カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 B年 復活節第五主日

2009年05月09日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

早朝に求めた初物は苺です。白い皿に苺の紅が映え、苺を食べながら幸せな一日が始る気がしました。苺はオランダから輸入され、日本でも明治初年に栽培されるようになったバラ科の多年性植物です。そして、苺の文字の成り立ちは、毎が母に変化して、草冠がついています。「母」も「毎」も次々と子を産む、どんどん増えるの意味があるようです。
さて、5月の第2日曜日が「母の日」になっています。1908年アメリカのキリスト教会で、亡き母の追憶のために白いカーネーションを仲間に分けた女性によって始まりました。この日は母のいる人も母を亡くした人もそれぞれカーネーションを胸につけて、母に感謝の心を捧げたのです。日本でも教会では早くから守られてきましたが、終戦後一般でも広く行われるようになり、歳時記にも採用されています。いろんな国のいろんな民族のキリスト信者にとって、欠かせない理想はひとつであること、一つの心をもつことなのです。キリスト信者は違った思い、社会的な見方を持っていても、一つの心を持っています、一つの中心を囲んでいます、一つの体に属しています。その心はイエス様です。その中心は復活されたイエス様です。その体は私たちと共におられるイエス様の霊です。「高価な真珠のネックレスの一番安価な部分は、最も欠かせない部分となっています、それは真珠を結ぶ糸です。」復活されたイエス様はいろんな方法でご自分の存在を味わわせてくださいます。「私はある。」という宣言から、イエス様が身近に「私はよい羊飼い、私は囲いの門です、私は天から下ってきたパン、私は命のパン、私は道、命、真理です。」と温かく知らせてくださいます。復活節の第五の日曜日に向かっている私たちに、イエス様が頂点になるメッセージを改めて告げてくださいます。「私はまことのぶどうの木、あなた方はその枝である。」
ヨハネ福音 15・1-8
典礼から勧められたヨハネの福音書を分析しましょう。まずヨハネ福音書の世界に入る前に、イエス様の口を通して福音記者は徹底的に信じるように呼びかけられています。「わたしを信じなさい!」。ヨハネにとって信じるとは「イエス様の声を聞くこと、イエス様を知ること、イエス様に従うこと、イエス様の永遠の命によって生きること。」です。それに従って当個所のメッセージを深めましょう。イエス様がぶどうの木を用いて、私たちとイエス様のつながりを例えられています。ぶどうの木とその枝の間に命がながれてくるように、私たちとイエス様の間にも同じように命がながれています。ぶどうの木と枝は区別できませんが、一つの植物であるようにイエス様を信じる者はイエス様と一つであり、同じ命で生きています。「つながっている」と「結ぶ」、当福音書のこの箇所には13回ほどにも繰り返されています。その中に基本的なイエス様のメッセージがつながっています。イエス様と結ばれることによって私たちは生きる、豊かに生きて実りをもたらすのです。実を結ぶとは、私たちの働きの目的が自己中心的な満足を果たすのではなく、人に大きな喜びをもたらすことです。特に豊かな実りを結んだ者とは聖人たちと殉教者たちです。彼らの証によってイエス様の姿を身近に見せてくださり、イエス様の声、イエス様のほほえみ、場合によってイエス様の癒される手にもなりました。イエス様の命で生きた者たちはイエス様に結ばれた者たちで、イエス様がかれらの心に宿り、人の大きな助けと支えとなりました。ヨハネ福音記者が言うように、イエス様につながった者は清い心をもって、神様をそのまま見ることができますが、イエス様とのつながりを切り離すのは、大きな悲しみだけを迎えることではないでしょうか。                           モヨリ神父                   

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