カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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C年 年間第18主日

2016年07月26日 | 神父様からメッセージ(C年)
 2016・7・31

 この苦しい暑さの中で風鈴の音にそよ風を感じる時、体だけではなく心まで涼しさがしみ込んで大きな喜びを味わいます。風のように、風鈴の音のように神様の言葉はわたし達の心に届きます。その音、またそよ風は聖霊と神様の存在をたとえています。神秘的に神様が語ってくださることは多いのです、命について、真理について、愛について話されていますから、それに耳を傾けなければなりません。わたし達にたくさんの良い行いも勧めてくださいます。人間であるだれでも、神様の神秘的なしるしを探し求めています。神様のしるしは、そよ風のようにわたし達の中で思いを変えて、素晴らしい世界、神様のふところの愛を見せてくださいます。八月のルカの福音書の個所の特徴は、神様の思いです。あるいはどのようにして人間と違って神様が考えてくださるのかを語られています。
「ルカ福音書12・13-21
 キリスト信者は出来るだけ欲張らないように生きるとをイエス様の言葉に強調されています。今日のミサの最初の祈りも、自己中心的な心から、欲張りな心を解放できるように神様に願っています。人間は自力でこのような欲望から自身を解放することができないので、それに打ち勝つ為に神様の力と支えが欠かせないのです。
 ところで、ルカの福音書のテキストは二つに分けられていますが、両方の場合とも、欲張る心にならないようにとのイエス様の注意につながっています。神様は自分より財産を頼る人を望まれないし、人生の成功も財産を目標にして望む人は神様の前に豊かになりません。当福音書の第一部は自分の兄弟と分けようとする遺産についてイエス様に相談に乗ってもらうように願うのです。第二部は自分に出来た財産について満足して喜んだ人の思いのたとえ話です。上記のたとえ話に正しい望みが含まれていても、イエス様が強調するのは、どちらにしても欲張る心も隠されてあるから、注意しなければならないということです。自分に対する正義を求める時、あるいは自分の出来た仕事に対して喜ぶのは当たり前ですが、物や財産に欲張りな心がとらわれれば神様の心から離れてしまいます。実はイエス様が批判されるのは自己中心的な心の態度で、そして全て自分の為に何でも欲しがりながら、隣人には何も分かち合わない心です。このように「欲張り」という単語によってイエス様が心の硬さ、偶像崇拝、自分の欲望を満たすために人の尊さと権利を踏みつける心の態度も示し、その改心を求めています。だからイエス様が注目されるのは単なる欲望のことではなく、人に対する無私の心です。言い換えれば欲望とは人間の愛に対して総合的な罪の源だということです。イエス様は一般の人の考えの見直しを求めています。どんな時でも人生の素晴らしい経験の中で、欲張る心に縛られないように暖かく勧められています。
                               モヨリ神父


C年 第17主日

2016年07月20日 | 神父様からメッセージ(C年)


「ルカによる福音書11・1-13」
 初代キリスト信者の間の教えの中に、断食について話してから、主の祈りを教えられています。そしてイエス様が教えられたようにいつも祈るように勧められて、主の祈りは一日3回唱えるような習慣がありました。この祈りによって初代キリスト信者は独特なグループであることを実感しました。イエス様の福音書が照らす光によって、イエス様が教えられた祈りを深く理解出来ます。イエス様の祈りの意味は、福音書全体を通して明らかにされているからです。現在の教会ではマタイによる福音書に書かれたイエス様の祈りが使われますが、ルカの福音書にも主の祈りがもっと簡単な形で伝えられています。わずかな言葉で主の祈りを説明するのは難しいのですがしかし、ほんの少しだけでも、中身にそって主の祈りの素晴らしさを深めるようにしましょう。皆のお父さんである神様が、あなたの命によって、一人一人、人類の歴史を生かしてくださいます。人間的な考え方を乗り越えてあなたの思いをお伝えください。わたし達にとって、この世界にとってもあなたの思いは確実であり、未来の安心です。神の国のしるしを通してわたし達に必要なこと、霊的な、又物理的なことも全てお与えください。わたし達の罪を赦してください、そうすることによってわたし達もすぐに人をそうできるようなものになれます。いつもお父さんのように抱っこしてください。わたし達の愛するお父さんであることをちっとも疑わないようにしてください。いつもどんな悪いものからでもお守りください。イエス様が祈りを教えられてから、いつでも、力強く絶えず祈るように勧めています。イエス様が祈りを勧めているのはしつこく自分の思い通りの願いを得る方法ではなく、聖霊を願う方法です。なぜなら聖霊だけがわたし達に必要なことを祈りに転換して神様に届けることが出来るからです。
                          モヨリ神父 

C年 第16主日

2016年07月11日 | 神父様からメッセージ(C年)
 
