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俳優・勝地涼くんのこと。

『ムサシ』(3)-14(注・ネタバレしてます)

2017-03-03 00:02:15 | ムサシ
また、(3)-13で井上さんが名前をあげたバフチンだが、蜷川さんもバフチンの影響を強く受けていることをあちこちで表明していて、「井上さんの作品はバフチンそのものじゃないかって思えるぐらい構造がそうで、大好きだった。それで分析すると、いくらでも分析できていく。それがあって、殊に初期のものがずっと好きだった」とも述べている。((3)-※79参照。また(3)-※102も初期の井上さんの作劇術が「聖なるものはすなわち俗なものであるというバフチンのカーニバル論に通じている」ことを指摘している)。
井上さんが「当時日本で流行りはじめたバフチン」と言っている通り、当時少なからぬ文化人がバフチン理論の影響を受けてはいるのだが、蜷川さんは晩年までバフチンの『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』を座右に置いていたというから筋金入りである。
そういえば、大江健三郎さんが座談会で引き合いに出した((3)-12参照)サイードについても、蜷川さんはインタビューで「僕は、つくづく僕自身がパレスチナ出身の思想家エドワード・サイードに依拠する人間なんだと実感します」。(※131)と述べるほど大きな影響を受けている。
すぐ後に「ここで『オリエンタリズム』の話をしたってしょうがないけれど」と続けているように、ここで蜷川さんが想定しているのはサイードの代表作『オリエンタリズム』だが、「サイードに依拠する」と自認する蜷川さんはこのインタビューの前後で邦訳が出版された『晩年のスタイル』も読んだことだろう。

思えば『晩年のスタイル』が説く〈大作家は晩年カタストロフィーに陥るものだ〉という理論は、蜷川さんにそのまま当てはまる。蜷川さんの追悼特集では、多くの評論家・作家が彼の「絶えず新しい作品と舞台を創ろうとする熱い情熱」((3)-12参照)や〈成熟を否定し、常に自己の演劇を解体・再創造しようとする姿勢〉に言及している(※132)(※133)(※134)
特に「ヴィスコンティもフェリーニも、晩年は力のある仕事をしていない。ピーター・ブルックもどんどん小さな世界を描くようになっている。そういう優れた人たちの収束の仕方にぼくは抵抗感がある」「作品を小さな世界に閉ざさない。もっとほころびと荒々しい隙間がある終わり方がいい」(※135)という発言などはまさしく『晩年のスタイル』の説くところそのままではないか。


そして蜷川さんが「自己の演劇を解体・再創造する」中で目指したものは※132の指摘に従うなら、「自らが薫陶を享けた新劇の演劇修行時代を総括し、自分の演出家としての出発点であるアングラの時代をさらに過激に解体することで、彼の目指すべき演劇を獲得」することだった(※136)
演劇人生の最初、新劇系の劇団青俳に所属していた蜷川さんは演出の倉橋健さんから台本を徹底的に分析することを叩き込まれた(※137)(※138)。蜷川さんの〈台本を直さない、とにかくト書き通りにやる〉「新劇的」姿勢はこの頃培われたものだ。あちこちで話しているように当時からの盟友・劇作家の清水邦夫さんの〈生みの苦しみ〉を間近に見てしまった影響も大きかっただろう(※139)。そう考えると、蜷川さんに対する「新劇最後の演出家」」(※140)「新劇運動の最後のランナー」(※141)という評は適切である。
その彼が晩年に目指した演劇とは「セリフの内容、感情をしっかり作」った「言葉、言葉、言葉の演劇」(※141参照)だった。あたかも倉橋さんから学んだスタニスラフスキー・システム、新劇的方法論の再来のごとくである。
「一周回ってオレは今そのことに気がついたんだ」という台詞通り、新劇、アングラ劇、商業演劇と経験を重ねてきた蜷川さんはそれらを総括・解体しつつ最後に新劇に戻ってきた。むしろ「あの時代は、よくも悪くもヨーロッパ演劇を勉強させられたから、まず徹底的に啓蒙と分析なんだよね。だけどいま外国で仕事をするとき、まさにその遺産で食ってるというところがある。これは倉橋先生に感謝しなきゃいけない」と※137で語っているように、そして台本を直さない、ト書き通りにやるスタイルから言っても、蜷川さんは終始新劇の人だったという言い方もできるかもしれない。

