カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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A年 年間第15主日

2017年07月11日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 心を整えることによって身も整えられます。神様から与えられた時間の神殿である日曜日は、心によって体を育む機会となっています。私たちの体も神様の懐に戻って行き一体となります。つまり「贖(あがな)われます」イエス様のご復活によって、私たちの心は神様の心の中に溶け込み、私たちの体も神様のものになります。
「マタイによる福音書 13・1-23」
 今日の福音書の箇所は神様のみ言葉の生命力が注目されています。み言葉は種のように人間の弱い心に落ちています。そのみ言葉は人間の心、人間の人生の中で豊かに働いて人間の中で成長し、祈りによって豊かな収穫として神様の方に戻っていきます。しかし、そのみ言葉は人間からいつも、子供のような心で受け入れられているとは限りません、だからみ言葉の生命力が場合によって無効になります。しかし、良い土のようにみ言葉を受け入れる心があれば豊かに実ります。その実りは信じられないほど大きく、働き手が足りないほど豊かな収穫をもたらします。 
そしてイエス様ご自身が種まく人のたとえ話を説明してくださっていますが、多分、初代教会の共同体が当時の自らの思いを付け加えて、イエス様のたとえ話の解説を私たちに伝えていると思われます。神様のみ言葉に抵抗すること、あるいは実らせない原因はいくつかあります。たとえば、み言葉自体を理解しないこと、又み言葉の意味はいつも簡単ではないので、その理解が明確ではなく、その中身も場合によって失うことがあります。そして抵抗するのは言葉のメッセージにずっと忠実に従わないことです。最後にみ言葉の成長を抑えるのは、いろんなこの世の心配事、雑念、などです。けれども、それらの小さな種の中に含まれた生命力は、いつも芽生えの準備をしています。
次に第二朗読の聖パウロの「ローマの信徒への手紙」の二つの単語に注目しましょう。まず、「期待する」という言葉です。私たちは生きている間に神様との出会い、またその栄光とその喜びを期待しています。その時、人間にとって考えられないほど素晴らしい喜びに向かっています。しかしその喜びが完全に得られるまで、この世で人生の間に待たなければなりません。しかしよく考えてみれば、私たちにとって待つ時間はとても短いものです。耐える苦しみもわずかな間のことですから、アッという間に苦労したことは過ぎ去って、期待する喜びがやって来ます。もう一つの言葉は「贖(あがな)われる」という、神様の救いの計画です。「贖う」というのは身代金を支払って、自分の失ったものを再び得ることです。ラテン語で「redemptio」といいます。つまりイエス様の死によって、人類が失った自由、その中に生きる喜びも再び得られたことになりました。さて私たちの心の中にある隠れた宝であるイエス様のみ言葉と、そこからパウロの実らせた言葉も、生きている間に大切に受け入れて大事にされるべきではないでしょうか。その中に人間の救いも絡んでいます。  
                             モヨリ神父

A年 年間第14主日

2017年07月03日 | 神父様からメッセージ(A年)

「マタイによる福音書 11・25-30」
 当福音書ではイエス様が自分自身を柔和なもの、謙遜なものとして紹介してくださいます。イエス様は積極的に弱い人の側を選んで、権力を振るう人を拒んでいます。これからイエス様は御父である神様に向かって祈ります。同時に、神様のことを深く理解して自分のように祈れる小さい者たち、つまり子供やそして子供のように純粋な心を持った人を高めて誉めています。聖書によると小さい者たちは、天から賜物として知恵を受けて、神様に祈ります。反対に子供のような心を持たない人は神様のことを理解せず、素直に信じられないものです。今日の福音書の個所は三つの部分に分けられます。一番目はイエス様の祝福の言葉と神様との暖かい対話。二番目はイエス様の自己紹介です。三番目は弟子たちに自分に従うようにとの呼びかけです。イエス様が法律のことで詳しい人に対比して子供の素朴な心をもった人を特別に好んでいます。法律に縛られた者、生活の中でその重さを運んできて生きる者はイエス様の言葉から解放されます。自己紹介の中でイエス様が神様のことを深く知るのは自分自身だとおっしゃいます。だから神様についてイエス様の話は確かであり真実なのです。イエス様だけが神様の心を知り、人間に告げ知らせる唯一の方なのです。この素晴らしいお告が対象になるのは、どんな人間でも一人も残らずイエス様の愛の目標なのです。イエス様は神様の心を私たちに理解させるために、たとえ話を通して話してくださいます。その話を受け入れて分かるのは子供たちや子供のような心を持った人だけです。この世の知恵をもった者たちはイエス様の言葉、神様の心も理解できません。イエス様に従うように呼ばれた者だけが、このイエス様の素晴らしい世界を知り身近に味わうことが出来ます。        モヨリ神父