              
 キリスト信者とはこの世間に派遣された人です。イエス様に従ったものは皆、一人残らず派遣されています。実はイエス様自身この世に使わされて神様の心を示すことにしました。派遣されたキリスト信者の目的はイエス様と同じように人の心と体を癒し、命をもたらし、悪と戦う、清い心で神様を見ること、人の心に神様の平和を送りこむことです。イエス様に派遣去れて行ける場所は世界の全て、全ての人類の全人生です。つまり自分の居場所、それぞれの役割に応じて、家庭、職場、関わる共同体のことです。そして出発にあたり必要とされるのは持ち物や道具ではなく、イエス様の勇気、イエス様の憐れみ、イエス様が教えられた愛情だけで十分だとイエス様は何回も繰り返しおっしゃっています。布教の時に物理的な支えは、邪魔なだけです。イエス様の平和をもたらすのが最高の目標です。
 
「ルカによる福音10・38-42」
 ある研究者は、マグダラのマリアが復活されたイエス様に出会った時、「ラブニ」(意味=わたしの先生)と呼んでいたことにとても驚いて困っています。なぜなら当時女性たちは、偉い先生の弟子になるのが許されていなかったのです。しかし当福音書で明らかにされたのは、イエス様が当時のラビ(先生)の間に初めて女性を弟子として認められたことです。このようにマグダラのマリアは女性にとって新しくイエス様に従う形のはじめになりました。またマルタとマリアの出来ごとの物語は、イエス様の弟子になる方法を語られています。キリスト教の中でマルタは活動する生活の象徴であり、マリアは感想的な生活の象徴です。最初の修道生活を送る兄弟の共同体の中でマルタ、マリア、ラザロがいました。その中にマリアは「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」とあります。さてこの表現は独特な発言に聞こえますが、実は当時のラビの弟子になることを示しています。使徒パウロもイスラエルの法を勉強する為にエルサレムに行った時に同じ言葉を使って、ガマリエルの弟子になったことが示されています。だからマリアはイエス様の弟子になったことで、イエス様がはっきりとそれを一番いい方法を選んだとおっしゃいます。注目するところはまだあります。ルカの福音書の当個所の直前に、イエス様がサマリア人たちに拒否されましたが、ここでマリアとマルタが心からみ奉仕とみ言葉を聞いたことによってイエス様を受け入れています。それがイエス様にふさわしい接待になりました。現在、優しい心でボランティアの奉仕が広がっていますが、キリスト信者にとってより深い思いから発生します。まずイエス様の言葉を聞き、それを受け入れ、小さい者におられるイエス様自身に使えることが出来ます。普通にキリスト信者は、奉仕活動によってイエス様に対する愛情を示すことになると考えるのですが、イエス様が今日の福音書で強調するのは、イエス様の言葉を聞きいれた後にこそ、より大きな愛を示すことが出来るということです。       モヨリ神父      

C年 第15主日

2016年07月07日 | 神父様からメッセージ(C年)
 2016・7・10

「ルカによる福音書10・25-37」
 時代を通して、よきサマリア人のイエス様の例え話はいくつかの形で解説されましたが、有名になったのは教父たちの解説です。それは良きサマリア人はイエス様です。追いはぎに襲われた人はキリスト信者です。追いはぎは罪です。通りかかる祭司とレビ人は救いまで至らない人間の力を表しています。傷の上に注がれた油とワインはイエス様の慈しみと憐れみのことです。襲われた人が乗せられたロバはイエス様の人間性を示し、どのようにイエス様がわたし達の弱さを背負ってくださるかを象徴しています。宿は教会を象徴し、宿の主人は司祭のこと、デナリオン二枚とは二組の秘跡を示しています。しかし近代の解説によって、良きサマリア人の例え話の中に新たな特徴が強調されています。当福音書では、二つの質問が基本となっています。一番目、何をして永遠の命を受け継ぐでしょうか。二番目はだれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。このようにイエス様がイスラエル人の考えから新しいメッセージを宣べています。永遠の命を得るには、神様と隣人と自分も愛さなければなりません。人間はイエス様の言葉を聞いて、神様のご計画に従ってその命を全うした時にこそ、神様が自分を愛し大切にされていたことを示すことになります。しかし隣人を愛するとはどのようなことでしょうか、確かにイエス様が良きサマリア人のやり方を真似するように勧めています。しかし、それだけではなく、聞き手の人にイエス様が新たな質問を投げかけます。「あなたは誰の隣人になっているのですか」と。正しく神様への愛と自分への愛を理解すれば、隣人への愛はキリスト信者にとって、欠かせない心の形、言い変えれば慈しみと愛のある心となっています。慈しみと憐れみはキリスト信者の心の土台であり、常に苦しんでいる人の立場に立てるように勧められています。
                                      
                          モヨリ神父


C年 年間第14主日

2016年06月27日 | 神父様からメッセージ(C年)


