カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

B年 第27主日 

2015年09月30日 | お知らせ


 ザベリオ会の創立者であるコンフォルチ司教様のモットーは使徒パウロの言葉を借りると次のようなことでした、「in omnibus Crhistus」つまりラテン語から翻訳すれば、「すべてにおいてキリストだけです。」この世の持主、この世の光、この世の愛の魂は神様です。このような思いが心に浮かんでくると、いつも神様の恵みによって誰の心も満たされ、大きな喜びを味わう事ができます。小さいものを特別に愛される神様は自分にとって全てである事をいきなり気づき理解したことでした。さて、10月4日はアッシジの聖フランシスコの祝日です。日本人が特別に愛している聖人であり、山鹿教会の保護聖人です。アッシジの聖フランシスコの人生の中で、素晴らしい特徴はいくつもあります。ぜひ皆さんも自分で探してみてください、感動的なメッセージを発見され、自分の人生の中で踏み倣うべき聖人の足跡を見出すことになるでしょう。
1・故郷は甘いと感じた人は弱い。
2・この世は全部、自分の故郷であると感じた人は強い。
3・全世界は海外のような所だと感じた人は完全な者です。
1番目の人はこの世を愛しています。
2番目の人はこの世の中に愛を広げています。
3番目の人はこの世の中で自分の愛を全て捧げ尽くした者です。{伊―諺}
「マルコによる福音10・2-16」
 当福音書によるとイエス様が結婚生活のルール、規定、法律を説明して守らせるよりも、私たちにも参考になる神様の心を語ってくださいます。まず、神様は花婿のように花嫁である人類を愛して迎えています。この愛の特徴は忠実で、何にも捕らわれない愛です。神様は人類と一体となって、人間は神様のように聖なるものであり、神様は人間の姿を受け取って、小さいもの、弱いものの姿をしています。神様の希望、神様の愛は人類と一つになることです。このような神様の心は人間にとって、今でも私たちにとって欠かせない心の参考になっています。結婚生活でも、共同体のあり方、教会の生活の中でも、キリスト信者にとって神様の心は手本になっています。この福音書のメッセージは、洗礼によって神様と一体となった私たちも人生の中で愛し合う方法は重要な課題であるということです。
                               モヨリ神父  


B年  年間第17主日

2015年07月24日 | お知らせ
   7月25日はイエス様の使徒聖ヤコブの祝日です。イエス様の言葉にいつも問われている私たちは、イエス様の時代の人々と同じように不思議な「しるし」を探し求めています。そこでイエス様が弟子たちを通して、七つの不思議なしるしを与えてくださいました。それは「秘跡」と呼ばれています。秘められた、神様の跡です。イエス様に従った者たちにとって、その人生での神様との関わりの中で欠かせないしるしとなっています。それは「洗礼」、水によって神様から命をいただきます。「聖体」、イエス様からパンを通してイエス様の心と体をいただき、私たちの人生の大きな愛の中に宿るようにします。「堅信」、油のしるしによって神様のものとして選ばれて、神様に忠実を誓います。「病者の秘跡」とは聖なる油を体に塗ることによって新たな力をいただき、心も体も癒されることです。「赦しの秘跡」とは司祭の声を通して、神様はすべて、何でも赦してくださいます。そして最高の愛のしるし「婚姻」と「叙階式」、人間の愛が神様の愛と同じように聖別されています。さて、私たちの目が覚めることによって、私たちの周囲に秘められた神様のいろんな跡を見ることが出来ます。それに気付くと、神様が私たちのことをこんなにも大切にされ、愛されているのかということがわかってきて大きな喜びを覚えます。
「ヨハネによる福音6・1-15」
 今まで連続して読まれていたマルコの福音書を一旦中断して、今日から五つの日曜日、ヨハネの福音書が朗読されます。今日朗読されるヨハネの福音書は五つのパン、二匹の魚を増やしたイエス様の奇跡が語られます。エピソードの言葉使いによって聖体につながる物語になっていて、群衆の希望に応えるようになっています。実際にだれでも望んでいるのは自分の人生が愛情で満たされることです。だから、今日の典礼の解説はイエス様の奇跡のエピソードを語りながら、心の愛を分かち合うように勧めています。大勢の人々がイエス様に従っていましたが、その理由はイエス様の不思議なしるしを見るためです。そこでイエス様は、モーセのように海を渡り群衆を山のほうに導き、皆を草原に座らせ良い牧者の姿を見せてくださいます。イエス様は使徒フィリッポを試みるために、皆を食べさせ、群衆の疲れを解決する方法を尋ねています。その後イエス様がご自分の命の力で貧しい人々の食べ物として五つのパンと二匹の魚を手にとって、皆に命を与えるパンを、ご自分の体と心を配っています。このあたりで注目することは言葉づかいです。イエス様の動作を語る為にヨハネ福音記者はイエス様の最後の晩餐、感謝の祭儀の言葉を使っています。「イエス様がパンをとり・・・感謝の祈りを唱えて・・・人々に分け与えられた。」この時こそ、カファルナウムの会堂で宣言されたように、イエス様が命のパンであることを明らかにされています。弟子たちは残されたパンくず全てを回収します、それが弟子たちにとって新たな尊い使命になっているのであり、イエス様と同じような技を行うことを意味しています。しかし、当時のユダヤ人たちはこのようなイエス様のしるし『秘跡』がまだ分からなかったのです。                モヨリ神父

