カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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A年 年間第31主日

2017年10月30日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 霜のように人生は日光に貫かれるとすぐに消えてしまいます。そのように寿命もとても短いです。諸聖人の祝日と死者の日を迎えた私たちにとって、確かに参考になる事柄だと思います。このような悲しい思いに抱かれても、イエス様に従う者たちは、目を上げて光と喜びのある世界を見つめて、大きな希望をもって過ごしています。人生はどんな時でも神様の贈り物であり、どんなことよりも大切にされて、それを神様に自らの能力によって豊かにすることが、神様への恩返しになります。
「マタイによる福音書3・1-12」
 この福音書のなかに、マタイ福音記者にイエス様がおっしゃったいくつかの表現が集められています。目的はまず、だれにも神様の栄光、神様の権威を奪い取ることはできないと強調しています。次に私たちは唯一の師の弟子であることを明確にします。イエス様はファリザイ派の人々の行いを真似しないように勧めてから、このような人物のプライドと自慢とに注意されます。それに対してイエス様が皆に唯一父である神様のことを注目させながら、皆の唯一の師として神様のことを紹介します。イエス様の時代にファリザイ派の人々は主な神学的な考えの代表でした。同時にファリザイ派の人々だけではなく、新しく生まれてくるイエス様の共同体の指導者も言い伝えることと行いが異なっていました。「第一ペトロの手紙5・1-4」が同じような思いを伝えています。あの者たちの行いは、神様の思い通りではなかったのです。イエス様は結局一番偉くなりたい弟子たちに、基本として自分がされたようにお互いに仕える者になるように勧めています。実際に上席を選ぶのではなく、聖句の小箱を大きくしたりでもなく、広場で挨拶されて「先生」などと呼ばれることでもなく、人の僕、人に仕える者になることを勧められています。イエス様に従う者にとって唯一の先生はイエス様だけです。ほかの人たちは皆、兄弟です。イエス様がおっしゃったことを受け入れないのなら、むしろその代わりに自分自身で立つことにすれば、イエス様の弟子として違反することもないのです。イエス様の弟子の義務は自分の方にではなく、人をイエス様の方に呼び寄せて導くことです。使徒パウロもコリントの信徒たちに、だれにもイエス様だけが救い主であり、イエス様だけが私たちの先生であり、イエス様だけに皆が指導される、それだけを真似しなければなりませんと強調されています。
                             モヨリ神父

A年 年間第30主日

2017年10月23日 | お知らせ
 
 
 先週全世界の宣教の日を祝った私たちが、どれほど皆にこのような神様の愛を告げ知らせることができるか、大きな課題です。そして再び主の日を迎えることができました。イエス様が色々な活動で疲れてきた弟子たちに、休むように静かな所に誘われました。今日は主の日、同じように色々なことで疲れてきた私たちも、イエス様の所で御言葉に支えられて休むように誘われています。「使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 1・5―10」の中で、聖パウロはイエス様の福音を宣べ伝えるために新しい共同体を作り、ときによっては選ばれた召使と手紙を通して、少しずつその共同体の中にイエス様の姿を刻み深めるようにしていました。この時まず、聖パウロはテサロニケの教会のために自分の働きについて話しながら、積極的に苦しみの中で御言葉を受け入れたテサロニケの信者たちを誉めています。聖パウロは神様の言葉を宣べながら、その言葉の活発な働きと成果に気づき喜んでいます。その満足感もテサロニケの信徒たちに伝えています。様々な偶像崇拝から離れて、神様だけに仕え、聖霊に導かれて働くようになり、イエス様が最後に来ることに期待するテサロニケの信徒たちを、聖パウロは再び誉めています。聖パウロが強調するのは自分の中でも皆の心の中でも、復活されたイエス様こそ全人類の救い主であるということです。
「マタイによる福音書 22・34―40 」
 法律だけが人間を救うものではありませんが、当時のイスラエル人の考えでは、どんな法律でも神様の愛に対する人間の方からの答えでした。だからすでに旧約聖書の時代にも神様に対する、また弱い人に対する、愛する掟を勧められていました。今日の福音書では、すでにイエス様から永遠の命について戒められたサドカイ派の人々の事を聞いたファリサイ派の人々が、再びねじれた質問によって一番重要な掟についてイエス様に答を求めました。ファリザイ派にとって、どんな掟でも(600以上)同じ価値を持ち、違う答えは普通の教えに反する発言になりやすいので、イエス様の答えは皆に注目されました。試されたイエス様はイスラエル人の宗教的な派閥を超えて、愛の掟は一番重要な掟であることを宣言し、愛の根は神様への祈りの中にあると、旧約聖書の個所を示しながら教えていました。「 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」実は神様に対して、隣人の愛の泉は最後の晩餐の時に、イエス様ご自身の言葉に明らかにされています。「私が愛したように愛し合いなさい」とイエス様がご自分の心の愛を皆に模範として勧められました。
                                  モヨリ神父