 イエス様に従う素晴らしさを味わってみましょう。イエス様がメシアであることを何度も知らせますが、それはわたし達一人一人を大きな愛情で包む方であることを知らせてくださいます。同時にわたし達と一緒にずっとおられ、共に歩み、わたし達の日々の十字架も担い、わたし達の心と体を癒してくださいます。すべてのわたし達の過ちを赦し、わたし達の為に死んで、わたし達に普遍的な喜びを備えてくださいました。わたし達を支える食べ物になるほど、わたし達の心の中に宿ってくださいました。 どうして、わたし達にとってイエス様は一番、重要な人だと思わないのでしょうか、どうしてわたし達にとって欠かせない者になりませんか、どうして一人でも多くの者がそれを知らせる人にならないのでしょうか。是非、信じる共同体に尽くす喜びを持ってください。イエス様の神秘的な存在をわたし達の中に持って豊かに味わうようにしましょう。
「ルカ10・1-12・17-20」
 弟子たちにイエス様が与えたのは「シャローム」です。普通に「平和」という言葉に翻訳されますが、実際には「神様の思い通りに生きる」と言うことを意味します。だからイエス様から与えられた賜物である「シャロ―ム」は、それを受け入れた弟子たち、そしてイエス様に従った者達からわたし達に至るまで、再びいろんな人に与えるようにイエス様から勧められています。当福音書のメッセージは、神様から与えられた喜びと慰めが誰にも与えられていることです。この福音書は三つの部分に分けられています。72人の派遣、宣教する方法とその活動の心、そして72人が帰って来た時の達成感と喜びです。イエス様に任命された弟子は場合によって72人だったり、70人だったりと古い書物に記されています。それについてはどちらともはっきりと決めることができません。ある解説者によると当時知られていた全世界の民族は72だったそうです、だからイエス様は当時知られていた全世界の民族に弟子たちを派遣されたということなのです。そのように派遣はイエス様の先生としての心の広さが示されています。
 当時の狭い考え方を乗り越えて、イスラエルの民族だけではなく、全世界の人々に神様の心を告げ知らせる為に、イエス様が「シャローム」をすべての人々に与える為に弟子たちを派遣します。イエス様の派遣は祈りから始まります。イエス様の派遣は行動よりまず信仰から始まり、その派遣は神様のみ心に忠実に従う行動です。神の国は強制的なメッセージではなく、貧しい中で弟子たちは人の心に神の愛を勧めています。派遣された弟子たちは、場合によっては受け入れられたり,拒否されたりする時を迎えますが、イエス様は全ての力を宣教活動に属し、そのためだけに努めるように暖かく弟子たちを励ましています。当福音書は大きな喜びで終わります。イエス様に派遣された弟子たちは帰ってくる時に、いろんな出来事を語りながら自分の成功したことを自慢しますが、それよりも、自分の名前が天国に記されてあることをイエス様から大いに喜ぶように勧められています。
                                        モヨリ神父

 C年 年間第13主日 

2016年06月23日 | 神父様からメッセージ(C年)


 マタイ福音書の課題として、イエス様の共同体内の人間関係が描かれています。イエス様が絶え間なく勧めているのは、大きな慈しみと憐れみで包まれた心を持つことです。確かにわたし達の目の中にある丸太は、わたし達の視野をせまくするので、いつも相手を寛大な心で受け入れることができません。イエス様が知らない人でも挨拶するように、また何か頼みごとをする人に、より大きく応えてあげるように、敵でさえも愛するように勧められています。敵にも一切仕返しを思わず、いつでも相手を尊敬しながら相手をイエス様自身であるように思い、お互いに傷付けられたことがあってもいつも赦し合うように勧められています。
「ルカによる福音書9・51-62」
 どんな人間でも皆が神様から独特な方法で招ばれています。神様の想像力である聖霊は、この世で神様に導くいろんな道を完備してくださいました。その道の選択によって誰でも、喜びをもって神様のところまで行くことが出来ます。だれでも、それぞれ神様から定められた道を通って神様の心まで、あらゆる形で達することができます。当福音書の始まりは、イエス様がサマリア人から拒否されたことを語っています。イエス様が人を救われるため来られたとき、返ってその人に拒否されました。このようにイエス様に従う弟子は、自分の先生の運命を受けて、人に拒否されること、自分の愛情を評価されないこと、自分の犠牲と奉仕を認められないことをも受け入れて、イエス様に従うことになります。弟子たちが先生であるイエス様に忠実に従ったことは、人間としての評価を受ける為ではなく、むしろ神様の誘いに忠実に応える為です。イエス様が自分に従う人に対して、そしてその従い方について注意します。イエス様に従う方法の一つは共同体に奉仕することです。しかしイエス様がそれに以外の目的も注意します。そしてイエス様に従う人は聖霊の導きに従うものになります。それはむしろ、イエス様から選ばれたものなのです。神様の呼びかけは人の現世の関係を消すことなく、しかし神様の関係を優先するように勧められています。イエス様にとって家族関係でさえ、神の国を広めることよりも大切ではありません、しかし、家族の関係は神の国を広めるために重要なサポートになっていると教えてくださいます。

