moimoiず だいありい

おいしいもの、ほっと和めるもの、ぶらぶら街歩き、気になってること等々の身辺雑記でしょうか・・

’08 京都 (一)

2008年08月23日 | 京都
今年も短い期間でしたが京都へ・・
何箇所か、印象に残った場所やお店などを・・

《源光庵》
京都の北西、鷹ケ峰(鷹峰)にあるお寺に行ってきました。
大徳寺の僧が開創し、その後の元禄7年(1649年)に、京都では珍しいという曹洞宗の寺として再興した源光庵へ。
本堂にある丸窓と四角い窓が特に目をひきます。
 

丸い窓は「悟りの窓」と名づけられています、円は禅の心を表し、宇宙を表現するそうです。
四角い窓のほうは「迷いの窓」と名づけられていて人間の生涯を象徴し、生老病死の四苦八苦を表現しているとのこと。
見る順番も角窓から見たほうがよいとのことでしたが、丸から見ていたような・・?
完成された一枚の絵を見ているような、そんな気もしてしまいます。
紅葉の頃は特に美しいとのことですが、緑の頃も目にまぶしいようです。
 

そしてこの落ち着いた窓と相対するように、本堂の天井は血天井になっています。
慶長五年(1600年)、徳川家康の忠臣、鳥居元忠の一党1800人余りが石田三成の軍勢と交戦し、380人余りが自刃して果てたところが伏見城でした。
こうしたことを弔うという意味もあり伏見城の廊下板の遺構が源光院本堂の天井として使われています。
天井のあちこちには血で染まった跡がそのまま残っている甲冑のような模様の跡や、手型、いまでも大男と思えるような足型が残されていました。
昔の方はこんなふうにして弔う気持ちを現したのですね・・じっと見ていると何ともいえない気がしてきますが、無念な気持ちで逝った人たちのことをずっと忘れずに供養していこう・・ということでしょうか。
この他に伏見城の遺構が使われている血天井は京都の寺に五箇所に分かれてあるそうです。
本堂裏は枯山水の庭園になっていました。
 

《光悦寺》
このあとはすぐ近くにあった、江戸時代の初期に本阿弥光悦が芸術の拠点とした光悦寺にも寄ってみました。参道が緑でうっそうとしていて、厳しいくらいの夏の日差しも遮ってくれるので余計ほっとしてしまいます、もみじが沢山植えられていて紅葉の頃を想像してしまいました。
真ん中の写真が光悦寺、右は境内の苔・・


境内には七つの茶室があり、一番左は大虚庵(だいこあん)、ちょっとしか映っていませんが回りを光悦垣といって竹を斜めに組んだ特徴ある垣根に囲まれています。
真ん中も茶室で了寂軒、後ろには鷹ケ峰三山、鷹、鷲、天の名前の小高い山の峰が連なっています。
一番右は帰り道で撮った参道、菱形に敷かれた石がいい感じです。


《高桐院》
このあとバス移動になりましたが、比較的そばにある大徳寺の塔頭(たっちゅう)で慶長6年(1601年)に利休七哲の一人、細川忠興が父の幽斎の菩提所として創建した高桐院、こちらは3年前に初めて行ったのですが娘がすっかり気に入ってしまい再度訪れることにしました。
変わらずに美しいこの参道・・そういえば光悦寺の参道も雰囲気が似ていたような・・
夏でも既に紅くなる種のもみじも参道に見えました。
        

庭園を前にお抹茶も頂いてみました。添えられていた菓子は末廣菓舗のあやごろも、羽二重餅でした。
 

思い思いに皆さんあちこちに・・毛氈に座ったり、畳に座ったりして庭園を眺めていました。


明り取りの桜の形がかわいらしい、灯りは思いのほかモダンなデザインなものがありました。
       

左は利休亭の広間を移築したと伝えられる書院の意北軒、右のほの暗い茶室は徳川秀吉が北野天満宮で催した大茶会の時に、忠興が設けた茶席を移築したと言われている松向軒があります、どちらも静かに時間を重ねてきたという風情が漂っていました。
           

《今宮神社、あぶり餅》
このあと歩いていける今宮神社そばで「あぶり餅」があるので食べてみたいね・・ということで一息つくことに。
           

あぶり餅のお店が、2店舗向き合って営業していました。
かざりやというお店のほうに寄ってみることに。
手でちぎって串に指したお餅で、それだけに独特な形をしています。白みそをベースに秘伝という甘しょっぱいタレが付いていて楽しく食べられました。     
          

《上賀茂神社》
ここから上賀茂神社がわりあいそばにあるということで、見学時間も特にガイドなどに記載されていなかったので少し遅い時間でしたが境内には自由に入れるのかな?と思って、またバスに乗り込み上賀茂神社まで向かうことに。
途中、鴨川(賀茂川)にかかる橋を渡り立派な鳥居が見えてきましたが、人影があまりありません・・
あれ・・五時台で閉門されていて中には入れないようになっていました・・残念。
せっかくだから門の外から中を撮ってみました。
拝殿前にある二つの円錐形の盛り砂「立砂(たてずな)」は神が降り立つ神聖な場所とのこと・・遠目にここも確認出来てちょっぴり来た甲斐があったかな?
 

