カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 A年 年間第二十主日

2011年08月11日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛する皆様へ、
「永遠のものにあこがれているのに、心はなぜこの世の富に重きをおくのでしょうか。」
聖フランシスコ・サレジオ

墓参りは年末年始、春秋彼岸、故人の忌日などにおこなわれますが、季題としては盂蘭盆会を中心とした墓参が秋季として定着しています。墓石の苔(こけ)を掃いて洗い清めるところから苔掃、(そうたい)ともいいます。墓石に水をかけるのは死後の世界の一つに「餓鬼道」があり、ここに生まれ変わった死者は常に渇きに苦しむとされているので、水は慰めのしるしの一つになっています。一方、イエス様に希望を持つ人たちにとっては、水は洗礼の時に神様から受けた命を思い起こします。また亡くなられた家族を迎える時には、彼らと一緒に時間を過ごす新たな出会いの希望になっています。
 さて、典礼暦では月曜日15日に、キリスト信者はマリア様の被昇天を祝うことになりました。次の3粒の真珠のような教えを心にとめましょう。マリア様は、天国から一人一人を見守っています。次にわたし達が行くべき場所を示してくださいます。そして天国に行く方法を教えてくださいます。だからマリア様の被昇天の祝いは、日本の死者を迎える文化や宗教観の背景の思いの中で考えても、天国の方に開いた窓になっています。毎週の主日の聖パウロの言葉を心にとめましょう。聖パウロは独特な言葉を使っています。それは異邦人です。実は神様の目からは、聖パウロが自分について言うように聖パウロ自身には権利がなく、身分の低い者で異邦人のような者です。それでパウロは異邦人の使徒であることを公言しながら、神様が特別に弱い者、身分の低い者、権利のない者、外国人のような者を愛されるのだと強調します。つまり聖パウロが言うように、死者が命を探し求めるように、神様が異邦人を探し求め、憐れみ深さをもって皆を受け入れて愛一杯で包んでくださいます。
マタイによる福音書15・21-28
マタイの福音書はイエス様の心の広さを示しながら、信仰の強さについても語ってくれています。旧約聖書によると、神様は約束通り、選ばれたイスラエル人の救いの為にメシアが使わされました。新約聖書ではイエス様が全人類の救いのためこの世に来られて、神様の普遍的な心を、ティルスとシドンの地方のできごとによってお示しになりました。マタイの福音書のイエス様とカナンの女の会話と、先週の福音書の出来事を比較してみましょう。今週は一人の異邦人のお母さんが自分の娘の為に「主よ、憐れんでください。」と強い信仰をしめして願いました。先週は溺れそうになったペトロが自分のために「主よ助けてください」と薄い信仰をしめしながらイエス様の助けを求めていました。カナンの女の信仰はイエス様に誉められ、ペトロの信仰は薄いと叱りつけられました。しかし、両者ともイエス様の限りない憐れみによって救いを得ることになりました。だから、今日教えられたことは、確かに心の信仰のあり様によってだけではなく、神様の普遍的な愛によって救いを得られるのです。神様の救いを得られる資格を考えてみれば、なにも必要ありません。罪人であれ、異邦人であれ、どんな体と心の病人であれ、女性でも男性でも、人間でさえあれば、神様の普遍的な愛の対象になります。                       モヨリ神父
           
※「くまもと歳時記 編集委員会編」(熊本日々新聞社)より一部引用


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