旅芸い者放浪記

前沢政次 ブログ

吉澤国雄先生のちから

2013-01-30 23:30:16 | 地域協働
国保病院による昭和の時期の活動で望ましい原点を教えてくれるのは吉澤国雄先生の活動でしょう。今村晴彦ら『コミュニティのちから』から要約してみました。


 浅間総合病院で活躍したのは吉澤国雄(1915‐2008)である。1941年に東京帝国大学医学部卒業。軍医となり中華人民共和国に出征。 1954年に帰国して東京大学医学部冲中内科入局。その年長野県厚生連安曇病院副院長兼内科主任となる。 1959年北佐久郡国民健康保険浅間病院組合(現:佐久市立国保浅間総合病院)の初代院長に就任。
 吉澤の就任当時、長野県は日本一脳卒中死亡率が高かった。吉澤は1962年佐久市に隣接する旧東村を脳卒中予防対策のモデル地区にして調査を開始した。この地区では高血圧や貧血のある住民が多いことを突き止めた。食生活では味噌汁を1日平均3杯飲み、肉や卵などのたんぱく質をほとんど食べていないことを明らかにした。健診、健康手帳の配布、事後指導を徹底した。まず1968年には「佐久市東地区成人病予防の会」が結成された。予防推進のための住民組織である。
 また、吉澤は住民に対する健康教育のために講演活動を精力的に行った。既存の組織である婦人会や若妻会、青年団、PTAなどに対して毎月2~3回、年間30回ほどの講演を行ったという。
 しかし、医師からの講演では住民への押し付けになり、住民の側は受け身で、自ら健康を守ろうという積極的な姿勢にならないことに気づいた。住民自身による自主的な活動組織の必要性を強く意識するようになった。そして長野県内で活動が進んでいた保険補導員組織に着目する。佐久市で活動していた「衛生委員会婦人部」「母子保健推進委員会」の二つの組織を統合して「保険補導員委員会」を結成したのは1971年である。
 まず「保健連絡会」を持つ。保険補導員の他に、市の保健婦、浅間病院の栄養士、ケースワーカー、2名の保健指導医(吉澤を含む)が参集した。
 1974年には市の健康管理センターを設置する。保健補導員はそこを拠点にして、各地区への出張健診や冬期室温測定、一部屋温室運動、血圧の自己測定活動などを展開する。
 このような活動の結果、脳卒中死亡率の大幅な減少を見た。寝たきり者の率、90歳を超える長寿者の率も群を抜くようになった。