                             モヨリ神父

C年 キリストの聖体の主日

2016年05月23日 | 神父様からメッセージ(C年)


 麦の収穫の時期が近づいてきました。麦秋の景色を見つめながらイエス様の例え話の中の、いくつかの感動的な麦畑が登場する場面を見てみましょう。「収穫が多いが働き手が少ない」と言う言葉でイエス様が自分の心の大きな願いを示しています。毒麦と良い麦のたとえでは、イエス様が神様の慈しみと憐れみについて話してくださいます。また麦の種が土に落ちて、死ななければ実らないと、イエス様がご自分の愛、ご自分の人生をたとえています。そして良い土に落ちた種は60倍、80倍、100倍にも実ることになっています。このようにイエス様が神様の言葉をたとえられています。それを受け入れる人は、今頃の麦の穂のように豊かに実るのです。けれど麦をつぶし、粉にしてパンを造ることで、イエス様がご自分の体、ご自分自身、ご自分の心と存在を示しています。地中海付近では昔から、麦で造られたパンは行列で麦畑の間を通って特別な顕示台に運ばれ、イエス様の聖なる体として讃えられました。その時にイエス様の体を祝いながら、その小さな麦の種は、人間の労働の実りと共に、神様の神秘的な体となり、人間の救いの心を示していました。
「ルカによる福音書 9・11b-17」
 初代教会にとってイエス様の体、聖体は教会の一致のしるしであり、教会を養育する食物だと考えられています。聖体は復活祭の記念であり、歩き続けるキリスト信者を支える食べ物で、永遠の命の希望であり、教会全体の宝です。イエス様がパンと魚を増やしたことによって、聖体の意味を弟子たちから私たちに至るまで伝えてくださいました。困っている群衆にご自分がなさったように、弟子たちにも自分が食べ物になって食べさせるように勧めています。それはイエス様がパンと魚を増やした時に最後の晩餐のときと同じ動作と言葉を行なったことです。つまりパンと魚を祝福してから弟子たちに与えることにします。当時の第一の奇跡は小さなものから、つまり五つのパンと二匹の魚を分かち合ったことによって、5〇〇〇人の食べ物になって皆を満腹させたことです。その時、自分に従った者に対して、特に弟子たちに対してイエス様がご自分の心を示しています。イエス様が自分に従う貧しい人、人里離れたところまでもイエス様を追ってきた人を大切にし、見守りながら、パンと魚を食べさせることによって養い育てています。聖体を祝う時に教会は、イエス様の死と復活を、再び帰って来られるまで宣言します。それによって罪を犯した人は赦されます。それに当時の出来事の中でイエス様が弟子たちに向かって、弱っている群衆に食べさせるように命じています。その命令の中で重ねて言いますが、イエス様がとても素晴らしいことを教えています。自分がしたように弟子たちに自分自身、自分のことを食べさせるように勧めています。実はこれは愛の究極の姿です。イエス様が自分自身を食べ物にして、人と全て分かち合って皆を支える食べ物となりました。それは神様の最高の愛のしるしであり、それが聖体の祝いの意味なのです。
                                 モヨリ神父

C年 聖霊降臨の主日

2016年05月09日 | 神父様からメッセージ(C年)


 世界中のカトリック教会は聖霊降臨の祝日を迎えます。聖霊降臨は教会のお祝いであり、教会の構成が聖霊によって作られた共同体であることを祝っています。聖霊はイエス様の息吹、イエス様の心の音、イエス様の愛です。十字架につけられたイエス様が息を引き取った時にその息をご自分の弟子、私たちにも与えるようにしました。その息でキリス信者はイエス様と一つになって生きています。そして復活されたイエス様は怖がっている弟子たちのところに現れた時に、彼らの上に自分の息を吹きかけて、弟子たちに大きな勇気、力、光を与えました。その息によってイエス様の教会は全世界に広まり始めました。初代教会の時から聖霊降臨はペンテコステと呼ばれて復活祭の7週間後の祝いでした。もともとイスラエル人にとって麦の第2収穫の祝いで、また神様と愛の約束の更新の祝い、または神様の法を受け入れる祝いでした。キリスト信者は主の昇天の祝いが過ぎた時、ペンテコステと言う祝いの時季が終わろうとしたところに、聖霊降臨の祝いを重ね合せました。その時キリスト信者は教会の誕生を祝い、新しい神様と愛の結びを思いながら、新しい法、つまり、神様の愛の法を受け入れる祝いを始めました。
「ヨハネによる福音書 14・15-16、23b-26。」
 聖霊降臨はイエス様の約束を実現する時であり、教会の時代の始まりであり、皆が神様の栄光を自分の人生で誉めたたえる為に呼びかけています。聖霊降臨祭は復活節を締めくくり、教会自体がこの世の中で目に見える聖霊降臨の証になります。教会を通して聖霊は豊かな賜物を与え、至る所で人々を信仰と希望と愛に導いています。聖霊によって宇宙万物は神様の愛で満たされていて、教会は光で照らされ、人類の一人一人に神の子として生きるように呼びかけています。聖霊は人々の中に降ってきて、多数の異文化の中で、心と言語の一致を与え、同時に神様は皆のすぐそばにおられる友人であることを知らせています。聖霊はキリスト信者とイエス様の心を結び、イエス様と一緒に復活させ、神の子として生かされています。当福音書は特別に聖霊とイエス様の言葉とキリスト信者の愛の間に深い結びを示し、このような結びは神秘的な事実の一つであることを示しています。聖霊によってイエス様の言葉は神様の言葉であり、イエス様を愛する人はイエス様の言葉を守り、同時に神様を愛し、神様の言葉を守っています。神様の言葉を守るとは基本的に神様の掟を守ることです。その掟は二つで、イエス様を信じることとイエス様のように愛することです。聖霊が皆の心の中でイエス様の言葉を思い起こして、イエス様の言葉を解説しながら、理解させながらそれを生かしています。私たちの目の前でこのような舞台を開かれる聖霊は、イエス様に従った者の心の勇気と限りない喜びになっています。本当にキリスト信者は孤独なものではなく、このように聖霊に満たされ、乾くことのない泉に人生の力を汲んで、豊かに永久に生きています。イエス様は私たちの「命の泉」(聖霊)です。
                              モヨリ神父