そしておそらくは蜷川さん以上に、自身の中の新劇的なものに対して複雑かつ分裂した感情を持っていたのが井上さんだった。特に初期において新劇を繰り返し批判しながら(※142)(※143)、一方で「新劇がダサイだなんて冗談じゃないと思っている」(※144)と述べたりもする。
そうした井上さんの屈折した態度を中野正昭さんは「おそらく井上ひさしほど新劇嫌いを公言しつつも、自らの演劇的スタンスとして新劇に拘った劇作家もいないだろう。」(※145)と評し、数年間井上さんとの対談を連載した平田オリザさんは「「(井上さんは)自分は日本の演劇界の傍流から出発したという想いが強かったようで、いわゆる「新劇」というものに対する愛憎相半ばする感覚は、他人には理解できない繊細なものがあった。」「「正統」と呼ばれるものへの距離感と、自分自身がその「正統」の中に入っていく違和感がない交ぜになっていた」(※146)と書く。
蜷川さんは井上さんに「蜷川さんがさ、いちばん新劇的なんですよね」」(※147)と言われたというが、新劇に対する「愛憎相半ばする感覚」を井上さんは「いちばん新劇的」な蜷川さんに対しても感じていたのかもしれない。
そしてその井上さん自身を「井上ひさしはもっとも正統的な新劇の継承者の一人」とする評者もいるのである(※148)


※131-「僕は、つくづく僕自身がパレスチナ出身の思想家エドワード・サイードに依拠する人間なんだと実感します。ここで『オリエンタリズム』の話をしたってしょうがないけれど」。 公演プログラムのインタビューで突然サイード(一九三五-二〇〇三)にふれたのは、サイードが代表作ともいえる著書『オリエンタリズム』(一九七八)の中で、西洋が中東やアジアをエキゾチシズム(異国情緒)等のロマンチックなイメージで包む伝統が帝国主義や植民地主義の隠れ蓑になっていると論じたことについて、蜷川が共感したからである。」(「オセロー」、同上)(秋島百合子『蜷川幸雄とシェークスピア』(角川書店、2015年)

※132-「《もっと過激に拡大してやりたいんだ。つまりね、劇団を創った時、世界を否認したいと思った。世界を否認して否認して続けて、その結果世界を肯定するものを発見したい。自分の人生も終わりが見えているから、とにかくそれを一貫させたいんです。これは単なる決意だけど、ぼくは自分の演劇を解体しますよ、最後にはね。それをちゃんとやろうと思う。まとまって終わらないよ》(拙著『[証言]日本のアングラ』作品社、二〇一五年、二百十一頁) これは蜷川幸雄が二〇〇六年に筆者のインタビューに答えて語った言葉である。(中略)この言葉は、わたしの質問「・・・・・・現代人劇場や櫻社の時代、つまりアングラでやり残したことをもう一回新たにやり直すということですか」に答えてのものだった。 蜷川は自らが薫陶を享けた新劇の演劇修行時代を総括し、自分の演出家としての出発点であるアングラの時代をさらに過激に解体することで、彼の目指すべき演劇を獲得したいと語っているのだ。七十歳にしてその気魄は凄まじく、尽きることなき演劇への野望が彼を前駆させているように思えた。まだまだ彼には到達すべき〈演劇〉があったのである。」「蜷川の決意が並々ならぬものであったことは、かつて成功した作品を今の視点で読み直し、解体しながら再創造したことでも了解できる。彼は自分の「名作」が神話に包まれることを決して許さなかった。」(西堂行人「蜷川幸雄の演劇の解体、脱神話化、そして来たるべき演劇」、『悲劇喜劇2016年9月号』(早川書房)

※133-「扇田「演出家・蜷川幸雄にとって、成熟っていうのはあるんですか。 蜷川「放っておくと、安定した作品を作ることはさほど困難ではなくて、イメージは、本読んでる間にそれなりに整合されたものが出てくるんですね。それが自分ではいやなわけです。成熟ってみっともないじゃないですか。」(蜷川幸雄インタビュー「芝居は血湧き肉踊る身体ゲームの方がいい」扇田昭彦編『劇談 現代演劇の潮流』(小学館、2001年)

※134-「晩年の作品で私が最も衝撃を受けたのは『蒼白の少年少女たちによる「ハムレット」』だろうか。若き愛弟子たちが熱演好演する舞台に突如、旧き大衆芸能を象徴するこまどり姉妹を出現させて、自らが創りあげた秀作を自らの手で破壊してみせたところにアングラの旗手、蜷川幸雄の面目躍如たるものがあった。」(松井今朝子「五体が痺れた舞台」、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年))

