であるトマスは、イエス様が来られた時にどこにいたでしょうか。私たちも、重要な時に居るべき所にいない場合があります。この生きている貴重な瞬間を逃して、過去の中に止まったり、昔の悩みを掘り起こしたり、昔の悩みの原因となった人のことを赦せなかったりしています。私たちも復活され、たった今生きているイエス様の所にいないのです。空想の翼に乗って、未来に入り込んで夢をみたり、存在していない世界を憧れたり、自分のことだけを大切に考えて、世の中の主役になることだけを望んでいます。この時、聖トマスと同じように私たちは、生きておられるイエス様の所、私たちを訪れてくださったイエス様の所に、そして弟子たちがいた所にいなかったと思います。復活されたイエス様がおられる所に居れば、あるいは、この生きている大切な瞬間に復活されたイエス様を迎えられたら、次のようなイエス様の言葉が理解できると思います。
「聖霊を受けなさい。誰の罪でもあなた方が赦せば、その罪を赦される。誰の罪でもあなた方が赦さなければ、赦されないままに残る。」
一瞬々、幸せを探し求める私たちは、まず復活されたイエス様が心の平和であることを味わうのです。それは人を赦すことによって得られるのです。過去のことを振り返っても人に反感を持たなければ、イエス様の平和に止まることができます。イエス様の傷に触れて、肉と骨を持つ復活されたイエス様に出会うことができます。聖霊の力によって、イエス様に従った私たち自身が人を赦さなければだれも赦すことが出来ないのです。生きている瞬間にいつも赦す心をもっていれば、大きな喜びや幸せを味わうことができます。
「私を見たから信じたのか、見ないのに信じる人は、幸いである。」
イエス様は幽霊のようなものではありません。雲に包まれている夢でもなく、骨と肉のある方ですから、私たちのすぐそばで、手を伸ばして助けてあげられる人の姿をもっています。イエス様が復活された時に、婦人たちも弟子たちも、すぐには復活されたイエス様だとわかりませんでしたが、神様の言葉の光によって目が覚めた瞬間、イエス様を見ました。復活されたイエス様が、いつも私たちのすぐそばに一緒におられるのです。

                             モヨリ神父