B年 四旬節第一主日

2015年02月19日 | お知らせ
  この時期は、まだまだ冬の厳しい寒さが戻ってくることが多く時によって、熊本では気温が零下に戻る日があります。しかし「光の春」という言葉も使います。日脚が延び、太陽の光は少しずつ強くなってきます。同じ寒さでも日差しがずいぶん明るく感じられることを表わし、もともと、ロシアで生まれた言葉だそうです。灰の水曜日の典礼で四旬節に踏み出しました。灰の中で火が燃えていると思い、より深い復活祭の喜びを味わいたい私たちの四旬節の過ごし方は大きな課題になっています。イエス様が勧めてくださるのは「自分をして、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」それは日常の奉仕、祈り、小さな犠牲によって、イエス様の足跡を踏みながら、周囲にいる人達の心を思いやり、神の国を作ることです。キリスト信者の労苦は復活祭の光で照らされて軽くなり負いやすくなります。
「使徒ペトロの手紙 3・18~22」
 使徒ペトロの手紙は、イエス様の霊を通して神様に近づくように勧めています。人間は弱い者、間違いやすい者ですから、何度も神様から離れてしまいました。しかし、イエス様の死と復活によって神様のところに立ち戻ることが出来ました。使徒ペトロはこのような神秘的な出来事をノアの物語の人類の救いに例えて明確にします。洗礼の本格的な準備に入ろうしている方々にも参考になるはずです。洪水によって、罪に落ちた人々は滅びてしまいましたが、ノアは船で水の上に逃れ救われました、そして神様とのつながりを作り直しました。さて、洗礼を受ける者も同じように神様の霊から救われています。洗礼の時にかけられる聖水の徴によって私たちの罪は清められて、ノアと同じように神様と新たな深いつながりを作ることになっています。それはイエス様と一緒に復活することです。
「マルコによる福音書 1・12-15」
 ここでて私たちは砂漠のようだった心の回新を求め 四旬節に入って、キリスト信者は心の回心を求めて祈り、節制し、神の愛の技に導かれて復活祭を迎えようとしています。当マルコの福音書は二つのテーマに分かれています。イエス様が受けた誘惑と、イエス様の宣教活動です。基本的にイエス様が受けた誘惑のメッセージは、人は悪に追われていても神の言葉によって生きるということです。新しい人生の始まりにどのように心の回心を得られるのか、神は導かれながら最高の愛の技を教えてくださいます。それは赦しのことです。神の言葉によってイエス様と同じように人が悪に打ち勝って神の国の素晴らしさを見出すことが出来ます。だから神の言葉はキリスト信者にとって日常の食物になり、心の回心への道になります。確かに私たちもイエス様と同じように日常生活の中で野獣に囲まれています、しかしイエス様と一体となれば神の言葉だけに生き、天使たちは私たちに仕えてくれるのです。さて、神の言葉に目を覚まされ新しい時代が始まったと気付いたとき、神の国はもうすでに私たちの目の前です。なぜなら神の言葉は私たちにとって心の光であり、福をもたらす音だからです。このような言葉に励まされるのです。
                                 モヨリ神父

B年 主の公現

2014年12月30日 | お知らせ


   キリスト信者も神様のみ顔の光に照らされて、世界の平和を願って新年の歩みが始まります。特別にこの時、欠かせない真実を思い起こすべきだと思います。それはみ摂理です。このような言葉は神様の心を現わし、人類のための神様の慈しみを示しています。さてこの年の始まりに、私たちの夢、計画、望みなどを神様のみ摂理にゆだねるようにしましょう。空の鳥を養う神様、田畑の作物を豊かに実らせる神様が、今年も私たちの心の喜びや幸せを求めて導いてくださいます。今日、主の公現の主日を迎えます。イエス様は、全世界の人々に又、神様から遠くいる人々に救いの光として自分が生まれたことを示します。

