カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

B年 待降節 第1主日

2017年11月28日 | 神父様からメッセージ(B年)
 

「使徒パウロのコリントの教会への手紙(Ⅰ)1・3-9」
 今日、朗読される使徒パウロの第一コリントの教会への手紙の始まりは、もうすでに何度も、耳にされたのではないでしょうか。このような表現はミサ、つまり感謝の祭儀の始まりの挨拶として使われています。さて、使徒パウロにとって、人間の人生でさえも典礼的な行動になっています。私たちの生き方は、神様から頂いた恵みによって、感謝の祭儀にそったもののようになっています。それだけではなく、イエス様に信仰によって結ばれている私たちが、イエス様と一緒に神様に対する捧げものになっています。このようにイエス様に愛されて、支えられている私たちが、生きている間に再びイエス様との出会いを待っています。その出会いはいろんな方法で行われています。この世の終わりの時、また私たちの人生が閉じられる時、そして各々の人生の多くの出来事の中でもイエス様に会うことができます。私たちは、使徒パウロの言葉によってイエス様に誘われ従ったのですから、私たちの人生は神様の賜物で満たされています。ですから、神の子となり神様との再開を期待しながら積極的に生きていきましょう。

「マルコによる福音書 13・33-37」
 マルコ福音記者の福音の個所は待降節の雰囲気へと皆を導いています。待降節の欠かせない課題はいくつかありますが、それはマルコの福音書に取り上げられています。まず、いつも目を覚ましているように誘われています。このような誘いは4回も繰り返されています。マルコ福音記者はこの場合だけではなく、イエス様が、ご受難の直前にゲッセマネに弟子たちと一緒におられたとき、居眠りをする弟子たちに目を覚ましているように勧められたと記しています。つまり、気をつける、試練の中で自分の身を守る、真実を理解することです。なぜなら神様が私たちの喜びを求めながら働いています。だからどんな時でも、どんな出来事においても神様と会える場となります。イエス様が語られるたとえ話の主人が、いつ帰ってくるか知らなくても、僕にとって恐ろしいことではありません。むしろ希望と楽しみで満ちた期待となっています。だから、常に信じるこころで祈りながら、再び会える、帰ってくる神様を期待しましょう。            
                                         
                                bモヨリ神

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。