※135-「蜷川は、日本の芸術家に多い枯淡の晩年は送りたくないという。 「ヴィスコンティもフェリーニも、晩年は力のある仕事をしていない。ピーター・ブルックもどんどん小さな世界を描くようになっている。そういう優れた人たちの収束の仕方にぼくは抵抗感がある」 では、どんな収束の方向を蜷川は目指すのか。 「作品を小さな世界に閉ざさない。もっとほころびと荒々しい隙間がある終わり方がいい。例えば、ブニュエル、ダリ、ピカソのような。老いの終点が盆栽や室内楽のような小さな宇宙というのは嫌なんだ。演劇人としては、頭脳だけでなく、体全体を使った官能の追究を続けたい。知的ゲームでは終わらない、体がうずき、痙攣するような舞台を作りたい」(扇田昭彦「過激な晩年へ─蜷川幸雄」、扇田昭彦『才能の森 現代演劇の創り手たち』(朝日新聞社、2005年)収録、初出1999年)

※136-「彼は言葉の探究に心血を注いだ。「新劇」が果たしてきた役割を明確に認識し、翻訳劇主流だった歴史を再点検した。それと同時に、後発のアングラ・小劇場によって開拓された実験や前衛の成果を、新劇の肥沃な土壌に継ぎ木し、重層化しながら発展させようと考えた。歴史を批判的に継承し、未来や後続世代にどう繋いでいくか、蜷川が自らに課した使命は、おおよそここらあたりに集約される。蜷川にとっての「現代演劇」の未来形を舞台そのもので指し示そうとしたのである。」(西堂行人「蜷川幸雄の演劇の解体、脱神話化、そして来たるべき演劇」、『悲劇喜劇2016年9月号』、早川書房)

※137-「あの時代は、よくも悪くもヨーロッパ演劇を勉強させられたから、まず徹底的に啓蒙と分析なんだよね。だけどいま外国で仕事をするとき、まさにその遺産で食ってるというところがある。これは倉橋先生に感謝しなきゃいけない。倉橋さんのいいところも悪いところも、ぼくが言うぶんにはいいわな。倉橋さんは徹底的な分析をするわけです。 たとえば、安部公房の『制服』という芝居をするとき、初めから終わりまでの全セリフ、全ト書き、全部上にサブテクストを出していく。もちろん「・・・・・・」まで出すわけですから、下の文章よりはるかに膨大な分析が出てくるわけですよ。ひと月の稽古だと、それは約十五日から二十日間かけるわけです。それを徹底的にたたきこまれる。ぼくなんか、倉橋さんの芝居に出るときは、行動表といって、分析とか、サブテクストを言葉であらわさなきゃいけないから、夜寝るときに、枕元に鉛筆とノートを置いて寝ているんです。で、ぱっと目が覚めて、たとえば、「・・・・・・」は黙っているときに相手をうかがっているんだと思うと、「相手をうかがう」と夜中に書いて、また寝るといったふうだった。そういう徹底的な分析をさせられたんです。」(清水邦夫ラ蜷川幸雄「ぼくたちの青春 ぼくたちの演劇」、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年)収録、初出1995年)

※138-「青俳時代、蜷川幸雄は劇団の指導者だった倉橋健にスタニスラフスキー・システムをたたきこまれた。セリフの背後にある心理を分析し、アクションにつなげる。そのため枕元にいつも台本を置き、セリフの意味に気づくと、すぐ書きこむ習慣がついた。サブテキストを徹底して作りこむこと。衝動的な演技を重んじた蜷川演劇の源には、このサブテキストがあった。」(内田洋一「逆説を生きた自己処断の人」、『悲劇喜劇2016年9月号』、早川書房)

※139-「僕は清水邦夫が初めて脚本を書いて直しているとき、同じホテルに泊まって寝ていたんですが、清水は「できないっ、できないっ。ダメだ、ダメだっ」て言いながら、ウウ~ッって部屋の中をグルグル走っている。僕はそこで起きられなくて、寝たふりをしていたんですが、そのとき、ああ、自分は文字に手出しをしちゃいけないと思いました。」(「演劇界の両雄、初顔合わせ 「リア王」よりも「怒れるジジイ」でいたい 井上ひさしラ蜷川幸雄」、http://hon.bunshun.jp/articles/-/4861、初出『オール讀物』2006年1月号)