「使徒パウロのエフェソの教会への手紙3・2-6」
 エフェソの信徒への手紙は、使徒パウロのまとまった教えを幅広く紹介しながらイエス様と教会との関係について語っています。教会は建物ですが、イエス様の体、イエス様の花嫁とも言われる象徴ですから、キリスト信者になって教会に属する者たちは、それにふさわしい生活を送らなければなりません。当箇所で使徒パウロは、自分の使命を強調してエフェソの信徒たちに神様のみ恵みの働きについて語っています。神様の心に秘められた計画が啓示によって明らかにされました。そしてその計画、つまり人類を救う方法はイエス様を通して聖霊の働きで知られました。イスラエル人であれ異邦人であれ、聖霊の力で神様の愛で満ちた計画を知るようになり、その救いの計画の対象になりました。つまり、イエス様によって神様のご計画を知るようになった人は皆一体となり、神様が約束された報いの対象になっています
「マタイによる福音 2・1-12」
 マタイ福音記者がイエス様の誕生の物語を語りつづけています。どのような心構えで、あるいはどの観点からそれを受け取れば良いのかが大切なポイントだと思います。誕生の物語にはヘロデ王が登場し、そしてその関連の出来事もイエス様の誕生とそれに対する反応が歴史的なところですが、それだけではなく、メシアとしてのイエス様の誕生がどのように預言を満たしていたかが明らかにされています。そして最後にそれを聞く人の心がいつも問われる福音書は、自分の人生と心を巻き込んだ答えを求めています。
誕生の物語の心は、イエス様が預言者の言葉によって、この世の小さな町に生まれられ、救いを待ち望んだ人類の希望が全て満たされたとされたことです。そして福音書の中に出てくる星や東方からやってきた占星術の学者たちの贈り物も象徴的です。その中に全人類の希望が含まれています。もちろん私たちの個人的な希望も、それぞれを全て満たされるのは、イエス様の誕生を通してこの世に現れた神様の愛にほかなりません。
                                             モヨリ神父

A年 年間第24主日

2014年09月13日 | お知らせ
この頃、私たちは「敬老の日」をも迎えることになります。しかし、年長者の方々の間に、何歳からこの祝いを当てはめるかが笑い話のようで微妙な問題となり、自分の長寿を感謝し祝うことが忘れられてしまう気がしないでもありません。この時に欠かせない思いは、年輩の方々に対しての感謝の気持ちだと思います。まず、彼等のたゆまぬ努力と労働によって、私たちの世界、人生、環境までもが楽になって綺麗になりました。次にお年寄りからいくつもの教えや知恵を授かる事ができ、それを受け継ぎながら信仰の尊さまでも覚えることができました。このように感謝の気持ちを持ちながら、先輩の方々と一緒に神様に向かい、この人生のため、またそれに伴った恵みにも感謝を捧げるべきだと思います。先輩方が一生懸命守った信仰は私にとって大きな贈り物になり、新たな義務になります。

「マタイによる福音書 」・21-25
 キリスト信者にとって赦すことは欠かせない心の態度です。隣人を赦すことによって自分の罪も神様から赦されます。主の祈りの中でも自分の方から人を赦し、自分も神様に赦されるように祈っています。さて、当福音書を通して、イエス様が赦しについてペトロに対する返事で、そして感動的なたとえ話を通しても簡単に教えを伝えてくださいます。イエス様が語られたたとえ話の中に登場する僕がいて、主人に対して莫大な借金をもっていました。自分の家族の者たちを奴隷として全て売っても、自分の持ち物を全て売っても、持っている借金に対して半分以下も納めることが出来ませんでした。けれども莫大な借金を持った僕は主人の足もとにひれふして、借金を帳消しにしてもらえるように一生所懸命に願いました。その願いの仕方は長年、教会のミサの典礼の中に「kirie eleison」という言葉で表現されていました。「kirie eleison」(キリエ エレイソン)ギリシャ語で、心のこもった深い願いを示し、大きな愛で包んでくださいと言う願いの意味をも含んでいます。その願いを聞き入れた主人は、僕の借金を全て帳消しにして赦しました。さてイエス様に望まれた共同体も、お互いの赦しの下に作られています。その赦しがなければ、イエス様の共同体も消えてしまいます。そして私たちがいつか、人に対する赦しや寛大な心によって、同じように神様に裁かれます。神様の大きな赦しを体験した人だけが赦すことが出来ます。赦す人はまず、自分の負った傷を治してから、赦しを与えることが出来ます。けれどどうしても赦せなかったことが赦せるようになるには、長い歩みが必要です。その時、祈りの中で神様の支えは欠かせない力になります。 モヨリ神父