A年 年間第13主日 

2017年06月27日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 今日の聖書の朗読はいくつかの場面を豊かに描写してくれています。確かにイエス様のことは皆が口にしていたと思います。イエス様の言葉も知られ、行いも皆の目に明らかでしたし、驚きばかりでした。それに気付いたイエス様は、弟子達や後に従う者たちに次ぎの質問をされました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」使徒ペトロは皆の心や、信仰をあらわしながら、次のように答えました。「あなたはメシア、生きる神の子です」このようにペトロの信仰の告白は、その時から風のように、川の流れのように私たちにまで及び、その流れを貴重な遺産のように受けた私達が後の者達にまた、送り渡す事になります。イエス様がペトロになさった質問は、今でも私たちに向けられています。そして、神様からいただいた今日の一日の中で答えるように勧められています。「イエス様は自分にとって何者か」と。
ペトロは何より深い信仰の告白を教えてくださいました。わたし達の人生において、その質問に対する答えは何でしょうか。
 「ローマへの手紙10・9」でパウロは次のように述べています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」
 今日は聖ペトロと聖パウロの姿を並べて見出すことになりました。二人は別々の道でイエス様を愛して従いましたが、しかし、かれらの道の歩みは一つのところで再び会うことになりました。それはイエス様のためには刑場となったローマでした。ペトロはイエス様のことを、知らないと言いました。しかしその自分を恥じ、深く悔い、真実の信仰に立ち返りました。そして、イエス様に赦されて、教会の頭として選ばれました。一方パウロは、全世界を駆け巡りイエス様の真実の姿とその心を告げ知らせました。今年は教皇様の呼びかけによるパウロの年になっています。わたし達もパウロの人生を見習って、思いを新たにする時になっています。パウロの改心、パウロの情熱は私たちにとっても参考になるのではないでしょうか。
 この祝日が教えてくれるのは、信徒達の間に違う思いや違う行動があったとしても、一致できることがあるということ。それは、イエス様に対する愛です。そしてその愛のために、命を捧げるほど、人生のすべてを尽くすことです。
モヨリ神父

A年 年間第12主日 

2017年06月19日 | 神父様からメッセージ(A年)

 
 いつも、そよ風のような聖霊の風に吹かれて派遣されたイエス様の弟子たちにとって、また、福音宣教に自分の人生を励んでいる人たちにとっても、当日曜日の福音書はキリスト教の宣教について、福音を告げ知らせる方法に貴重な助言を含んでいます。イエス様はこの点について、ご自分の深い関心を現わしながら、特別に宣教に努める人たちを励ましてくださいます。マタイ10章26節の福音書は、イエス様の宣教の話に属しています。イエス様がご自分の弟子たちに向かって、色んな状況の時に恐れないように励ましています。
一番目、福音は神様の言葉であり内的な力を持つので、弱い声でひそかに知らせても、その言葉は必ず大きく広く伝わっていくので恐れることはないのです。大きな力をもつ神様の言葉は、どこへでも届きます。
時によって、頭が痛くなるほど、わたしも教会の心を伝えるために効果のある宣教法を選ぶように考えていますが、その時忘れているのはこのようなイエス様の励ましの言葉でした。確かに日本的な、口込という言い広めも神様の力に支えられて効果のある宣教ではないでしょうか。
二番目、恐れてはいけない時は、特に迫害の時ですが、いつも小さい小鳥でさえ大切になさる神様は、イエス様に従う者の命を特別に大切にし、かれらを大きな慈しみとみ摂理の心で包んで保護しています。
三番目、恐れてはいけない状況は、人の前で社会的な活動の中で、私たちがイエス様の仲間であることを言い現わすことです。さて、福音宣教に勤める信徒のみなさんにとって、今日の福音書はイエス様からの、欠かかせない励ましとなっています。まず恐れないようにと勧められています。神様は私たちの命、また私たちひとり一人を大切にしてくださる方ですから、滅ぼされる恐れはないのです。そして、私たちは自己中心的な思いを宣教するべきではありません。神の言葉に支えられている私たちは、神様の言葉の奉仕者ですから、暗闇に負けず、勇気を持って屋根の上から、公の場で神様のみ言葉を述べ伝えるようにすればよいのです。その時に普遍的な力を持つみ言葉は、確実に豊かに皆の心に届くことになっています。
                        モヨリ神父

A年 キリストの聖体

2017年06月11日 | 神父様からメッセージ(A年)
 