※140-「蜷川は演出するにあたり、戯曲の言葉をカットしたり、編集を加えないというポリシーを持つ。(中略)設定は変えても台詞はいっさい変更しない──これが彼にとっての「演出」だとすれば、彼はアングラ以前、すなわち「新劇最後の演出家」だったことになる。」(西堂行人「蜷川幸雄の演劇の解体、脱神話化、そして来たるべき演劇」、『悲劇喜劇2016年9月号』、早川書房)

※141-「アングラ演劇は近代をまたいだ新劇運動に芽生えた最後の波で、その自己破壊のエネルギーによって新劇そのものが滅んだと私は思っている。その分水嶺に生きた蜷川幸雄はまさに新劇運動の最後のランナーだったといえるかもしれない。新劇は知的階層には受け容れられたが、西洋演劇をついに大衆に根づかせることができなかった。蜷川幸雄のシェイクスピアは日本的な意匠の力、スターの輝きを取り入れることで、新劇の宿題を成しとげたといえる。(中略) 自己の中にある新劇的なものを信じこむことは、だができなかった。時代が宿命づけた新劇的な自己への懐疑、それとの闘いがあのひりひりした演技を生んだのだろう。 逆説を生きた蜷川幸雄は最後の『ハムレット』で、演劇史的にも重要な自己否定を打ちだした。主役の藤原竜也を激しいダメだしで責めたが、目指したのは言葉、言葉、言葉の演劇であった。稽古場で滝沢修まで例にひき、セリフの内容をしっかり言うことを求めた。「正統な思想も芸術もなくなり、世の中が表層的な言葉で満たされてしまうと、かつてオレがタツヤに言わせていたような衝動的なセリフじゃもうダメなんだ。セリフの内容、感情をしっかり作れ。一周回ってオレは今そのことに気がついたんだ」 新劇から出発して新劇に帰ったが、そのとき新劇はなかった。長い旅を終え、新しい演劇が始まるはずだった。私は最後の最後でそのことに気づいた。」(内田洋一「逆説を生きた自己処断の人」、『悲劇喜劇2016年9月号』(早川書房)

※142-「なぜ、新劇の「劇場」に、浅草の大道で耳に出来るあの活々したコトバがないかといえば(ということは私にいわせれば「演劇」がない、ということでもあるが)、西洋の演劇を手本として出発した築地以来の日本の新劇が、西洋の観念を輸入するついでに、それを支えるコトバまで取りこむこができると過信しているせいであろう。観念を持込むことが出来ても、コトバまで取り込める道理はない。ごく少数の語学堪能者を除いて、だれにとってもコトバとは母国語のことなのだ。とすれば、生硬な翻訳臭を絶えず放ちつつ横行する「新劇コトバ」でものを考えている間は真の解決がないのは当然で、駄洒落や地口や語呂合せの可能性に富むわれわれの母国語を十分に駆使し、そういったコトバ遊びを通して、われわれの問題を考え、つきつめて行くよりほかに、私の方法はない。」(「浅草のコトバと劇場のコトバ」、『パロディ志願』(中公文庫、1982)収録、初出1971年)


※143-「コトバを喋る専門家たちといってよい新劇俳優の道具の使い方の拙さはどうであろうか。(中略)コトバの専門家としての訓練の足りなさはブレヒトの芝居などをふると覿面に暴露される。ブレヒト劇には歌が多いが、いまだに一度も、歌詞を明瞭に喋りながら歌う役者に、お目にかかったことはない。新劇の大衆化という結構なお題目を掲げ、歌の多い芝居に取り組んだ新劇の劇団が軒並み惨敗を喫したのは、歌詞そのものの拙さ、芸のなさも相当なものだが、まず、 なによりも歌詞を観客に伝える訓練が全く出来ていなかったことに主な原因のひとつがあったのではないかと、私は睨んでいる。」(「アテゴト師たちのおもしろい劇場」、『パロディ志願』(中公文庫、1982)収録、初出1970年)
※144-「ぼくは内心では、新劇がダサイだなんて冗談じゃないと思っている。民主主義がいまだにきちんと成立したことがないのに、「戦後民主主義は破産した」と利口そうに言い触らす早トチリ屋さんが多いが、それと構図は同じ、新劇が大きな可能性を秘めながらまだ成立の途上にあるのに、その可能性を少しも点検しようとせずに、「新劇リアリズムはもうダメだ、だいたいダサクてかなわない」と言い立てる新しがり屋さんが大勢いるのである。ぼくの戯曲もそのダサイ新劇のうちの一つと見られ、演劇青年たちに敬遠されている」(「決定版までの二十年──『十一ぴきのネコ』」、井上ひさし『演劇ノート』(白水社、1997年)収録、初出1990年)