先月のできごと(2014年4月)

2014年05月02日 | お知らせ



<4月17日(木)・聖木曜日(洗足式)>






<4月18日(金)・聖金曜日(主の受難)>



・・・菊池教会(4月のできごと)・・・


・4月 6日(日)

 4月定例会議が行われ、本年度からの新役員が決定しました。旧役員(会長、会計)2名の方に信徒会から感謝の花束が贈られました。菊池教会発展のために長期間、大変ご苦労様でした。


・4月17日(木) 聖木曜日(主の晩餐)

 ミサの中で、「洗足式」が行われ、神父様が、ミサに参加した男性信者の足を洗われました。また、特別に用意されたパンがミサ終了後、配られました。


・4月19日(土) 聖土曜日

 ミサの中で、3名の方の洗礼式が厳粛な中で行われました。共同体の中に、新しい兄弟をこの日、ミサに参加した大勢の人たちで迎えることができました。

・4月20日(日) 復活の主日

 復活の主日のミサは、お御堂一杯の信者でイエス様のご復活をお祝いしました。

A年 復活の主日

2014年04月17日 | お知らせ
           ご復活、おめでとうございます!!
大自然と共にわたし達の心の命、わたし達の夢がイエス様と一緒に復活しています。大自然も春分の日とお彼岸を迎えた後、季節はすっかり春になり、新しい服に着替えたような気がします。春は花嫁のように綺麗で、さわやかな香りに包まれ、家々の庭、野や畑、山に抱かれた森の中にも、春の入場を見る人の心を豊かな喜びで満たします。
「復活祭のヨハネの福音書 」20・1-9
 イエス様が復活されました。 イエス様は人類の罪、人類の弱さや苦しみを背負い、それを神様だけが持つ普遍的な力、愛の力によって死の闇を乗り越え、わたし達に赦しの復活、喜びの復活、命の復活を教えてくださいました。言い換えれば、体と心、心身で命の尊さを諭されました。今日、復活祭の喜びを味わいながら、この神秘的な出来事を深めましょう。聖書によると、週の初めの日、婦人達が朝まだ暗い内にイエス様のお墓に着いた時、それは空っぽでした。そこに葬られたはずのイエス様のご遺体はなかったのです。婦人達がイエス様の姿を見ようとしても見当たらなかったのです。あの時の婦人達が感じたことは、誰でも理解し易いと思います。彼らはすでにイエス様のご受難によって、心を騒がせていました。その上お墓の石が転がされていて、イエス様のご遺体は見当たりません。彼らの心は大きな痛みで抱かれました。しかしその時、体の目は心の不思議な光に照らされて、天使たちの声を通してイエス様が復活されたと悟りました。聖書に書いてある通り、イエス様は、お墓で蘇えられ輝いた姿を現わされました。それに気づいた婦人達の心は大きな喜びで満たされて、走って行きその素晴らしい出来事を告げ広めました。わたし達の場合、神様の不思議な恵みによって洗礼を受けましたが、どのようにイエス様の復活の体験を日常的に言葉で語ることができるのでしょうか。まず、人間が自分の人生が暗い時、苦しい状況の中、死の恐怖の中で、神秘的な方法でイエス様と出会うことが出来ます。わたし達が苦しんでいる時にこそ、イエス様は特別にわたし達のすぐそばにおられます。その時わたし達の力でその姿を見ることは出来ませんが、神様が送ってくださった心の光によって、イエス様の輝いている姿を見ることが出来ます。自分が苦しんでいる時に、失望した時に、その場でわたし達の苦しみを分ち合ってくださるイエス様のことを思い出すようにすれば、イエス様が約束された通りに、その出会いを実現することが出来ます。その新たな出会いによって、わたし達は大きな喜びを味わい、死から命の素晴らしさを見出すことができます。罪を赦されたわたし達が、愛する愛される自由を覚えた人間になれるのです。又、イエス様が十字架上で送り出だされた息吹によって、イエス様と一緒に復活し、永遠に生きることになります。「今日私と一緒に楽園にいる」復活とはキリスト信者にとって欠かすことのできない人生の経験です。それは自分自身を深く生きることによって、イエス様がもたらした救いの意味を身近に理解することが出来るのです。       

