カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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.B年 復活節第5主日

2015年04月28日 | 神父様からメッセージ(B年)

 5月の第2日曜日が「母の日」になっています。1908年アメリカのキリスト教会で、亡き母の追憶のために白いカーネーションを仲間に分けた女性によって始まりました。この日は母のいる人も母を亡くした人もそれぞれカーネーションを胸につけて、母に感謝の心を捧げたのです。日本でも教会では早くから守られてきましたが、終戦後一般でも広く行われるようになり、歳時記にも採用されています。いろんな国のいろんな民族のキリスト信者にとって、欠かせない理想はひとつであること、一つの心をもつことなのです。キリスト信者は違った思い、社会的な見方を持っていても、一つの心を持っています、一つの中心を囲んでいます、一つの体に属しています。その心はイエス様です。その中心は復活されたイエス様です。その体は私たちと共におられるイエス様の霊です。「高価な真珠のネックレスの一番安価な部分は、最も欠かせない部分となっています、それは真珠を結ぶ糸です。」復活されたイエス様はいろんな方法でご自分の存在を味わわせてくださいます。「私はある。」という宣言から、イエス様が身近に「私はよい羊飼い、私は囲いの門です、私は天から下ってきたパン、私は命のパン、私は道、命、真理です。」と温かく知らせてくださいます。復活節の第五の日曜日にある私たちに、イエス様が頂点になるメッセージを改めて告げてくださいます。「私はまことのぶどうの木、あなた方はその枝である。」
「ヨハネ福音 15・1-8」
 典礼から勧められたヨハネの福音書を分析しましょう。まずヨハネ福音書の世界に入る前に、イエス様の口を通して福音記者は徹底的に信じるように呼びかけられています。「わたしを信じなさい!」。ヨハネにとって信じるとは「イエス様の声を聞くこと、イエス様を知ること、イエス様に従うこと、イエス様の永遠の命によって生きること。」です。それに従って当個所のメッセージを深めましょう。イエス様がぶどうの木を用いて、私たちとイエス様のつながりを例えられています。ぶどうの木とその枝の間に命がながれてくるように、私たちとイエス様の間にも同じように命がながれています。ぶどうの木と枝は区別できませんが、一つの植物であるようにイエス様を信じる者はイエス様と一つであり、同じ命で生きています。「つながっている」と「結ぶ」、当福音書のこの箇所には13回ほどにも繰り返されています。その中に基本的なイエス様のメッセージがつながっています。イエス様と結ばれることによって私たちは生きる、豊かに生きて実りをもたらすのです。実を結ぶとは、私たちの働きの目的が自己中心的な満足を果たすのではなく、人に大きな喜びをもたらすことです。特に豊かな実りを結んだ者とは聖人たちと殉教者たちです。彼らの証によってイエス様の姿を身近に見せてくださり、イエス様の声、イエス様のほほえみ、場合によってイエス様の癒される手にもなりました。イエス様の命で生きた者たちはイエス様に結ばれた者たちで、イエス様がかれらの心に宿り、人の大きな助けと支えとなりました。ヨハネ福音記者が言うように、イエス様につながった者は清い心をもって、神様をそのまま見ることができますが、イエス様とのつながりを切り離すのは、大きな悲しみだけを迎えることではないでしょうか。                                                          
                                   モヨリ神父


B年 復活節第4主日

2015年04月28日 | 神父様からメッセージ(B年)
聖霊降臨を向っていく、復活祭を味わっているキリスト信者の心は、このように神様の美しさに溶け込んで輝いています。光であるイエス様が私たちの心を貫かれて、神秘的な世界とその現象を見られるような力となっています。イエス様もご自分の聞き手に話すときに、一所懸命にいくつかの譬え、イメージを使っていますが、実際に伝えてくださるのは人間の理性でつかむことのできない素晴らしい真実です。イエス様が譬えを使うと、その中でそれを聞いて受け入れる人に出会います。その小さい物語はイエス様に出会う場となっています。それだけではなく、復活されたイエス様がその小さい可愛い物語を通して、私たちの日常生活の中におられると知らせてくださいます。
ヨハネ福音書10、11-18
イエス様の一つの宣言で話が始まります。「私は・・・ある」。このような表現がヨハネの福音書によると、オレブ山でモーセに神様から伝えられた名前のつながりが強調されています。復活されたイエス様が私たちの人生の中にある、私たちの心や思いにあり、欠かせない存在です。そして、「羊飼い」という表現で、どのような形でイエス様が私たちの内に存在しておられるかが明らかにされています。罪の赦しを深く強調されたイエス様が、良い羊飼いの姿に譬えて深く憐れみの心を示しています。羊のように弱い、迷いやすいいつも赦される私たちを、愛の理由だけで支えてくれる羊飼いはイエス様です。良い羊飼いと羊のつながりは命です。イエス様がご自分の命を捨てる(失うー捧げる)ほど、私たちにご自分の愛、思い、喜びをくださいます。だから私たちにとってイエス様の命は欠かせない贈り物です。イエス様は本当の良い羊飼いです。このような表現は日本の思想においても理解しやすいことだと思います。良い羊飼いは模範的な先生です、「先に生きた者」、正しい先生、正しく真理を述べる先生、そして、弟子を愛情で包む先生です。上記のような思いは日本仏教の教典にもあります。けれども、唯一であるイエス様の救いはイエス様と全く同じようになる、考える、生きることです。正しい羊飼いは自己利益のためではなく、愛情の理由だけで羊を敵から守っています。つまり人間を神様から遠去ける敵はいくつもあります、哲学的な思想、社会的な競争、魅力的なさまざまな思いです。けれども、いつも私たちを赦し、ご自分の肩に担いでくださるのは模範である唯一の良い羊飼いです。イエス様が一人、一人にくださったのは正しい教え、迷うことのない真理だけではなく、ご自分の命、ご自分の体、ご自分の血。それを自分の人生に取り入れる人だけが永遠に神様の懐の中に生きるのです。
                              モヨリ神父