 現在、人間は豊かな食べ物に恵まれていますが、その中で食べることが問題になってきています。場合によって食べ過ぎることで、又一方で心身の不健康により食べ物を拒否したりすることでそれは起きています。しかし、イエス様が私たちの信仰を支えながら、「これは私の体、これは私の血」と言って「私を食べる者は永遠に生きる」とおっしゃっています。
「ヨハネによる福音書6・51-58」
 キリストの聖体の祝日を迎えることになりました。この時、若い頃を振り返りその頃を思い出すようにすると、この祝日の意味を深められると思います。では、当時の麦秋の場面を思い浮かべて下さい。それぞれの故郷の習慣によって、キリストの聖体の祝日の時に、信者たちは教会から出て大きな行列を作って、実り豊かになってきた麦畑を通って歩いていました。「恵みのパン…いつくしみと愛に…」を歌いながら、とても身近に神様のいつくしみと愛を感じていました。麦畑をみつめながら畑の間を歩いたキリスト信者の心に、何が語りかけられていたのでしょうか。まず私たちはイエス様のたとえ話によって、一粒の麦のようなものとされています。その麦をつぶして粉にすることによって、私たちは皆で一つのパンになれます。そのパンはイエス様の体、復活されたイエス様自身です。そのパンは教会の心を現わしながら、イエス様から教えられた愛を語ってくれています。焼きたてのパンをオーブンから取り出すと家中に香りがただよってきます、それを割いて皆で一緒に食べると、私たちは一つの家族、一つの心、一つの教会、共同体であることを明らかにされます。そのパンはイエス様の言葉によって天から降ってきたパンです。つまり物理的なパンであるだけではない、心や人生も全て満たすパンです。そのパンはイエス様の肉です。イエス様は私たちに、これほどご自分を身近な存在に現わして語ってくださいます。そうして、私たちに限りのないイエス様の無償の愛の意味を示してくださいました。人間は親の愛によって生まれ、生きています。そのお母さんから受けた愛は命であり、生きる肉と血になっています。洗礼によってイエス様から限りなく愛されて、その愛は身近にパンの形で示されています。このようにイエス様が私たちの命でありながら私たちの肉と血になって、私たちと完全に結びついて下さいます。このように、キリスト信者は生きて居るものです。キリストの祝日にあたり、このような思いで心を満たすことにすれば、イエス様の言葉の「私を食べるものも私によって生きる」という真実が実現します。
                                    モヨリ神父

A年 三位一体の主日

2017年06月06日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 神様はどこで私たちを見つけられるのでしょうか。栄光の中か、大自然の絶景の中か、神殿の中か、あるいは小さい子供の心の中か、小さい花の色にか、沈黙の中か、どこででも、あなたが神様に出会ったと思ったら、そこに神様がおられてあなたのことを期待しておられます。
「ヨハネによる福音書 3・16-18」
 今週は三位一体の主日にあたっています。神様について、皆さんに暖かい心で話したくてたまりませんが、しかし、語ろうとするとなんと難しいことだろうと深く感じています。三位一体とは神様の自己紹介ですがちょっと哲学的、神学的な表現であり説明しにくく、神様のイメージはすぐにピンとこないと思います。神様はだれも見たことがありませんが、イエス様が身近にその心、その姿を語ってくださいます。神様に向って、祈りかたさえ知らなかった弟子達にイエス様が次ぎのことを教えました。「天におられる父よ」神様は私たちのお父さんであり、私たちといつもおられます。皆を大きな愛情で守り、慰め、支えています。このようにイエス様が神様の紹介をし続けます。「み名が聖とされますように」神様は私たちのお父さんであり、素晴らしい唯一の方です。私たちの心も大きな喜びで満たしています。そして、全てのものよりも偉大であり、全てのものよりも大切なものとなっています。このように神様の名前は高められています。「み国がきますように」神様の国は小さい者、弱い者の国でありながら、愛の国です。そしてその「国」はイエス様自身です。神の国はもうすでにあなた達の間にあるとイエス様がおっしゃっています。その時にイエス様が神の国は自分自身であることを示しています。この国はどんなことよりも価値があって、小さくても宝物のようなものです。大きな力を持ちながら、どんな人をも含んでいて大きな木のように成長し、遠くまで心の枝を伸ばしています。次に「み心が天に行われる通り地にも行われますように」神様の神秘的な心は聖霊です。つまり聖霊は御父とイエス様の心を結びながら、神様が愛で燃える心を示していますが、その愛の中に私たちのことも巻き込まれています。聖霊は私たちと一緒に歩みながら、私たちを見守り導き、私達の人生の計画を組み合わせています。私たちの過ちをいつも赦してくださいます。
では最後に、今日の福音書も聖霊の力で神様の姿が分かるように手伝ってくださいます。イエス様が御父の愛を示す為にこの世に来られて、私たちの仲間、兄弟になりながら、私たちと一緒に歩むようにしてくださいました。イエス様に担われたり、引っ張られたりする時がありましたが、愛する愛される道だけを教えてくださいました、その愛は無償で普遍的で、神様だけが出来る愛です。神様は誰も滅びてしまわないようにと望まれるので、どうぞ大きな希望を持って前向きに、皆で歩くようにしましょう、神様は私達が必ず皆で大きな喜びのあるところに狙って行ってくださり、開いた腕で私たち全ての一人一人を待っておられます
                              モヨリ神父 