A年 年間第29主日

2017年10月16日 | お知らせ
 
 
 イエス様に従ったものたちはいつもどんな時でもそれを覚悟して、イエス様から頂いた「福をもたらす音」、福音を言い広めています「使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 1・1–5」によると私たちの手紙の書き出しに比べて、羨ましくなるほど素晴らしい最初の挨拶が、テサロニケの信者のために記されています。このような聖パウロの手紙の挨拶は、キリスト信者のための手本になっています。この挨拶は大いに聖パウロの心を現わしながら、同時に聖パウロのテサロニケの信者への深い思い、やむにやまれないメッセージを含んでいます。キリストに結ばれた者は神様の恵み、心の平和の中で生きています。信者である私たちも、人に何かを差し出そうとした場合、上記のような神様の贈り物が一番素晴らしいものです。聖パウロはテサロニケの信者たちに心をかけながら、キリストの信仰によって自分の兄弟として思い、信仰のために働き、愛のために労働していることを誉めます。テサロニケの信者たちは、信仰と愛の中で生きることによって父である神の心の中に留められて、神様に特に愛されているのです。聖パウロは私たちのためにも参考になることをもう一言伝えています。それは福音を宣べ伝える時に、言葉だけではそれが人の心に残らないことがあります、ですから聖パウロがやったように私たちも力や聖霊の光によって、福音的な生き方によって、キリストの心を伝えるならテサロニケの信者と同じように、誰でも神様の心を見出すことができます。
「マタイによる福音書 22・15-21」
 イエス様の言葉を信じることになった私たちは、その言葉によって気づくことが沢山ありました。今日はイエス様が、普段気づかない真実に眼が覚めるように仕向けてくださいます。宗教の世界、社会の世界は私たちにとってどのように見えているのでしょうか、対立し区別されているのでしょうか、宗教と社会、信仰と政治、心の中身と物理的な世界の区別と判断を、イエス様の言葉に基づいて考えてみましょう。まず、イエス様がおっしゃる通り、まず税金を皇帝に返すことを考えましょう。イエス様がおっしゃる通り、だれにとっても社会的な義務、役割、責任があります、それは果たすべきです。それによって、社会の平和と調和を求められます。宗教的な世界は社会的な世界に対立してはいませんが、むしろ神様の光で照らされた人間はどこでも、どんな時でも一番いい方法を探し求め、それは暮らしの原動力になっています。神様は私たち一人一人を心から愛されて私たちを神様の似姿に造られていますから、私たち自身、そしてこの世界も美しく神様が作られたままに返さなければなりません。イエス様の心と一致することによって、神様に私たちの素晴らしい人生を返すことが出来、神様の栄光となるのです。                            モヨリ神父



A年 年間第28主日

2017年10月12日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 「収穫は多いが働き手が少ない」イエス様が蒔かれた言葉は豊かに実りましたが、それを受け入れる人、それを愛する人、それを実行する人はまだ少ない。しかし人手が増えるような理想的な目標は、私たちの心のなかにずっと永久に希望となって宿ります。
 使徒パウロの「フィリピの教会への手紙4・12-20」の中で聖パウロは、何にも囚われていない心、つまり完全に自由な心を示しています。富や持ち物であれ、食べ物であれ、イエス様の心と思いとに一致すれば、他に希望することはありません。そして聖パウロはフィリピの教会の信者たちに対して、感謝の心を持ちながら、彼らの支えのお陰で自由な心を持つことができ、共に苦しみを背負う事になったことは大きな慰めとなったと書いています。実は聖パウロを支え、慰め、心を自由にしてくださったのはイエス様を通した神様ご自身でした。どこでもどんなできごとでも神様の栄光「存在、働き、心と慈しみ」を見出すことができれば自分の心は満たされます。神様は私たちの父としてこの世のどこででも、ご自分の栄光を表されます。私たちがそのことに気づくことができれば満足できるのです。最後に聖パウロは翻訳することができない言葉を付け加えています。それは「アーメン」です。その言葉によって聖パウロは、上記のことをその通りと強調し、他に真実はないと力強く伝えて下さいます。
「マタイによる福音書 22・1-14」
 聖書ではこの世の出来事や私たちの経験を超える世界、または神様の心について話す時に、独特な方法が使われています。新約聖書でも旧約聖書でも、催された婚宴のイメージが良く使われています。イエス様は罪人と一緒に食事をし、最後の晩餐の中で、ご自分の体を愛のしるしとして食べ物の形で弟子たちに残しました。イエス様は弟子たちと一緒に食事を取りながら、聖霊について話したこともありました。聖書の言葉使いでは、婚宴は食卓に招かれた全人類を象徴し、普遍的な命を示し、神様の知恵、神様の恵みの食卓に誘われた全人類のことを表します。当マタイによる福音書のたとえ話では、再び神様の招きが強調されています。神様はいつでもどんなときでも、色んな方法で色んな人を通して(召命)ご自分の心に人類を呼び寄せています。神様の心は喜びとやすらぎのある所で人間の心を満たす所です。イエス様のたとえ話は聞き手を驚かせながら新しい真実を告げ知らせています。人間の喜びを求めるのは神様です。自己中心的な考え方で神様の誘いを断るのは人間だけです。しかし神様の誘いに応えるには、参加のための礼服が必要です。その礼服は私たちの洗礼式の時に着せられた白い服か、あるいはベールのようなものですが、それは大きな喜びと感謝の心を示現していて、実は神様の命、神様の恵み、私たちの心の完全な改心を通して神様の愛を受け入れられた心を示しています。
                                    モヨリ神父  