《社家》
せっかくだからここから近い社家(しゃけ)の街並みをぶらぶらしてみることに。
社家とは上賀茂神社の神官を世襲する家柄の屋敷が明神川に沿って並んでいたところで、室町時代から門前の集落として発展した地域。以前は300軒ほどあった社家も今は10分の1近くになっているそうです。
家々の玄関口の前には必ず明神川を渡る石橋があり、そこを渡らなければ家に入れないようになっています。家にも水を取り込み庭の池に巡らせていて、水は神官がみそぎに使ったといわれています。
土塀の続く立派な家が並んでいました。
  

このあとも京都(二)続けたいです。

七月大歌舞伎 昼の部千穐楽

2008年08月09日 | 歌舞伎
先月31日に行った歌舞伎なので少し時間がたってしまいましたが、覚え書きという意味も込めてアップしています。
初めて歌舞伎座でその月に催される一番最後の日・・千秋楽(千穐楽)の昼の部に行ってきました。

歌舞伎座の前は「御禮本日千穐楽」の垂れ幕がかかっていて場の雰囲気がざわざわといつも以上に賑やかで華やかな感じが漂っていて、ちょっとうきうきしてしまうような感じです。
それに市川海老蔵を今回初めて見るのもあり、宙乗りもあるという点でも楽しみでした。
 

演目は義経千本桜で源九郎狐を中心に「鳥居前」「吉野山」「川連法眼館(かわつらほうげんやかた」の構成になっていました。
源義経(市川段冶郎、門之助)が宮中から拝領したという「初音の鼓」を静御前(市川春猿、坂東玉三郎)に渡します。
静御前がこの鼓をうつたびに、佐藤忠信に化けた源九郎狐が現れるのですが、じきに本物の忠信が現れ、偽の忠信は一体何者なのかと詮議されることに。
実はこの初音の鼓は親ギツネの皮が貼られていたということで、源九郎狐は親への思慕の念に駆られてこの鼓の前に姿を現したのでした。

ポスターにもなっていた「吉野山」の場面、海老蔵と玉三郎の舞も美しく、三味線、義太夫の竹本の演奏は力強い感じです。
「川連法眼館」では、宙乗り狐六法相勤め申し候・・と案内に記載されていました。
歌舞伎の狐の衣装は真っ白な毛の狐をあらわす独特な衣装、動くたびにふさふさと一本一本の毛が動くようになっているので、余計に躍動感が・・
 

座席は西側の席で、花道が見えないなぁ~・・でも舞台からの距離感がわりと近いし、ツケ打ちの人がよく見えて面白いといえば面白い・・席についてから、もしかして西側の席は宙乗りの海老蔵が間近に!?と気が付いてからはかなり楽しみな席へと変わったのでした^^; 
右の写真は舞台から離れた外側の廊下で、2-3階は一部吹き抜けになっています。
          

衣装の早変わりやら、思いがけないところからの登場、仕掛けが様々に掛けられています、最後は宙乗りで3階客席の奥に花吹雪とともに消えていく・・というなんとも歌舞伎こそ!のケレンたっぷりな演目でした。
海老蔵はよく通るろうろうとした声と、好き嫌いを超えてカリスマ性をまとった役者で華がある人だと・・。
化粧も汗で流れてしまいそうな熱演で、千秋楽を突っ走った感がありました。
最後にまかれた花びらを拾い集めていた方が結構いらっしゃったので、私たちも思わず拾って帰りました。

歌舞伎座の回りをぐるりとまわって昭和通りのほうに抜けて銀座方面に出ることが多いのですが、この日は千秋楽だったので、昼の部で使っていたと思われる桜の木の絵を板に描いたものが無造作に塀に立てかけてあったのが外から見えたり、敷地内に歌舞伎稲荷があるので幟がはためいているのが見えたり、裏側の出入り口があってそこから仕事がいったん終わったばかりと思える大道具や小道具や舞台を支えている人たちが出入りしていたり、たまに夜の部の練習であろう楽器の音が聞こえてきたり・・歌舞伎を支える方たちの様子が建物を出た後にも感じられるので嬉しい。
三味線屋さんも店を構えていて、右のポスターはそこの店先に貼ってあったものです。昭和通りに出ると、歌舞伎役者さんたちの出入りする楽屋入り口があり、通りに面しているので、きっとお目当ての役者さんの出待ちのファンが沢山いることもありそうです。
  
覚え書きといいながらまたぐちゃぐちゃ書いてしまいました。