A年 聖霊降臨の主日

2017年05月30日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 普通には人間が一所懸命に神様を探し求めますが、キリスト信者はそう思っていません。神様であるイエス様ご自身が私たち一人一人探し求めてくださり、ご自分の所に引き寄せて大きな愛情で包んでくださいます。そして復活されたイエス様は、自分に従って信じた者たちに聖霊をおくり、神様の愛を理解させ、数えきれない神様の働きを思い出させてくださいます。
「ヨハネによる福音書 20・19-23」
 今年も聖霊降臨の主日を迎えるようになりました。教会の祝いの中でも、とても意味深く大切な祭日になっています。まず、教会の誕生日の祭日です。聖霊降臨と言うのは日本語の表現ですけれども、当時行われ、今も行われる聖霊の働きによって、神秘的な出来事を示していますが、ラテン語では「ペンテコステ」と言います。ラテン語の言葉は旧約聖書のイスラエル人の祝いを示しています。当時、ペンテコステの時に、イスラエル人は神様とのつながりの約束を更新し、神様の掟を受け入れることを誓っていました。イエス様が復活されて初代キリスト信者にとって、ペンテコステと言うのはまず、イエス様が復活されてから五十日後を示して、その時にイエス様がご自分の息を弟子達の上に吹きかけ、その中にいくつかの贈り物を弟子達の心の中に置くようにしました。 そのイエス様の息に含まれた賜物を検討してみましょう。イエス様の息に含まれているのはまず、イエス様の命と心です。そしてイエス様が勇気、智恵、平和、神様に対する心構えを、ご自分の息吹きと共に弟子達の心の中に置かれました。そのような贈物を大きな喜びで受け取って味わった弟子たちは、大きな情熱をもって教会の心を作ることにしました。弟子達が皆で一つの心になって、全世界にイエス様の心と言葉を広めるようにしました。イエス様の息が吹きかけられた結果により、全世界の教会が生まれました。天地創造の時に、神様が息を土の上に吹きかけたことによって人間が生まれました、同じようにイエス様が弟子達の上に息を吹きかけて、復活したイエス様の姿を示す教会が生まれました。イエス様の初代教会は、火が燃え盛るように、地震のような振動を起して、いろんな言葉によって全世界にイエス様の心が広がりました。
 聖霊降臨(ペンテコステ)は二千年前に起こった出来事だけではありません、たった今、現在の出来事でもあります。私たちの教会でも、いつでも起きる出来事です。いつも忙しい私たち、この聖霊が起こした地震の振動の中で、信仰している聖霊の働きを無視することが出来るでしょうか。喜びと情熱をもって、期待して生きていきましょう。
                                 モヨリ神父  

A年 主の昇天の主日 

2017年05月22日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 私たちはより大きな幸福を求めながら、ずっと動いたり走りまわったりしていますが、イエス様が準備してくださった場所は、神様の腕の中です。神様の愛、神様の暖かい存在に包まれた人が心の平和、大きな喜び、自分のやすらぐ場所を見出すことになります。、
「マタイによる福音書 28・16-20」
 6月5日主の昇天の祭日にあたり、私たちの目はイエス様の弟子たちの目と同じように上に向い、天国に上げられるイエス様の姿を見つめています。このようにイエス様の弟子たちが、寂しい目で自分の人生から消えてしまうイエス様の姿を見ていました。実は、いつも弟子達のためにより大きな喜びを求めてきたイエス様は、このような行動によって、弟子達のために、より深いメッセジを残してあげたかったのです。弟子達の目の前で、自分の姿が消えようとしているイエス様は、弟子達に思わぬ大きな喜びを備えていました。まず、再び会う約束をしました。山の上、またイエス様が歩いておられたガリラヤの町で、同じように、又この世の歩みを完成する時に、いろんなところで確実に再び会えることになると約束しました。それだけではなく、弟子たちと自分に従った人に、支えとしてずっと一緒にいるように予言されました。その時イエス様が約束として、一所懸命に自分を信じる人にまた同時に疑っている弟子達にも結び合う絆として、全ての人は神の子であること、また皆が父と子と聖霊によって、つまり神様に大切に愛されていることを告げ知らせました。だからイエス様の昇天はこの世から、あるいは復活してから、弟子達の目が見たように消えてしまうイエス様ではなく、むしろ神秘的な方法でイエス様がご自分を信じるものたちと、別の方法でずっと共にいるようにという約束の時でした。そして同時に、ずっと私たちと一緒にいてくださるイエス様の姿と、どこで会うかを教え残しました。実はイエス様を信じた者たちは、イエス様とどこででもどんな時にもどんな人の心にもずっと一生一緒にいてくださり、いつでも再びお会いすることが出来るのです。天に上げられるイエス様が、人類も高めて天に上げられています。その時に人々は神様のものになり、神様とひとつになっています。復活されたイエス様が昇天によって、人類の間に違った形、神秘的な方法で自分の存在を示されています。イエス様の存在を信じる人には認められ、疑う人にも見られています。イエス様に出会った、信じた人は、イエス様から全世界に派遣されてイエス様の言葉を告げ知らせています。欠かせないことは、イエス様が派遣された人々と共にいつもおられて、いつまでも一緒にいて働いておられるということです。(インマヌエ―ル)
                                モヨリ神父

A年 復活節第5主日

2017年05月08日 | 神父様からメッセージ(A年)