A年 年間第27主日  

2017年10月02日 | 神父様からメッセージ(A年)

 
 私たちのあっというまの人生のために日曜日の神様との出会いは素晴らし出来事であり、欠かせない喜びの機会になっています。「使徒パウロのフィリピの教会への手紙 4・6–9」は、物心両面での支援を惜しまなかったフィリピの共同体の信者たちに感謝しながら、聖パウロは当手紙の中で深い友情の関係で結びついていることを示しています。その背景の中、心の平和を探し求める人に、どのようにすればそれを得られるかを聖パウロが教えてくれています。まずイエス様に従うものであれば、煩ってはいけません。なぜなら、神様との係わりは何でも感謝しなければならないし、神様は願うことがあればいつでも私たちのそばにいて、かなえてくださいます。そう思うと私たちはイエス様と心や考えも一つになります。そして聖パウロはいつもご自分の兄弟のようにフィリピの共同体のキリスト信者に、真実の中に、正し心、清い心、愛する心をもって生きるように勧めています、なぜなら、そうすることによってイエス様とのつながりが実現し、本当の心の平和を味わうことができるからです。
「マタイによる福音書 21・33-43」
 いつもたとえ話を語るイエス様が私たちの心の反応を求めています。この場合、まず知らせてくださるのは、神様は私たちに救いの計画のすべてを備えられているということです。それはたとえ話しの中のぶどう園のことです。私たちの場合、人生のこと、信仰のこと、周囲にいる者たちのことで、それはすべて神様が私たちのために供えられたもので、大きな信頼の中でまかせられています。さて、ぶどう園のたとえ話のように、神様の賜物を預けられた私たちはどのようにそれを受け入れて大切にしたか、また神様の望みや導きを表現されている愛にどのように応えたか、それが私たちの心の反応を期待しているイエス様のたとえ話の目的になっています。まず私たちのために神様が供えてくださったことを検討してみると、この世の素晴らしさだけではなく、人類の運命、そしてもっとも大切なのは神の国です。それは神様が準備してくださったもので、私たちの弱い手に預けられています。私たちは神様が送ってくださったいろんな良い知らせ、生きた言葉、励ましの言葉、赦しの言葉をどのように受け入れたでしょうか、それが今日の朗読の重大なテーマになっています。その神様の愛を現わす言葉は、実はイエス様自身です。その言葉を受け入れて、大切にしたものだけが自分の人生、自分の住まいを親石の上に建てることにし、神様の大きな愛の計画を受け入れます。    
                            モヨリ神父