C 復活節 第5主日 

2016年04月20日 | 神父様からメッセージ(C年)
2016 4・24
「ヨハネによる福音書10・27-30」
 イエス様がキリスト信者の愛の基本、模範と目的であることは当福音書のテーマです。普通、愛には命令が出来ないはずです。との名言の意味は言いかえれば、愛には理性で理解できないこともあります(B・パスカル)。確かに自分のことを愛するように人に命令しても無理なことで、人間には情けが自発的に湧いてきます。どうしてイエス様が自分を愛するように命じているのでしょうか。イエス様が勧められている愛は情けに属す愛ではありません、このような愛は私たちの中に宿る聖霊によって燃え、イエス様から頂いた贈り物であり信仰から湧いてきます。イエス様が勧められている隣人の愛は特別であり、神様が一人一人を包んでくださる愛と同じで、それは信仰によって極める愛です。イエス様が情けの中から自発的に発生する愛だけではなく、信仰から実った愛を命じてくださいます。
 イエス様に栄光を与えることによって、神様がイエス様の死と復活を通してどのように、どれほど人類を愛してくださったかを見せてくださり、イエス様が成し遂げられた神様のご計画は人類のための愛の手本をくださったのです。そしてイエス様は神様の心の鏡として自分の心の愛を人類に見せられました。「友の為に命をささげる、それ以上に大きな愛はない。ヨハネ福音書15,13」このようにイエス様の栄光(死と復活)を通して神様は自分の普遍的な愛を見せたかったのです。このような愛の形はキリスト信者にとって手本になり、この方法でお互いに愛し合うようにイエス様から勧められています。だからイエス様は愛の泉であり、その基本、その目標です。「マタイ25・40」の中でイエス様が言われるように「このような小さい者にしたことは、わたしに直接してくれたことなのです。」私たちの小さい兄弟たちの中におられるイエス様は、私たちの愛の目標です。自分の人生で身近に神様の愛を経験したキリスト信者は、神様の愛で隣人の中におられる神様を愛します。だから神様の愛の力で信じ、それで生きるキリスト信者は、神様と隣人を愛してその愛をこの世で広げようとします。            モヨリ神父

復活節 第四主日

2016年04月11日 | 神父様からメッセージ(C年)
 
 
復活節中豊かに喜んで過ごしている信者たちは、毎日の福音書の朗読に入り込むと素晴らしい色で光輝く世界を見出し、心をとらえる香りのようにそれを味わうようになります。復活されたイエス様の姿を見た弟子たちは同じように、大きな勇気の力を持って自分の心や自分の愛する共同体も成長させて、全てのものにイエス様の復活の喜びを伝えています。
「ヨハネによる福音書10・27-30」
 時によって、キリスト信者は自分の信仰について問われることがあります。当福音書は私たちの信仰の柱を三つ教えてくださいます。イエス様を「聞くこと、知ること、従うこと」です。このように人はイエス様のことを信じるようになり、ずっとイエス様に結びつきつながっています。人が信じるようになって、イエス様に属すようになるのはもう一つの神秘的な理由があります。それは、神様ご自身がイエス様と一つであるように、羊のような私たちが神様からイエス様に与えられて、イエス様と一つになってこのようにイエス様とずっと結びついているのです。初代教会の時から弟子たちの声を聞き入れなかった人は、永遠の命を拒否をしたことになっていましたが、それを受け入れた者たちはイエス様の羊の群れに属していることになりました。詩編によると神様と話さない人は、暗いところにいて死んだような者になっています。言葉や創造物、毎日の出来ごと、自分の意識を通して、いつも話してくださる神様につながって聞く人は永遠に生きるのです。実はキリスト信者は「聞く」それは、耳で聞くのではなく、心で、体で、頭で聞くことになって理性、直感、情けを通してイエス様の姿、思い、言葉、行いを受け入れるのです。このような方法でイエス様を聞くことにすれば、キリスト信者はイエス様に従う行動が出来、イエス様を真似しながら自分が置かれた日常生活の中でイエス様とまったく同じように生きることになっています。キリスト信者はイエス様の真似をしてもイエス様の言葉と行いをリピート(反復)するのではなく、キリスト信者は神様に置かれた人生の具体的な立場に立ってイエス様の思いや心をもって、その中で行い、工夫して生活を送っています。このようにキリスト信者はイエス様と深く結びついています。自分が洗礼を受けた時に、聖体をいただい時の経験を考えてみれば、イエス様に従うようになったその時こそ、イエス様と深い結びつきが出来たのです。このようにイエス様と結びついたキリスト信者は、イエス様と一つになり、イエス様と一緒に生きるようになります。それに従って使徒パウロが言ったようにキリスト信者はイエス様と共に死んでイエス様と一緒に生き、永遠に復活します。これは皆に神様から勧められた使命です。
                                モヨリ神父