A年 四旬節第五主日

2014年04月03日 | お知らせ
 今週の日曜日が聖週間の直前の最後の日曜日となっています。洗礼を受ける人達の為に欠かせない課題に踏み入ることになりました。それはわたし達の命、復活であるイエス様のことを心で、体で、全ての思いでえらばれることです。信じるとは頭で決めることではなく、全身全霊で生きることです。イエス様ご自身がこの時の福音書の中で次のことを宣言してくださいます。「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と。命のこと、生きることは、わたし達にとって神様からの最高の賜物です。又人間にとって、生きることは神様との最も堅密な結びつきになっています。わたし達は神様の息吹で生きているではありませんか。だから人間にとって命とは、もっとも大切な宝物であるはずです。しかしわたし達の弱い手に置かれたこの偉大な宝物は、簡単に失いやすいものであり、いつも十分に評価されていないようです。実は人は大切なものに気付くこと、また宝物を手にもっていることはそれを失うと言う悲しい経験によって知ることが多いのです。
「ヨハネによる福音」11・1-45
 イエス様は今日の福音書の中で命の尊さを教えてくださいます。ベタ二アのユダヤの町にイエス様の最も大事な友人がいました。それはマリアとマルタとラザロでした。 突然ラザロが亡くなって、イエス様がそれを知らされた時、珍しく、泣くほど大きな悲しみを感じられました。イエス様は人間であることによって、人間の苦しみに対して、人間の死に対しても心をかけておられ、深くその痛みを分ち合って自分の生涯全体で、自分の身に背負うようになさいました。 けれどもイエス様は神の子であり、神のいとしい命で生きるものでありながら、人間の苦しみ、人間の死、どんなに辛いことでも、神様と出会う場に変更されました。イエス様が使徒パウロの言葉を通して次のことを教えてくださいました。「わたしと苦しんで死ぬ者はわたしと生きる、永遠に生きる」(パウロのローマ人への手紙6・5)。イエス様が、亡くなった親友ラザロの死を悲しんで、御父である神様に祈り、ラザロの命を取り戻しました。そのしるし(奇跡)によって、イエス様は自分を信じる人に、復活であり命であることを示されたのです。わたし達の生きた経験では、実際にどのようにイエス様が復活と命であることを理解できるのでしょうか。その答えは、キリスト者にとって信仰の核になっています。各々の苦しみの中で、わたし達はイエス様とひとつであることを信じて実感すれば、そして神様もわたし達と同じ苦しみを背負ってくださったのだと理解すれば、わたし達は決して寂しい一人ぼっちではないことを、神様がご自分の存在と命の尊さを通して教えてくださいます。イエス様がわたし達の希望と喜びの道であり、目標であると受け止め、わたし達は神様の愛に包まれて、神様と同じ命で生き、その中で永遠に生きることを知らされます。              
                    
                                 モヨリ神父

C年 王であるキリスト主日

2013年11月21日 | お知らせ

七五三、勤労の感謝の月に、王であるキリストの祝日を迎えます。つまり、イエス様自身、王であると宣言します。実はそれをされたのはピラトの前でした。ちょうど大きな苦しみを迎えた時です。十字架の上部に書いてある通り「INRI」ラテン語で「IESUS・NAZARENUM・REX.・IUDEORUM」(訳):「イエス様はユダヤ人の王です」。謙虚なイエス様が「私は王です」と言っていますが、それを聞いてわたし達は驚きます。けれどそのイエス様の言葉を少し深く考えてみると、真実の愛の素晴らしさを示してくださいます。この世の王様達のことを考えてみましょう。王様とは自国の民の人生の中心であり、すべてを自分から出し、全てが自分に戻ってきます。王様は王国の中心であり、愛の勝利を示しています。国民を愛して一人一人の為に命をささげて、皆を見守っているものです。同時に国民達は王様の姿を見つめながら、その思いの下に生きています。そのように王であるイエス様と神の国の一員である私達も、普遍的で欠かせない大きな愛に結びついています。