A年 年間第26主日 

2017年09月29日 | お知らせ
 
 
 イエス様は普通の農民の文化にそって、自分のことを麦の初穂であることを示し、皆のために主食になりました。私たちも一粒の麦として集められた時に聖別のパンになり、イエス様の体になります。日曜日にイエス様の体をいただく時に私たちはイエス様の死を思い、復活を讃えるのです。このような祝いは、秋の祭りだけではなく、永遠の命の神聖な祭りになっています。使徒パウロの「フィリピの教会への手紙 2・1–11」によると、エフェソの牢獄で苦しんでいた聖パウロは、フィリピの共同体に心をこめた手紙を書き、そこにイエス様に従う共同体の姿を描くようにしています。まず聖パウロはフィリピの共同体の者たちとの友情や親しみを強調し、彼らの信仰による生き方を喜んでいます。そしてどのようにイエス様に大切にされているかを語ります。どれだけ大いなるイエス様の励まし、愛の慰め、霊による交わり、慈しみと憐みの心で包まれているかを知らせます。このように愛の中で生きる共同体はイエス様の姿を映すことになり、聖パウロにとって一番素晴らしい喜びとなっています。イエス様に従う共同体にとってイエス様の心が手本になります。イエス様はまず、自分が神でありながら皆に仕えるものになりました。神様の御旨を自分の人生の目標にし、十字架上に死ぬほどの神様の愛、人の愛を示しました。それによってイエス様は人類の理想になり、神様の心を皆に示しました。このような思いの中で生きるイエス様の共同体は、利己心を乗り越えて聖パウロが言うように、同じ愛を抱き、心を合わせて、思いを一つにして生きています。このような共同体の中にこそ、復活されたイエス様の姿が高く、中心に輝いているのです。
「マタイによる福音書 21・28-32」
 今日はイエス様が語られるたとえ話を通して、私たちの信仰の質を確かめるように勧められています。私たちの信仰が言葉の音にすぎないのなら、私たちも父親に「はい、はい」とだけ答えた兄に似ています。実は「はい」と言っても父親の心を行わなかった兄は、父親の愛に対して感謝の心をあらわしませんでした。私たちの人生を振り返って、どのように神様の愛に応えているのか確かめてみましょう。当時のイエス様の聞き手であった偉い者たちはイエス様の言葉を聞いて、イエス様の言うことを誉めたり、評価したりしましたが、それは自分の生き方までには及んでいなかったのです。日本の表現を借りれば、彼らの反応は建て前にすぎなかったのです。イエス様の言葉を聞いても、心が改心せず、自分の思い通り、利己心で生き続けました。つまりこの、子にかけられた言葉は愛に充ちた父親の、心からあふれ出た言葉であったことに気付かず、自分の人生の中で具体的にその愛に対して応えと感謝までいたらなかったのです。しかしイエス様のたとえ話では、父親の愛に気付いた弟は言葉の音ではなく、行動で父の心に応えるようにしました。どうして罪人、悩む人、貧しい人は神様の目に幸いでしょうか。今日イエス様のたとえ話の中に再びその答えがありました。寛大な心で愛されて赦された者、慈しまれた者だけが、その限りない愛に気付き、自分の人生で感謝を現わし、自分の人生の生き方で応えることができるのです。
                       

A年 年間第25主日 

2017年09月19日 | 神父様からメッセージ(A年)


 お彼岸は仏事でありながら、イエス様の信者である私たちにも亡くなった方を思い、この人生のみじめさを思い、いつか太陽のように神様の姿を見出すことを思い起こさせてくれます。日曜日、主の日は体と心を休ませる日ですから、この時こそ本当の安らぎを求めて神様への思いだけで心を満たしましょう。いつも神様の言葉は、ともし火のように私たちの歩みを照らしています。使徒パウロの「フィリピの教会への手紙 1・20 –27」によると誰でも死を恐れて命を握りしめるようにしています。しかし、聖パウロにとって生と死、どちらもあこがれで両方とも望ましい目標になっています、なぜなら生きても死んでも、イエス様と一緒ならばイエス様の姿を見せることになります。聖パウロはイエス様のように生きることも大きな希望ですが、死んでも神様の懐に戻れるから、それも夢のような大きな希望となっています。それで聖パウロにとって、死ぬか、生きるか、どちらも難しい選択になっています。一方ではイエス様のように、生きる間にイエス様の心を見せて、人を救いの道に導くことができます、他方死んだ場合・完全に神様の心に戻ることになります。勿論、このような思いはキリスト信者にとって大いに参考になっています。
「マタイによる福音書 20・1-16」 
 今日もイエス様が驚くべきたとえ話を通して、私たちとの出会いを求めています。イエス様が語られたたとえ話の中で、不正な役割を通して、神様の考え、神様の義を教えてくださいます。まず神様の心、神様の思いは、社会的な計算高い人間の思いのようではありません。人間はいつも自分の働きや行いの利益をもとめています。しかし人間と違ってイエス様は、不正な主人の考えを通して、自分の愛、{諺通り・愛は盲目}自分の限りない慈しみを見せながら、私たちの心の計算を超えた義を示してくださいます。人間は自分の行いの結果において救われるものではなく、神様の慈しみと愛に満たされた義によって救われています。この福音書の箇所は、ペトロがイエス様に報いを求める対話の前に執筆されています。だからこのたとえ話をその神様の報いの背景の中に読むことにすれば、神様はいつも、どんな時でも、人間に呼びかけて誘っておられること、約束されたことを守っておられることがわかります。それに、頼りない私たちに対して、ご自分の慈しみと愛によって、ご自分の心の義を示して私たちの救いを求められています。確かにこのたとえ話を通しても、イエス様が私たちの心に出会われて、神様がいつも求めるのは人間の欠かせない喜びであることを、再び教えてくださいます。
                                  モヨリ神父

