カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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ラテラン教会の獻堂記念日 

2014年11月07日 | 神父様からメッセージ(A年)
     枯葉の上に落ちた霜のように、人生は日光に貫かれるとすぐに消えてしまいます。そのように寿命はとても短いものです。諸聖人の祝日と死者の日を迎える私たちにとって、確かに参考になる事柄だと思います。天の方に目を向ければ私たちの人生も豊かになり、神様の思い通りに日々を送ることが出来ます。秋に木の枝にぶら下がっている枯葉のように、私たちの人生は神様の手に大切にされています。
「マタイ福音書」 25・1-13
 当福音書の例えを通してイエス様が神様と人間との出会いを語られています。この出会いはお互い知らない者の出会いではなく、お互いによく知る人の出会いです。神様が盛大な祭りに人間を誘われて、人間はその誘いを受け取りました。神様に誘われた人は心を開き、授けられた知恵を通して目を覚まして、神様の存在や思いや働きに注意深くなり気付き、生きています。福音書の中に出てくる灯火用の油は心の知恵、そして心の期待感を例えています。この頃の典礼全体もイエス様が再び来られることとその時に人間との再会に注目されています。このような背景の中で、イエス様が語られた例えばなしを読みとらなければなりません。初代キリスト信者の共同体では、イエス様の再臨を心から期待していましたが、しかし使徒パウロは「2テサロニケの人々への手紙2・1-2」の中で、イエス様がすぐに来られるのではなく、今はふさわしくお会いする為に心の準備をして期待するのが欠かせないことだと述べています。一所懸命期待するのは大切であり、その期待は簡単なことではありません。だからペトロでも、キリスト信者と支え合いながらイエス様が来られるのを期待するように勧めています。なぜなら、期待する間は神様の慈しみと憐れみを受ける時です。つまり、救いの時です。その時にキリスト信者は回心ができる期間を実感しながら、自分の生き方を改善します。福音書の中に出て来る乙女たちは、おそらく普通に誘われた若い女性ですが、実際にはマタイの福音記者がこの例え話を書く時に、乙女たちのことは象徴的な姿にして、当時の共同体のことを示しています。使徒パウロは当時コリントの共同体を「清い乙女」とよんでいます。だから、福音書に出てくる乙女たちはキリスト信者の共同体であり、彼女らが持っている灯火は信仰から生まれた良い行いです。
花婿はイエス様です。
                               モヨリ神父

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