 陰暦四月を卯の花月、または卯月というのは、このころに卯の花が咲くからで、その卯の花を腐らせるかのように、しとしと降る雨を「卯の花腐し」といいます。卯の花は白色から紅色へと花が変化するものや咲き分け種など種類が多いが、そんないろんな花が雨に打たれて山路を染めている様はとても風情があります。この時期、全体にしっとりと濡れそぼった暗さの中にも新緑の葉先がきらりと光を含んでいたりして、自然の趣が一段と深みを増します。
 キリスト信者には復活節の間、欠かせない目で見えるしるしの深さを勧められています。その一つはパンのこと、(私は命のパン)です。もう一つは良い牧者であるイエス様の世界のことです。この背景の中にイエス様が場合によって、いけにえとして捧げられた羊になったり、囲いの門になったり、良い牧者の姿にもなられます。この優しい例えによって、神様のこころを語り続けています。
「ヨハネによる福音書 14・1-12」
 復活節の第五主日のメッセージは、どこへ行くかを知らない私たちにとって、大きな慰めの言葉になっています。まずヨハネの福音記者の思いによりますと、イエス様が失望しないように励まされています。イエス様はこの発言をされた時に、ご自分の受難の直前でしたが、同時に弟子たちの心を見抜いて、自分との別れによって、心をさわがせたりしないように、悩まないで、悲しまないように慰めようとします。例えば私たちも、神様がありのままに弱い私たちを受け入れられるか、愛されているかどうか、信じたい希望をもっていても、それに不安や不満をもって悩んでいる時があります。特別に思い通りに良く行わない時に、または自分の生き方についてよいかどうか判断しにくい時、神様の憐れみに不安と不満を持っています。けれどもイエス様が「心を騒がせるな」と言ってご自分の限りない愛を示しながら、神様の約束された慰めの言葉に信頼をおくように勧められています。さてイエス様は私たち一人一人のために住める場所、永遠にいる場所を準備してくださるとおっしゃっています。その場所の特徴は、神様の家であり、皆が集まる場所です。そしてイエス様がおられるところと私たちが神様に誘われて、行くべきところもまったく同じです。イエス様自身がご自分の死によって準備してくださった場所で、そこで私たちと一緒に永遠に生きるために待っておられます。イエス様自身が私たちを迎えにきて、ご自分がおられるところに、つまり神様の懐で私たちのことを大切にしてくださいます。では神様の家、イエス様が準備されるところへ行くために、どうしたらいいでしょうか。まず、そこにつながる道はイエス様自身です。イエス様自身が「私は道である」とおっしゃってくださいます。イエス様に従うことにすれば、神様自身を見つめることが出来ます。イエス様のことは深く知ることにすれば、神様の心を知ることが出来ます。そのようにイエス様は私たちの「道」です。人間はどんな時代でも、自分の元の姿、自分の本来の姿を探し求めました。それは神様だけです。人間は自分自身を神様の姿に(神道の鏡の意味を参考にして)自分を写す事によって、自らの素晴らしさを知ることができます。それを人類に教えたのは自らの大きな愛によって人生を捧げたイエス様です。イエス様は人間でありながら神様の姿を写してくださいます。神様として普通の人間の姿、つまり貧しい人、小さい人、弱い者の心を通して自分の姿を見せてくださいます。そのように神様へ導く道であるイエス様は、私たちがあこがれている真理、私たちの日常生活の命です。
モヨリ神父

A年 復活節第4主日

2017年05月01日 | 神父様からメッセージ(A年)


「ヨハネによる福音書6・22-29」
 さて、何度読んでも感動させられるヨハネの福音書による、イエス様の中心的なたとえ話を見てみましょう。復活節の第四主日の福音書によると、イエス様は自分の姿を良い羊飼いに変身させて、自分の羊との関わりとつながりについて語ってくださいます。まず、羊飼いは羊に対して大きな慈しみと愛を示しています。一人一人の顔、気性を知っています。皆の声をわきまえています。一人一人を大きな愛情で包んでいます。同時に羊は自分を愛する、見守る羊飼いを知って愛して従っています。良い羊飼いは、いつも後ろから自分に属する羊を見守っています。それだけではなく、同時にイエス様はわたし達に羊飼いの姿を示しながら、ご自分の姿を羊の囲いの門にも変えています。このようなイエス様の姿もわたし達にとって欠かせない姿になっています。イエス様がわたし達を導いてくださる良い羊飼いと言うだけではなく、囲いの門であるイエス様が神様のありのままの姿を紹介し、神様の方に本当のつながりを開いてくださいます。だから私たちはイエス様の門を通して神様に出会い、神様を知ることが出来ます。そのような門が、もうひとつの門を例えてくださいます。それは教会の門です。だからイエス様が教会に入る唯一正しい門であり、正門です。教会に入ろうとしている私たちの目標はイエス様だけです。教会はイエス様の霊によって実現され、イエス様の門を通すとイエス様の姿である共同体に会うことが出来ます。羊の囲いである教会は皆がイエス様の霊によって生き、動き、お互いに支えあう場です。教会は一つの門だけをもっています。それは私たち一人一人を大切にする、愛し慈しんでくださるイエス様の心です。それを通さないで教会に入って関わると、イエス様の言葉に適わないことになり、心の悲しみにもつながることになってしまいます。                                                       
                              モヨリ神父