「ルカによる福音書」 23・35-43
使徒パウロによると「王であるキリスト」の意味は神様の子であるキリストを通して、わたし達は皆、罪を赦されて救われているということです。さて、当福音書は三つの部分に分けることが出来ます。第一、イエス様に対する民衆の侮辱、第二、イエス様と一緒に十字架に付けられた二人の犯罪人との対話、第三、イエス様と犯罪人一人との対話です。何人かの者たちが人類を愛する為に十字架に付けられたイエス様を侮辱しながら、イエス様がメシアと王様であることを認めず拒否しています。イエス様が神様とその愛について話した時に、よく神の国、あるいは天の国という表現を使っていました。その表現の中に含まれたメッセージは、イエス様は神の国の始まり、その国の中心であり、神の国の目標でもあるということです。キリスト信者にとって、イエス様は教会の頭であり、最後に復活されるものたちの欠かせない命ですから、皆の王様なのです。王であるイエス様によって、全人類が救われています。イエス様が人類の救いを望まれる神様の心を果たす為に、自分の人生を十字架上で全うされたから皆の王様であるのです。最後に反省した犯罪人の一人は、イエス様の心に呼びかけながら、イエス様を包む真実を強調します。イエス様と一緒に十字架に付けられた二人の犯罪人は正義による死刑を受けるのですが、イエス様は悪いことを一つもせず十字架に掛けられています。犯罪人の一人は、イエス様が本当に王であることを信じ、人々の救い主であると認めています。それでイエス様に向かって自分の救いも求めて願っています。宇宙万物の王であるイエス様は「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。」と約束されました。
                              モヨリ神父



C年 第二十一主日

2013年08月21日 | お知らせ
イエス様が自分に従った者達、疲れた者、病気の者、いろんな苦しみに抱かれた者へ暖かい眼差しを向けられ深く憐れまれて、「わたしのところに来なさい、休ませてあげよう」と言われています。その誘いを受け入れるようにしましょう。人間はいろんな時、いろんな理由で心を乱して疲れています。自分の居場所が見当たらない時、愛されていないと感じる時、自己中心的な生活を送る時、過去の失敗を思い悩む時、理想的な未来だけを望む時、自分自身だけで人生の問題を解決したい時、このような時イエス様のところに行きましょう。イエス様が休ませてくださいます。「道、真理、命」であるイエス様が、わたし達の心を照らし、暖かく養い休ませてくださいます。わたし達の心の中に新たな力を吹き込んでくださいます。そのように支えられて、わたし達は人生の素晴らしさを味わい歩み続けることができます。新たな力で蘇ることができます。
「ルカによる福音」13・22-30
ある人がイエス様に救われる方法を教えてくださいと頼み、また救われる人は少ないのかどうか尋ねました。イエス様が答えて救いの道を教えようとしました。イエス様は「狭い戸口から入るように努めなさい」と言う答えで救いの道をすべての人に教えてくださいます。その狭い戸口は確かに信仰の厳しさ、神様の共同体に尽くすこと、人生の中で愛の為に生きることなどの救いの道を示してくださいます。このような生き方はイエス様の十字架の愛を理想にし、復活の喜びを目指しています。初代キリスト信者の間にも、救いの話、そして神の国で一番になる人の課題は少なくなかったので、イエス様が人々の心に応えようとしています。まず救いに関しては意味のない事柄を強調されています、「ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、またわたし達の広場でお教えを受けたのです。」このようなことは救いを得られる資格にはなりません。聖霊によって神様のみ旨を行うこと、また神様のみ言葉に従うことによって、イエス様が話してくださった救いを得られることになります。狭い戸口に関してイエス様の発言は、少しずつ明らかにされています。神様まで導かれる戸口はいつも開いています。どうしても入ろうとすれば確かに神様の喜びに達することができます。イエス様を信じて、イエス様と一緒に十字架を背負い、人と神様を愛することは人間にとって簡単なことではありません、厳しい時も辛い時もあります、それはまさに狭い戸口に立つようなことですが、イエス様がおっしゃったように、どうしても入ろうとすれば神様に導かれて救いの喜びを得ることができます。イエス様はわたし達の救い主、イエス様が救いの道を教えてくださいます。自分の人生の中でイエス様を受け入れることによって心の救いを得られます。
                              モヨリ神父

お知らせ

2013年01月26日 | お知らせ

  1 ミサの時間表

    月~金曜日 朝6:30から

    土曜日朝7:OOから 夜6:00から(英語ミサ)

    日曜日朝8:30から 昼3:00から(第四日曜日のみ、英語ミサ)

    注:山鹿教会でもミサがあります。所在地:山鹿市大字山鹿563-5(市民病院横)

  
  2 勉強会

    第1、第2木曜日  朝10:00~1 1 :30