※145-「おそらく井上ひさしほど新劇嫌いを公言しつつも、自らの演劇的スタンスとして新劇に拘った劇作家もいないだろう。劇作家を志しながらも一端は放送の仕事に携わり、時を得て再び再デビューを果たすことになった井上にとって、先ず必要性を感じたのは旧態依然とした演劇形式の刷新であり、これは極めて知的で新劇的な問題だった。(中略)「新劇なんて、“理解しよう”という観客と、“理解してもらいたい”という舞台との、なれあいの上に成立っている演劇」だという井上の批判には、「なれあい」を前提としない者、「なれあい」を前提と出来なかった者を排除する閉ざされた関係性への怒りが秘められている。」(中野正昭「日本人のへそ─放送作家から劇作家へ」、日本近代演劇史研究会『井上ひさしの演劇』(翰林書房、2012年)収録)

※146-「(井上さんは)自分は日本の演劇界の傍流から出発したという想いが強かったようで、いわゆる「新劇」というものに対する愛憎相半ばする感覚は、他人には理解できない繊細なものがあった。 ちょうど、この対談の連載が行われていた時期は、井上さんが、新国立劇場に立て続けに作品を書き下ろし、名実共に「国民作家」(小説家としてではなく劇作家として)の地位を確立していった時期でもあった。「正統」と呼ばれるものへの距離感と、自分自身がその「正統」の中に入っていく違和感がない交ぜになっていた時期であったかもしれない。そのような、晩年への変化の時代に、六年間も対談を続けられたことは、まことに幸せであった。」(平田オリザ「井上さんの思い出」、井上ひさし・平田オリザ『話し言葉の日本語』(新潮文庫、2014年)文庫版あとがき(2013年11月)

※147-「井上さんからぼくに言った印象的な言葉で「蜷川さんがさ、いちばん新劇的なんですよね」っていうのがある。台本は直さないし、ト書き通りにやるからね。(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」、『悲劇喜劇』2013年1月号)

※148-「戦時中から戦後にかけてのお上のやり方、大人のやり方に不信感を抱いた井上ひさしは、歴史を教訓にして自分を生きることの必要性、中央政府に対案や代案を出す必要性をたえず感じている。 築地小劇場以来、欧米の演劇を糧として育ってきた演劇、新劇全体の持っている「志」が、新劇の代表とは位置付けにくい井上ひさしによって体現されているのは皮肉なことである。だが、新劇の規定の仕方によっては、大笹吉雄が説くように、「井上ひさしはもっとも正統的な新劇の継承者の一人」と見ることも可能であろう(大笹吉雄『同時代演劇と劇作家たち』)。 とまれ、ここに取り上げた二作を通じて、井上ひさしが問うたことは、日本および日本人の在り方を異化してみせるということであった。そしてわたしが思うには、その誕生以来、新劇のもっとも大きな課題がこの問題だったとするならば、リアリズムに拠らないそのスタイルにもかかわらず、井上ひさしはもっとも正統的な新劇の継承者の一人であろう。新劇とは、おそらくほかの何であるより、演劇的な一つの精神志向である。 大笹吉雄が「ここに取り上げた二作」とは、『しみじみ日本乃木大将』(ママ)(一九七九)と『小林一茶』(一九七九)である。新劇の「志」を革新性、旧劇に対する自己主張とするならば、日本の社会や時代、あるいは日本人の思考や有り様に対して問いかけ、異なった在りようを模索し、日本的な在りようを異邦人の目で眺め、ときに異議申し立てをし、対案を出している井上ひさしを「もっとも正統的な新劇の継承者の一人」とすることは、たしかに当に得ている。」(秋葉裕一「ベルトルト・ブレヒトと井上ひさし─「あとから生まれてくる人々へ」の「思い残し切符」」(谷川道子・秋葉裕一『演劇インタラクティヴ 日本ラドイツ』、早稲田大学出版部、2010年)
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