A年 第24主日

2017年09月11日 | 神父様からメッセージ(A年)


 今日、この時に欠かせない思いは、年輩の方々に対しての感謝の気持ちだと思います。まず、彼等のたゆまぬ努力と労働によって、私たちの世界、人生、環境までもが楽になって綺麗になりました。次にお年寄りからいくつもの教えや知恵を授かる事ができ、それを受け継ぎながら信仰の尊さまでも覚えることができました。このように感謝の気持ちを持ちながら、先輩の方々と一緒に神様に向かい、この人生のため、またそれに伴った恵みにも感謝を捧げるべきだと思います。先輩方が一所懸命守った信仰は私にとって大きな贈り物になり、新たな義務になります。
「マタイによる福音書 18・21-25」」
 キリスト信者にとって赦すことは欠かせない心の態度です。隣人を赦すことによって自分の罪も神様から赦されます。主の祈りの中でも自分の方から人を赦し、自分も神様に赦されるように祈っています。さて、当福音書を通して、イエス様が赦しについてペトロに対する返事で、そして感動的なたとえ話を通しても簡単に教えを伝えてくださいます。イエス様が語られたたとえ話の中に登場する僕がいて、主人に対して莫大な借金をもっていました。自分の家族の者たちを奴隷として全て売っても、自分の持ち物を全て売っても、持っている借金に対して半分以下も納めることが出来ませんでした。けれども莫大な借金を持った僕は主人の足もとにひれふして、借金を帳消しにしてもらえるように一所懸命に願いました。その願いの仕方は長年、教会のミサの典礼の中に「kirie eleison」という言葉で表現されていました。「kirie eleison」(キリエ エレイソン)ギリシャ語で、心のこもった深い願いを示し、大きな愛で包んでくださいと言う願いの意味をも含んでいます。その願いを聞き入れた主人は、僕の借金を全て帳消しにして赦しました。さてイエス様に望まれた共同体も、お互いの赦しの元に作られています。その赦しがなければ、イエス様の共同体も消えてしまいます。そして私たちがいつか、人に対する赦しや寛大な心によって、同じように神様に裁かれます。神様の大きな赦しを体験した人だけが赦すことが出来ます。赦す人はまず、自分の負った傷を治してから、赦しを与えることが出来ます。けれどどうしても赦せなかったことが赦せるようになるには、長い歩みが必要です。その時、祈りの中で神様の支えは欠かせない力になります。
                                     モヨリ神父

A年 年間第23主日

2017年09月03日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 日曜日に教会に集まるキリスト信者にとって、新たな婚宴のような祝いになります。大きな喜びは花嫁のように私たちが集まる所に登場し、私たちの共同体を神秘的な香りで包んでくれています。その風景の中に、私たちは感謝の祭儀を祝い、神様から頂いた恵みに、それぞれの自分の生き方によって恩返しをすることになります。それでミサは感謝の祭儀と言われています。使徒パウロの「ローマの教会への手紙 13・8-10」の中で、 聖パウロは欠点の多い私たちに向って、お互いを自分のように愛するように呼びかけています。聖パウロはイエス様の言葉を私たちの心に力強く吹きこむようにします。そして掟を超える聖パウロの思いは、私たちに愛の目標を教えてくださいます。愛はすべての掟を含んでいます。愛は、相手の喜びと幸せを求めるだけです。愛は、自分の心の中にある良いものを相手の心の中に置くように願えば伝わっていくものです。このような思いを通して、聖パウロは私たちに神様の愛、またはその篤さと深さを私たちの心の中に伝えてくださいます。
「マタイによる福音書 18・15-20」
 今日のマタイの福音書は、共同体の憲法のような個所だと言ってもいいと思います。イエス様が自分に従った者たちに、家族のように共同体として生きる、思う、行動するように教えてくださいます。神様は私たちに係わるのが個人的にだけではなく、周囲にいる兄弟たちを通して私たちに係わり、ご自分の心を伝えてくださり、ご自分の愛を示してくださいます。マタイの福音書で共同体が生きる方法三つを検討してみましょう。まず、失敗する兄弟に忠告することです。勿論そうする時に、つまり兄弟の目からおがくずを取り除く時に、愛を持って親切に、注意深くするのですが、同時に自分の目からも残された丸太を取り除かなければなりません。その時、兄弟に対する私たちの注意は神様の心が叶う指導となります。次にイエス様に従う人たちの共同体は、神様の思いに基づいて考え、皆でイエス様が望むような共同生活の方法を作るように勧められています。その欠かせないルールはいつくしと憐れみです。そのような共同生活は天国の始まり、天国のような場になっています。最後にイエス様の共同体では、皆で一緒に祈ります。なぜなら二人三人がイエス様の名前で集まる時に、生きておられるイエス様はその真ん中に立っておられるからです。そして何人かが一つの心で願ったならば、必ず神様が耳を傾けて叶えてくださいます。さて、このような力のある言葉を聞いて、自分が属する共同体には見直すところがないでしょうか。
                                    モヨリ神父