復活節 第三主日  

2016年04月05日 | 神父様からメッセージ(C年)
 
 キリスト信者は聖霊の風に吹かれて、つまり復活されたイエス様の息を浴びて、新しい心で、新しく生まれ変わって勇気を出して神様からいただいた人生を大切にします。キリスト信者は生きていても死んでいてもイエス様と一緒になって、復活されたイエス様と一緒に復活して、赦しと慈しみの心を持ち、いろんな苦しみを乗り越えられます。キリスト信者はこのような強い風の翼に乗って人生を送ります。復活祭の時に受けられた恵みも良く見れば自分の人生の中、共同体の中でも当季節の様々な花と同じように見事に咲いています。このように神様の美しさを身近にみられます。

「ヨハネによる福音書 21・1-9」
 先週の福音書の箇所の主役者は使徒トマスでしたが、今度はペトロです。ペトロが漁に行く決意をしめしましたが、陸にイエス様がおられるとわかって、すべてを残して水に飛び込みイエス様のもとに戻ります。その時ペトロがもう一度イエス様の呼びかけで、当時の共同体、すなわち教会の責任を預かります。復活されたイエス様が何度も、不信感をもった弟子たちの目の前に現れますが皆は誰であるかすぐにわかりませんでした。しかし、イエス様の言葉と行い(やり方)によって、弟子たちが知らない姿の人の中に、復活されたイエス様を見出すようになります。当福音書の骨組みはおもに二つに分けられています。聖書の解説とパンを割り分かち合うことです。それに従って、復活されたイエス様との感動の出会いと、イエス様の羊を指導するためのペトロの再派遣です。復活されたイエス様は人の日常の出来事の中で働き、その中で不思議なしるしを通して自分の姿を身近に見せるようにします。今回、イエス様が大量にとれた魚のしるしを通して、自分の言葉の力をしめします。網に掛かった魚153匹は歴史の中でとても面白く解説されていました。1)数字はヘブライ語の文字にかえれば「愛の共同体」のことを示しています。2)153、当時知られた魚の種類の数であって、人類のことも示しています。3)153の数字をたすことによって、「完全」という意味をあらわれています。4)最後に、おそらくいつも自分の福音書の中で完璧を求めたヨハネが、細かいところまでイエス様のみ言葉の結果を示した数字であるということもあります。しかし当主日の典礼で一番大切にされたところは、イエス様とペトロの対話です。ペトロがイエス様の裁判中、三回もイエス様のことを知らないとした発言に対して、今度はペトロがイエス様に対して三回も自分の愛を宣言します。その宣言の中でペトロの回心もあり、イエス様の赦しも明らかにされています。同時にイエス様とペトロの間の対話は、イエス様とキリスト信者の間の対話をも示されています。イエス様は信者に確かに大きな愛を求めていますが、同時にイエス様に従う者が無償、普遍的なイエス様の愛を受け入れるように勧められています。イエス様とイエス様に従う者との関係は見事な愛、回心、赦しの間で定められています。そのようにイエス様に再び任命されたペトロはイエス様に従う者たちに、このようい指導、支え、むしろ心の命を与えるように呼びかけています。                     
                              モヨリ神父

復活節 第二主日 

2016年03月29日 | 神父様からメッセージ(C年)
 