A年 復活節第三主日

2017年04月27日 | 神父様からメッセージ(A年)

 復活節第三の日曜日にあたり、主日の喜びは洗礼志願者の存在でも飾られています。洗礼の準備のために、四旬節は年間中もっともふさわしい時期ですが、毎週典礼から勧められた福音書も、洗礼式の神秘的な内容と価値を紹介してくれています。キリスト信者は四旬節の間精神を高め、人生を見直します。特別に共同体の中で赦し合うことと心くばりを大切にして、神様の慈しみを伝えることです。そして謙虚な心も欠かせないことです。私達の主はイエス様だけです。キリスト信者はイエス様の真似をしながら、何も自慢せず、イエス様の姿を先にして世界に示しています。それだけではなく、いつも仕える者になるのです。
「ヨハネによる福音書 4・5-42」
 当日曜日の福音書は、イエス様がサマリアの井戸で出会った婦人との対話を語ってくれています。暑い日中のお昼ごろ、喉が渇いたイエス様がサマリアにあるシカーの井戸に近寄った時に、信仰へ導く話をある婦人に仕掛けました。その対話の結果、婦人はイエス様に対する信仰だけではなく、自らの人生を見つめてそれを見直すようになりました。実は心の中でイエス様に出会う人が、イエス様を信じることによって、自らの人生を見つめ、自分自身をさえ再発見することが出来ます。そこから自分の人生も見直すことが出来ます。サマリ人の女との出会いが語られる聖ヨハネの福音書が、とても象徴的な話しで細かく書かれているのは、洗礼を受ける人のための重要な手段であり、同時に一般のキリスト信者の為には信仰に達する道しるべです。まずイエス様はメシアであること、そして丁寧に自分のことを紹介して、救い主であることを公に明らかにします。サマリア人の女の信仰への歩みを語りながら、三つのテーマが強調されています、第一「水のシンボル(象徴)」、第二「どこで、、どのように神様を拝むか」、第三「メシアはどのようなものなのか」と。それに加えられたのは、いろんな役割を果たしたサマリア人達のこととイ、エス様の弟子たちの反応についての話しです。聖書によるとユダヤ人にとって、水は法の中に含まれた智恵を象徴していました、だからいつも法の中から智恵を汲むことが出来ました。イエス様にとって水は、聖霊の命を象徴しています。だからわたし達が汲むべき井戸は、智恵と霊で満たされているイエス様自身のことです。それからサマリア人の女も、わたし達にもその井戸の中から普遍的な「水」を汲むように勧められています。イエス様の井戸からわたし達が汲むのは、聖霊の力、人生を導く智恵です。だから聖霊と智恵に導かれているわたし達の行いは、法に縛られている行いではなく、愛の霊と智恵に満たされた自由な行いです。同じように、このような井戸に水を汲むことによって、神殿でだけではなく、どこででも自由に自分の日常生活の中で、自分のよい行いを通して、神様を拝むことが出来ます。わたし達の人生を満たされるのは、欠かすことの出来ない唯一のメシアであるイエス様です、それが分かったサマリア人の女、それに従ったサマリア人達、イエス様の弟子達も、救い主であるイエス様の福音を多くの人達に告げ知らる事になりました。                     モヨリ神父

A年 復活第2主日 

2017年04月20日 | 神父様からメッセージ(A年)