A年 年間第22主日

2017年08月29日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 使徒パウロの「ローマの教会への手紙 12・1-2」に耳を傾けてみれば、聖パウロは、わずかな言葉で、大きな世界を目の前に開いてくださいます。神様をいつも大いに喜ばせたわたし達が、自らの生き方によっても神様を喜ばせることができます。まず自分の人生を神様に捧げ預けることです、そして神様の心に叶うように良いことを探し求めるなら、神様は大いに喜ばれます。神様の愛と憐みに包まれて、新しい心で自分の生き方を見直しましょう。この世に倣ってはいけません。聖パウロが言うように、一緒に完全な生き方を目指して、神様だけを喜ばせる生き方に倣いましょう。
「マタイによる福音書 16・21-27」
 フランシスコ・ザビエルがパリ大学で、社会的な考えからすれば偉くなるために勉強していた頃、他の同じ理想を持っている友達と付き合い、いくつかの思いを分かち合っていました。ある日のこと、今日の福音書の箇所に、その若者たちは心を打たれました。「わたしのために命を失うものは、それを得る。たとえ全世界を手に入れても・・・」当時の若者たち(イエズス会の初代の者達)が、このような言葉を聞いて受け入れたそのことが、その言葉の働きとイエス様のことを誰にでも知らせるような見事な結果になりました。さてイエス様が今日、わたし達にも教えてくださるのは人間による考え方ではなく、神様の考え方です。ペトロもこの時、神様によるのではなく自分らしい考えで、イエス様に十字架の道を退けるように勧めました。しかし、イエス様に厳しく戒められました。イエス様に従う者達は、一日でキリスト信者になるというわけではありません。むしろ毎日、イエス様の足跡を踏みながら、自分の十字架を負いながら少しずつイエス様と同じように生きるようになります。確かにそうすることによってイエス様と全く同じような行いをも成し遂げることができます。人間の大きな喜びを求める神様の思いは、自分の十字架を背負ってイエス様に従うことです。このように思うことは、自分の命を捨てるように見えるのですが、しかし自分の日常の苦しみを受け入れ、それを通して神様とのつながりを深め、また隣人とのつながりを愛で満たすように考えることが出来れば、イエス様と一緒に復活の喜びを迎えることができます。このようにイエス様と一緒に復活した人間が自分の人生を得、大きな喜び、大きな報いを得ることができます。
                                 モヨリ神父   

A年 年間第21主日

2017年08月21日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 イエス様の言葉の意味を、毎週この解説の言葉の中に探し求める人々にとって、どうして今日の解説がこの季語で始まっているかと考えをめぐらしたかもしれません。実はイエス様の言葉は強烈な日差しのように、私たちの日常生活の中に、時によって厳しく入り込んで、私達の人生を全て照らしてくださいます。そのように照らされた私達の心は新しい、素晴らしいことをたくさん見出すことができます。パウロの文章【使徒パウロのローマの信徒への手紙 11・33-36】を読んでみると、これは理性で書いたものとは違って、感情で書いた文章だとみられています。パウロは珍しく同じように3回繰り返して自分の思いを述べています。パウロはイエス様の定め、イエス様の知恵に捕らわれ感動しました。それに従ってイエス様の心を知り、イエス様の相談相手になり、イエス様の報いを受けるだけのために生き、そして人生の中で、それだけを頼るべきだと宣言します。私たちは神様から出るもの、私たちは神様に保護されるもの、神様に向かって生きるものですから、大いに喜ぶべきでそのためだけに生きるはずなのです。パウロは、強く強くその真実を述べ伝え続けています。