 芸術家はどのようなものでしょうか、芸術家は生きている瞬間を愛し大切にしながら、その中で自分の心、体、想像力を尽くしてその神様からいただいた大切な瞬間を感謝を込めて実らせています。その時、偉大な大作が生まれます。同じようにキリスト信者は復活祭の時を生かして、大きな喜びを味わい、神様との偉大な出会いができます。その時、信仰の大作を見るようになります。復活されたイエス様をキリスト信者の共同体の中で見いだすようになり、それは復活祭の大変素晴らしい経験となります。
 「ヨハネによる福音書20・19-31」
 使徒たちの間に、イエス様が復活されてから確かに不信感も広がった時がありました。使徒トマスのように仲間の使徒たちの言葉を信じないで、自分の経験によるイエス様との出会いを求めていた人もいました。トマスはイエス様と出会った時に、自分の手を傷跡に当てさせていただいたことよりも、イエス様がもたらした平和にとらわれました。イエス様がもたらした「平和」はめでたき挨拶だけではなく、同時に希望と預言になり、実現された出来事でした。「平和があなた方にあるように」とは、あくまでもイエス様(神様)のみ言葉ですから、人間の為の贈り物であり、おっしゃることは実現されます。それを受け入れる人、その平和を受け入れる共同体は変わり、豊かになって、新しい理想の中で生きるようになります。イエス様の平和の中で生きるキリスト信者は、意味深い喜びで満ちた人生をおくります。当福音書の個所は三つの部分に分けられています。第一部はイエス様が聖霊を贈り物として与えます、第二部はイエス様と使徒トマスとの対話、第三部はヨハネ福音書のしめくくりです。
第一部 イエス様の使命の中で、もっとも重要なところは人に聖霊を送ることです。その贈り物の中身、あるいはその心は罪の赦しです。それに従って、聖霊に支えられた使徒たちの使命は罪の赦しを告げて、それによって、神様の心を見せることです。第二部 使徒トマスの不信仰は当時の使徒たちの共同体の中で問題になってきた不信感を表しています。当時、ある人にとってイエス様の復活を信じるために弟子たちの証言が足りなくなってきて、自分の経験によって信じる人も現れました。しかしその疑問について、イエス様自身がこたえるようになりました。弟子たちの証言によって(つまり、見ないで、自分の経験がなくても)信じる人は幸いです。第三部 ヨハネ福音書のしめくくりは福音書の目標を表しています。福音書はイエス様の人生を語る書物というだけではなく、イエス様は神の子であり、メシアであることを信じる為にいくつかの「しるし」を集めてくださった書物です。だから福音書は歴史的な記録ではなく、記録を並べた資料でもなく、信じる為に、永遠の命を生きるために書かれた書物であり、皆の心が大きな喜びで満たされる良き知らせなのです。          モヨリ神父

ご復活おめでとうございます!!

2016年03月23日 | 神父様からメッセージ(C年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

  ご復活、おめでとうございます!!
 桜花の熟が皆の頬にあります,このような心もち、このような表現は復活祭を迎えるキリスト信者にもあてはまります。復活されたイエス様の光は日光のように私たちの暗い心を刺し貫いて、私たちの中に輝いています。この時、聖霊の存在によって心からあふれ出るのは復活祭の大きな喜びです。私たちの新しい服はイエス様です。洗礼の時に着せかけられた白い布は、私たちの新しい服であり、キリストのことを示しています。そして、私たちを拡げた腕で迎えてくださる御父は神様です。さて、このように熱く燃える心で復活祭を迎えたキリスト信者は、より大きな深い喜びを味わっています。この時、目を覚ましていれば、イエス様の死と復活による神様の偉大な働きを見ることができます。罪の中に居た私たちは、神様の赦しと憐みをいただくことになりました。病気の中にも、神様は人生の意味を教えてくださいました。悲しみの中に、神様に支えられる喜びを発見しました。死の中に普遍的な神様の命が輝くようになりました。さて復活されたイエス様が、色々なところに先におられて私たちと会うために待っていてくださいます。
 今日のお祝いは、言葉にできないほど大きな栄光のあるお祝いです。祈りの時、心の中で、静かな場所で、自分たちのことを一旦忘れて、神様の偉大な素晴らしさだけを見つめましょう。そうすることによって、私たちが変わる、私たちの人生も変わる、私たちの心も変わる、私たちの周囲にいる者たちも変わる、私たちの目も変わります。イエス様がご復活された真実を大いに味わいましょう。「わたしの主が生きておられる、わたしの主に会いました!! わたしの主を見ました!! 」 
Alleluya・ Alleluya,・Alleluya !!


 皆さんに感謝の心を込めて、ご復活おめでとうございます!!
 喜びましょう、大いに喜びましょう!!
                         モヨリ神父

C年 枝の主日 

2016年03月14日 | 神父様からメッセージ(C年)