 わたし達は毎日の福音書の朗読から、復活されたイエス様の姿、弟子達や婦人達が見たことなど、イエス様と弟子達の出会いを、豊かな花の香りのように味わっています。復活されたイエス様が、迷っている、恐れている婦人達に「おはよう」とおっしゃっています。つまり、「私は早くから来ていて、あなた達のことをまっていた」と知らせたかったのです。
「ヨハネの福音書 20・19-31」
 復活節第二主日の福音書の内容は、トマスがイエス様の復活、つまりイエス様が生きておられることを信じなかったので、イエス様が弟子達に現れた時、トマスにも自分の体、自分の傷跡を見せ、触れるように勧められました。それによってトマスは信じました、けれどもその時にイエス様が強調されたのは、自分が復活したことを見ないで信じた者は幸であると言う事でした、と同時に、わたし達が復活されたイエス様を信じる時に、本当に幸せ、永久に幸せ、いつまでも大きな喜びを味わっている者だと宣言されました。使徒たちの間に、イエス様が復活されてから、確かに不信感も広がった時がありました。使徒トマスのように仲間の使徒たちの言葉を信じないで、自分の経験によるイエス様との出会いを求めた人もいました。トマスはイエス様と出会った時に、自分の手を傷跡に当てさせていただいたことよりも、イエス様がもたらした平和にとらわれました。イエス様がもたらした「平和」はめでたき挨拶だけではなく、同時に希望と預言になり、実現された出来事でした。「平和があなた方にあるように」とは、あくまでもイエス様(神様)のみ言葉ですから、人間の為の贈り物であり、おっしゃることは実現されます。それを受け入れる人、その平和を受け入れる共同体は変わり、豊かになって、新しい理想の中で生きるようになります。イエス様の平和の中で生きるキリスト信者は、意味深い喜びで満ちた人生をおくります。当福音書の個所は三つの部分に分けられています。第一部はイエス様が聖霊を贈り物として与えます、第二部はイエス様と使徒トマスとの対話、第三部はヨハネ福音書のしめくくりです。
 第一部 イエス様の使命の中で、もっとも重要なところは人に聖霊を送ることです。その贈り物の中身、あるいはその心は罪の赦しです。それに従って、聖霊に支えられた使徒たちの使命は、罪の赦しを告げて、それによって神様の心を見せることです
 第二部 使徒トマスの不信仰は、当時の使徒たちの共同体の中で問題になってきた不信感を表しています。当時、ある人にとって、イエス様の復活を信じるために弟子たちの証言が足りなくなってきて、自分の経験によって信じる人も現れました。しかしその疑問について、イエス様自身がこたえるようになりました。弟子たちの証言によって(つまり、見ないで、自分の経験がなくても)信じる人は幸いです。
第三部 ヨハネ福音書のしめくくりは、福音書の目標を表しています。福音書はイエス様の人生を語る書物というだけではなく、イエス様は神の子であり、メシアであることを信じる為に、いくつかの「しるし」を集めてくださった書物です。だから福音書は歴史的な記録ではなく、記録を並べた資料でもなく、信じる為に、永遠の命を生きるために書かれた書物であり、皆の心が大きな喜びで満たされる良き知らせなのです。        モヨリ神父

A年  枝の主日

2017年04月04日 | 神父様からメッセージ(A年)
  2017.4.9

 全世界のカトリック教会は、枝の主日を迎えることになりました。当日曜日によって、聖週間に入ることになりこの時、全世界のキリスト者はイエス様のエルサレムの入場と、イエス様が弟子達と共に行われた最後の晩餐、イエス様のむごいご受難と死、そしてイエス様のご復活を思い起こして記念します。
また洗礼を受ける方々にとっては、自分の信仰の歩みの中で、最も重要な頂点である時を迎えることになりました。なぜならこの時に受洗者は、イエス様と共に死んで、つまりその折の神秘的な所作の意味は、水の中に入り込むことで示され、イエス様と共に復活すること、イエス様と一緒に水の中から浮き出て、ずっと生きるようになるのです。イエス様が死を迎えたことは偶然な出来事、突発的な事件ではありません。むしろイエス様がこの世に来られた目標を全うされた最後までの、最高の選択でした。イエス様がエルサレムに入るのは、律法学者達、ファリザイ派の人々、ローマ軍が集中した所だとよく解っていたのですが、そこで最後まで御父の御心にかない、それを述べ伝えることと決まっていました。それだけではなく同時に、エルザレムは王様達の玉座であり、預言者達が神様の言葉を述べた所であり、天国の栄光を現す都として象徴的な場所でした。言い換えれば、当時の世界の中心部とも扱われていました。イエス様はその場所で、上記のように自分の使命を全うし成し遂げられたかったのです。
「マタイによる福音書 21・1-11」
 さてイエス様は繋いであった子ロバを引いて来させ、そのロバにまたがって都に入場し、御父の御心を最後までかなえられるために進んだのです。ロバにまたがって入場するのは、王様達のように都に入場することですが、同時にイエス様が人間の弱さを見せながら、神様の偉大な力を称える意味も示しました。イエス様が印によって新しいエルサレム(人間の心)に入場されたと同時に、予言的な印を見せることにしたのです。つまり愛の弱さを通してだけ、全人類を救い得ることになります。エルサレム入場の時、群衆はイエス様を歓迎して祝いました、けれども同じ群衆が、その後イエス様を「殺せ!」と叫びイエス様の死刑を願いました。勿論その間、イエス様を本当に救い主であり、メシアであると受け入れていた人達もいました。
 上記の出来事を思い起こしながら、その後マタイの福音書のご受難の物語を朗読することになっています。わたし達はまず、イエス様がわたし達のために背負われた苦しみを思い起こし、イエス様と一緒にその苦しみを分ち合い、イエス様が人間に大きな愛情を示されたことを黙想し、また人間の苦痛は、愛だけを通してその癒しを得ることを知らされます。聖週間の間、イエス様が教えられた偉大なメッセージが、少しずつ述べられます。イエス様のむごい苦しみによって、人間が愛のために生きる道を覚え、苦しみを受け入れることによって、イエス様のように復活までの救いの道を進むことが出来るのです。
                        モヨリ神父

