カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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C年第二十二主日 

2013年08月28日 | 神父様からメッセージ(C年)
  イエス様が勧めているのは忍耐より、他人により大きな愛を見せることです。愛なしでは人生も光と色のない日々になり、苦しさに耐えるだけの無味乾燥なものになります。愛で満たされている心があれば、日常生活の苦しい時でも色彩豊かな人生になります。苦しい時に愛を持って人に向かうことにすれば、相手にとっても素晴らしいことです。その時は人々により大きな愛を示す良い機会なのです。お産の時を考えてみてください、お母さんが苦痛を耐えることよりもそれを通して自分の子を産む、素晴らしい命を自分の愛から生み出すことが出来るということ。それは大きな苦痛でも、その苦痛を乗り越えたその後に、ほほ笑むことが出来ます。

「ルカによる福音書」14・1、7-14
イエス様の言葉によると、謙虚な心を持った人は具体的に真実につながるものであり、人の心も理解しやすい人です。謙虚な心を持った人は奉仕と施しをする人に変わりやすくなります。イエス様が勧められる謙虚、謙遜な心は単なる社会的なマナーの心構えではなく、イエス様は「わたしは謙遜なものだから、わたしに学びなさい。」との言葉で自分の心を手本にして、自分のように生きるように勧めてくださいました。当福音書のテーマは謙虚さの価値観についてのイエス様の話です。正義を無視して隣人を見下し、一番になりたい人がなぜイエス様から戒められるのか、イエス様が明らかにしてくださいます。まず、当個所は二つの部分に分けられています。一つはイエス様のたとえ話、もう一つはファリザイ派の人々に教わったことです。注目するところは、イエス様がファリザイ派の人の所に食事に行かれた時の事です。ファリザイ派の人々も皆が悪い者だけではありません、そして話の背景は宴会(食事中)のところです。言い換えれば、キリスト信者の共同体のあり様を示しています。上に記されたように、イエス様は宴会のしきたりを教えるつもりではなく、むしろ神様の心と思いを理解させたかったのです。罪人とファリザイ派の人が神殿で祈った時のように、神様は自己自慢する人を見下し、謙遜な人を高めています。当福音書の第二部では、後の人が先になるのは自らの働きではなく、高めるのは神様の寛大な心です。徹底的に利益を求める現在の社会と違って、イエス様が当時、自分に従う人に無償の心を勧めています。自由な心で行うものたちは(タラントンのたとえ話が参考に)神様にたくさん報われています。イエス様自身、自分を全て無償で、死ぬまで人々に尽くしました。イエス様の心に見習っている弟子たちも、自分の日常生活では自分を捨てて、自分のことを忘れて、無償で隣人に仕え、相手の喜びだけを求めています。
                                   モヨリ神父