「マタイによる福音書 16・13-20」
 今日もイエス様が弟子たちにも私たち
にも質問してくださいます。「あなた方は私が何ものだというのか」その答えによって、様々に生き方は大いに異なって、または変化します。殉教者たちの答えは、イエス様は自分の命、自分の血であるということでした。修道者たちも、上記の質問には全てを捨ててイエス様を第一の宝とすることで答えました。信徒の皆さんも社会的な恥より、社会的な利益よりもイエス様を一番素晴らしい理想にして、一番欠かせない友人としてイエス様だけに従う者になりました。このような答えが自分の参考になりませんか。では使徒ペトロの答えを分析してみましょう。まず、ペトロの答えは自分の才能から発生した答えではなく、聖霊の知恵と力からでた答えです。同時にペトロは、時代を渡ってイエス様に従ったものたちの代表になりました。ペトロの答えによって、イエス様がペトロの名前を変えペトロの運命をも変え、自分の教会の土台に任命されました。二千年以上のキリスト教の歴史の中で、聖ペトロと聖パウロに設立されたローマにある教会は、キリスト教の中心でありイエス様の言葉通りにキリスト教の土台であり、全世界の信徒を指導し、イエス様の教えをと戒めを正しく勧める権利を持ってずっと守って来ました。最後に、イエス様は自分がメシアであることを言い広めないようにと弟子たちに頼んでいます。それはメシアは宣伝する対象ではなく、一人ひとりの心の内からの答えだけを望んでおられるからなのです。
                                    モヨリ神父

A年 年間第20主日

2017年08月17日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 典礼暦では月曜日15日に、キリスト信者はマリア様の被昇天を祝うことになりました。次の3粒の真珠のような教えを心にとめましょう。マリア様は、天国から一人一人を見守っています。次にわたし達が行くべき場所を示してくださいます。そして天国に行く方法を教えてくださいます。だからマリア様の被昇天の祝いは、日本の死者を迎える文化や宗教観の背景の思いの中で考えても、天国の方に開いた窓になっています。毎週の主日の聖パウロの言葉を心にとめましょう。聖パウロは独特な言葉を使っています。それは異邦人です。実は神様の目からは、聖パウロが自分について言うように聖パウロ自身には権利がなく、身分の低い者で異邦人のような者です。それでパウロは異邦人の使徒であることを公言しながら、神様が特別に弱い者、身分の低い者、権利のない者、外国人のような者を愛されるのだと強調します。つまり聖パウロが言うように、死者が命を探し求めるように、神様が異邦人を探し求め、憐れみ深さをもって皆を受け入れて愛一杯で包んでくださいます。
「マタイによる福音書15・21-28」
 マタイの福音書はイエス様の心の広さを示しながら、信仰の強さについても語ってくれています。旧約聖書によると、神様は約束通り、選ばれたイスラエル人の救いの為にメシアが使わされました。新約聖書ではイエス様が全人類の救いのためこの世に来られて、神様の普遍的な心を、ティルスとシドンの地方のできごとによってお示しになりました。マタイの福音書のイエス様とカナンの女の会話と、先週の福音書の出来事を比較してみましょう。今週は一人の異邦人のお母さんが自分の娘の為に「主よ、憐れんでください。」と強い信仰をしめして願いました。先週は溺れそうになったペトロが自分のために「主よ助けてください」と薄い信仰をしめしながらイエス様の助けを求めていました。カナンの女の信仰はイエス様に誉められ、ペトロの信仰は薄いと叱りつけられました。しかし、両者ともイエス様の限りない憐れみによって救いを得ることになりました。だから、今日教えられたことは、確かに心の信仰のあり様によってだけではなく、神様の普遍的な愛によって救いを得られるのです。神様の救いを得られる資格を考えてみれば、なにも必要ありません。罪人であれ、異邦人であれ、どんな体と心の病人であれ、女性でも男性でも、人間でさえあれば、神様の普遍的な愛の対象になります。                          
                               モヨリ神父  