A年 四旬節第5主日

2017年03月30日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 今週の日曜日が聖週間の直前の最後の日曜日となっています。洗礼を受ける人達の為に欠かせない課題に踏み入ることになりました。それはわたし達の命、復活であるイエス様のことを心で、体で、全ての思いでえらばれることです。信じるとは頭で決めることではなく、全身全霊で生きることです。イエス様ご自身がこの時の福音書の中で次のことを宣言してくださいます。「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と。命のこと、生きることは、わたし達にとって神様からの最高の賜物です。又人間にとって、生きることは神様との最も堅密な結びになっています。わたし達は神様の息吹で生きているではありませんか。だから人間にとって命とは、もっとも大切な宝物であるはずです。しかしわたし達の弱い手に置かれたこの偉大な宝物は、簡単に失いやすいものであり、いつも十分に評価されていないようです。実は人は大切なものに気付くこと、また宝物を手にもっていることはそれを失うと言う悲しい経験によって知ることが多いのです。
「ヨハネによる福音11・1-45」
 イエス様は今日の福音書の中で命の尊さを教えてくださいます。ベタ二アのユダヤの町にイエス様の最も大事な友人がいました。それはマリアとマルタとラザロでした。 突然ラザロが亡くなって、イエス様がそれを知らされた時、珍しく、泣くほど大きな悲しみを感じられました。イエス様は人間であることによって、人間の苦しみに対して、人間の死に対しても心をかけておられ、深くその痛みを分ち合って自分の生涯全体で、自分の身に背負うようになさいました。けれどもイエス様は神の子であり、神のいとしい命で生きるものでありながら、人間の苦しみ、人間の死、どんなに辛いことでも、神様と出会う場に変更されました。イエス様が使徒パウロの言葉を通して次ぎのことを教えてくださいました。「わたしと苦しんで死ぬ者はわたしと生きる、永遠に生きる」(パウロのローマ人への手紙6・5)。イエス様が、亡くなった親友ラザロの死を悲しんで、御父である神様に祈り、ラザロの命を取り戻しました。そのしるし(奇跡)によって、イエス様は自分を信じる人に、復活であり命であることを示されたのです。わたし達の生きた経験では、実際にどのようにイエス様が復活と命であることを理解できるのでしょうか。その答えは、キリスト者にとって信仰の核になっています。各々の苦しみの中で、わたし達はイエス様とひとつであることを信じて実感すれば、そして神様もわたし達と同じ苦しみを背負ってくださったのだと理解すれば、わたし達は決して寂しい一人ぼっちではないことを、神様がご自分の存在と命の尊さを通して教えてくださいます。イエス様がわたし達の希望と喜びの道であり、目標であると受け止め、わたし達は神様の愛に包まれて、神様と同じ命で生き、その中で永遠に生きることを知らされます。              モヨリ神父

A年 四旬節第4主日

2017年03月24日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 「一人の女が犯罪の現場で捕らえられて、暗く寂しい砦の牢屋に閉じ込められました。その牢屋は狭くて、天井の傍らに小さな穴のような一つの窓が開いているだけでした。そこから、かすかな光と共に、少し呼吸ができるぐらいの空気が入ってきました。ある日、妊婦であった女は子供を産みました。その子供は、わずかな食べ物で生きのび、弱い体でも成長しました。お母さんと一緒に、生まれてからずっと牢屋に暮らしてきて、外の自由な世界を少しも知らない子供でした。ある日、天井に空いている小さな窓から、風に運ばれて枯れた葉っぱが牢屋に入りました。その葉っぱを手に取ったお母さんは、牢屋で生まれた子供に一所懸命に外の世界、その光、その美しさを説明し始めました。」さて、全ての人間もまったく同じ状況だと言えないでしょうか。
「ヨハネによる福音書 9・1-41」
 福音書の中のイエス様に出会った盲人と、現在の人間にとっても見えない状況の中で生きているのは同じです。けれども、生まれつきの盲人のように、イエス様に憐れんでくださいと叫び祈ったら、イエス様がわたし達に油を塗ってくださる、つまり神の子として選んでくださいます。そして聖水によってわたし達の目の前にある暗闇を完全に洗い流すことができるとおっしゃっています。わたし達の光になったイエス様は、わたし達自身、そして周囲にいる者達に神様の存在を見えるようにしてくださいます。
 上記のような課題で、わたし達が四旬節のメインテーマの真中に立っていることを実感します。洗礼を受けた人達、又洗礼を受けようとしている人達にとって、生まれつきの盲人と同じ経験をすることになります。それはどういう事かと言うと、実はわたし達の日常生活の中で気づいていないこと、見えないことは大変多いのです。しかし神様からいただいた信仰によって、つまり心の目で、わたし達の日常生活の中に神様の存在とその働きを見ることができるようになります。わたし達が愛されている印、準備されたものは、折々に周りからもたらされる小さな贈り物のように多いのですが、わたし達は見えないことがしばしばです。その愛されている印の中で、神様を信じることによって、神様から愛されたことを見出し、神様へも人へもその愛を返すことが出来ます。さて最後に、洗礼の時に受けた光を思い出して、その光で照らされて、復活祭のより大きな喜びを期待しましょう。                  
                                      モヨリ神父