 
枝の祝日の日曜日を迎えると、キリスト信者は一年間の心の有り様、信仰の淵の一番深い所、叉希望の頂点に触れることになっています。それは復活祭の方へ誘導する聖周間です。この日曜日は伝承によってソテツかオリーブの枝を配り、皆が持つことになっているので「枝の主日」と言います。実はイエス様が人類を愛することを覚悟して、エルサレムの都に入城された祝日です。イエス様がエルサレムに入ることによって、当時の社会の中心であった都で、皆のための限りない神様の愛を見せて自分を献身しました。理想のために献身する人は皆に尊敬され、大きく評価されます。弱く、罪人である私たちへの愛のために献身されたイエス様は、人生の欠かせない命、希望、喜びとなりました。さて、イエス様の人生の最後はキリスト信者にとって手本になり、キリスト信者が読み取る人生の心で、永遠に生かされる愛の物語です。
「ルカによる福音書 22・14-23、56」
「枝の主日」にはイエス様の人生の二つの重要な出来事を記念し朗読します。イエス様のエルサレムの入城とご受難です。イエス様の死は私たちが罪の中に生きる現実の立場を示し、人類の欠かせない運命なのです。けれどもイエス様が人類と一緒に苦しんで私たちの代わりに処刑され、最高の苦しみから脱出する道を示してくださいました。イエス様の受難の物語は、あくまでも典礼の時に朗読されるために書かれた物語であって、観想するための物語として、人を祈りに導いています。イエス様の受難の物語は典礼的な目標を二つ勧めています。一つは、誰にとってもイエス様の受難は手本であり、もう一つは、イエス様が苦しみに耐えながら愛の意味を教えてくださいます。イエス様が受難の「時」(神様の存在に満ちた神秘的な時)自分の心の中の大きな決断を迎えました。つまり神様から示された使命を全うされた時でした。そして同時に御父である神様との深いつながり、親子のつながりを示しました:「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます!」。ルカ福音記者がイエス様の受難を語りながら、仕えるために来られたイエス様の姿を紹介します。誰でも皆、弱い者、貧しい者、病気の人、罪人に仕えるため、イエス様が耐えられないほどの苦しみを受けて、十字架上で自分の人生を全うしました。苦痛、寂しさ、侮辱などの中でイエス様は神様のみ旨を行うことだけを思っていました。神様の愛の大きさを知らせるためです。イエス様が悪いことを良いことに還し、限りない勇気でご自分の理想と思い、愛を証しました。ご自身を神の子であると疑わず宣言しながら、皆を寛大な心で赦し続けました。限りない大きな信頼の中で、イエス様がご自身全てを、十字架上で御父である神様に委ねました。
                                   モヨリ神父
        

C年 四旬節第三主日

2016年02月23日 | 神父様からメッセージ(C年)

四旬節の間イエス様と一緒に、イエス様の言葉を受け入れながら、砂漠を歩いたり、あるいは泥の道を歩いたりして、けれども振り向いてみると、イエス様が身近にご自分の輝いている姿を見せてくださいます。それに支えられ、慰められてイエス様と共に生きるキリスト信者は、この世で輝いています。キリスト信者は寛大な心で、慈しみと憐れみの心で輝いています。全てを赦し、全てを愛するものですからこの世の中でイエス様と一緒に輝いています。私たちの歩みを進めさせるのは復活の光です。苦しい歩みがあったとしてもキリスト信者はより大きな復活の喜びを目指しています。
「ルカによる福音書13・1-9」
 キリスト信者にとって自分の行いの基準は神様の言葉です。その言葉は無条件で人生の歩みの基本的な導きになります。当福音書では、皆が神様の言葉に回心するように呼びかけています。神様はいつも人間の歴史におられます。しかしその中に「悪」も存在し、それは神様から発生したことではなく、神様はいつも人間を大切にして良い者、悪い者の上にも太陽を上らせて下さいます。皆大きな慈しみの中で抱かれています。人間にとって回心を求め神様の方に向かうのは、自分の人生の基準的な態度になります。さて、当福音書は二つの場面に分けられて同じメッセージを勧めています。一つ目はイエス様が当時の究極的な出来ごと(死亡事件)に対する人の驚きを利用して、心を回心する重要さを強調しています。二つ目は実らないイチジクの例え話です。その例えによって、イエス様が人類のために神様へ回心する、つまり神様の方へ戻る普遍的な期間が得られたことを示しています。イスラエルの歴史の中で、人が神様から遠去かったことは何回もありましたが神様はいつも大きな慈しみを示し、自分の方に戻るように人類に絶えず呼びかけていました。このような神様と人類との関係は当時だけではなくイエス様の時代から現在まで、同じように続けられています。「回」という字は まわるという動作を示しています。さて、この世の中で手近な喜び、物理的な執着から私たちの心はより素晴らしい、精神性を高める世界の方へイエス様に回るように強く言われています。この世から神様の方へ心を回わすと本当の回心が行われることになります。良い人でも、悪い人でも、苦しみに向かう場合があります、それは神様の罰ではありませんが、それを通しても、神様はいつでもどんな時でも皆、絶えず回心するように、つまり自分の方に来るように呼びかけています。実りを持たなかったイチジクにも神様が回心を絶え間なく呼びかけながら待っておられます。罪人にとって、神様を忘れて遠去かった人にとって、いつでも神様のほうへ戻れる、帰れる機会を与えられているのです。
                          モヨリ神父