A年 年間第19主日

2017年08月09日 | お知らせ


 日本では夏祭りの季節ですが、キリスト信者にとっては毎週の日曜日に、神聖な祭り、感謝の祭儀を迎え、イエス様を大きな喜びをもってお祝いします。むしろその祭りは大きな喜びの日で、感謝の祭儀を通して、神様に対する、また兄弟に対しても感謝の心を現わしながら祭りを祝います。では、聖パウロの「ローマの信徒への手紙」の言葉にも注目しましょう。聖パウロはキリスト信者としてイエス様に強く結び付いていることを確信しています。それによって自分の人生、言葉、行いを通してイエス様のみ心だけを語っています。聖パウロは真実を語り、偽りは言わないとおっしゃっています。それに聖パウロが自分の心が悲しんでいることを語っています。それは、神様に選ばれた者たちがこの世に送られてイエス様のことを紹介して告げ知らせても、それに気つかず受け入れられない者も多いからです。このようなことは使徒パウロにとって非常に不幸なことなのです。
「マタイによる福音書 14・22-36」
 当マタイの福音書は大きな励みのメッセージもたらすところです。福音書のこの場面を正確に読みとるために、象徴的な出来事として分析してみなければなりません。いつも危なそうに浮かんで、揺れている船は教会のことです。しかしその中にイエス様と弟子たちがおられるから、安全に向こう岸に渡ろうとしています。それは神様が定められた教会の歩みを例えています。イエス様にとってどんな時でも祈るのは、自分のお父さん(神様)の心と思いとのつながりの場で、それは私たちの祈りにも参考になっています。イエス様のように祈る時こそ、神様との思いと心が一つになる時です。同時にイエス様がいつもご自分の弟子たちと一緒におられます。幽霊のようなものではなく、支える力、勇気を与える存在として弟子たちと一緒におられるのです。この時にもイエス様に従った私たちのために、心に響く言葉があります。「安心しなさい、私だ、恐れることはない。」この言葉はシナイ山で神様が自分の名前を述べられたように、イエス様が、自分のことを紹介します。「私だ。」つまり「私がある。」と。イエス様がいる時、つまり私たちがペトロのようにその欠かせない存在に気付く時に幸いです。再びイエス様が私たちに呼びかけています。「来なさい、安心しなさい、恐れることはない。」この言葉を信じたペトロは、強い風に襲われてもイエス様の手を握って支えられ、救われ、無事にイエス様がおられる船に戻れました。この時こそ、このような出来事とそのメッセージは私たちの信仰のために参考になりませんか。私たちの人生も嵐の中を小さな船のように進んでいますが、ペトロの信仰さえあれば、イエス様がいつも私たちのそばにおられて、私たちの手を握って安全な所まで導いてくださいます。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」    
                                  モヨリ神父

楽しい一日を2017年8月2日

2017年08月02日 | 今月の行事予定
カトリック菊池教会の小さいお客様と暑いの中楽しい一日を~!!

A年 年間第18主日

2017年07月31日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 キリスト信者は主の日を迎えると心と体が普通より大きく変わり、大きな喜び、信仰の祭りを迎えるために整ってきます。私たちは主の日に普段着を着替えて、綺麗な服を着て、心の中にある希望と喜びを外面的にも表すことにします。このごろミサの朗読では、パウロの「ローマの教会への手紙」を連続で読もうとしています。今日の箇所では私たちの心を強く窺っている言葉が一つあります。それは「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょうか」 さて、イエス様が十字架に死ぬほど愛された者は誰でも、自分の心の中でこのような質問に答えることができます。この答えはとても個人的で、だれも私たちの代わりに答えることができません。聖パウロは私たちのために参考になる答えを見出します。自分の人生による事情を図ってから一つしかない答えを出しました:「私たちはイエス様から引き離されることがないのです」つまり、イエス様ご自身は、私たちの命、私たちの道、私たちの喜びです。キリスト信者は自分の中に生きておられるイエス様と一緒に生き、対話し、模範と理想として人を愛します。

「マタイによる福音書 14・13-21」
 当福音書では何かしようとしているイエス様がとても大切です。その出来事は第一の朗読によると心身で注目するように呼びかけられています。私たちは耳だけではなく目でも神様の言葉を聞いて受け入れるのです。そうです、イエス様はとても重要なことを行おうとしています。それは、洗礼者ヨハネがすでに死んだ時でした。けれどもその時、洗礼者ヨハネの予言した言葉は実現しようとしていました。「後に来るのは私が靴のひもを解く値打ちもないほど、私より大きな力を持つ方だ」と教えました。それに従ってイエス様が病気で悩んでいる民衆に対して、憐み深い心をもって公にモーセと同じように、新しい民族の指導者として力強く大きな愛を示そうとしています。その時、イエス様が五つのパンと二匹の魚で、つまりエルサレムの方へ行く巡礼者のために定められた食べもので、五千人以上の疲れきった人たちを食べさせ満足させました。その時イエス様は、まず弟子たちに向って「あなたがたがこの人達に食べさせなさい」と誘いました。その言葉に含まれた意味はまず、弟子たちに自分自身、自分の人生、自分を全て、悩んでいる人に捧げなさいと、イエス様ご自がなさったように弟子たちに勧めた愛の形でした。そしてイエス様はパンを手にとってから、「それを祝福し、割って、人に与えました。」このようにイエス様がパンと魚を増やして、群衆の心と体を満足させました。このようなしるしによって確かにイエス様が人を食べさせて、力と希望を与えましたが実際にそのしるしによって、もっと重大な出来事の意味を示したかったのです。人がイエス様のパンを、つまりイエス様の体を食べると、弱い時支えられ、失望の時に大きな希望に抱かれて、病気の時に癒され、死んでも生きる命を得ています。つまり人間がイエスさまの愛によって大きな喜びで満されています.
                         モヨリ神父