(1)-1で書いたような理由で今回『ムサシ』のレビューを書くことにしたのですが、正直言うと、蜷川さんの訃報を知るまでこの作品を取り上げることにはためらいがありました。
前回の作品レビューが2009年の舞台『蜉蝣峠』なので順番から行けば2010年の『ムサシ』が妥当だし、勝地くんにとっても非常に思い出深い作品なのは重々承知しているんですが、にもかかわらず気が進まなかったのは、世間的には高い評価を得たこの戯曲の良さがあまり理解できなかったがゆえでした。
具体的には、終盤武蔵と小次郎を除く登場人物がみな実は幽霊だったと発覚、「生きよォ~」「死ぬなァ~」「殺すなァ~」「殺されんなァ~」「もったいないのにィ~」「たいせつなのにィ~」と口々に訴える場面で、あまりにもどストレートな台詞が悪く言えば芸がない、陳腐なものに思えてしまったのです。
ベテラン揃いの役者陣の演技はさすがでしたし、五人六脚やタンゴなどの笑いどころも楽しかったのですが、一番肝心の物語のどんでん返し、作品のテーマの部分で気持ちが引いてしまったために、長らく私の中でこの戯曲の評価は高くないままでした。〈いずれ海外に持っていくのを前提に書かれた(※)戯曲だから、外国人にもわかりやすいよう単純にしたんだろうか?〉などと勝手な想像をしていたんですが、今回感想を書くと決めてから舞台の映像を見返し戯曲を読み返しすると、さらに引っかかる点が次々浮かび上がってきました。
まず劇評などでこの作品はもっぱら9・11以降の世界情勢と重ね合わされ「報復の連鎖を断ち切る」ことがテーマと見なされている(初演当時の井上ひさしさんのインタビュー記事のタイトルも「『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」である)が、武蔵も小次郎も係累がない。そして彼ら自身が言うように死を覚悟で戦うことを当人同士が了解している。
彼らが戦ってどちらかが死んだところで当人たちは納得ずく、仇討ちに来るような身内もいない(武蔵にはお通さんという恋人が一応はいるが、ロンドン・NYバージョンでは彼女の存在に言及する箇所は削られた)のなら、彼らについて「報復の連鎖」という図式はもともと当てはまらないのではないか。
実際劇中で「憎しみの連鎖を断ち切って」見せるのは主役の彼らではなく脇役の筆屋乙女である。そのために作品第一のテーマ(であるはず)が脇筋のようになってしまった。たとえば巌流島で死んだ小次郎の恋人や子供が仇討ちに来たという設定だったなら、自然に「報復の連鎖を断ち切る」テーマを主筋にできただろうに。
そもそも武蔵と小次郎は憎しみあっているのだろうか。決闘の直後、小次郎にまだ息があるのに気づいて立ち会いの藩医に手当てを乞うた武蔵は明らかに小次郎の生存を願っていた。その理由を〈再び小次郎と命を尽くして戦いたかったからかもしれない〉と後に自ら分析しているが、無二の好敵手ともう一度試合をしたいと願うのはアスリート・勝負師の性のようなもので、憎しみとはまた別の感情だろう。
巌流島で遅れを取った報復のために六年間必死にリハビリと修業に励み、満を持して武蔵に挑んだ小次郎にしてからが「宮本憎し、武蔵に勝ちたし」と武蔵への憎しみを口にはしてるものの、実際のところ憎しみというより試合の敗者が勝者に抱く嫉妬と悔しさ、次こそは自分が勝つという負けじ魂の表れと見た方がいいだろう。真の意味で武蔵を憎んでいるのなら、「自分はまたとない相手とふたたび刃を交えることができる!」「小次郎はつくづくしあわせ者です」なんて台詞は出てくるはずもない。小次郎も武蔵もよき敵ともう一度戦いたい、戦って勝ちたいと望んでいるだけなのだ。
問題は真剣での勝負だけに勝つことが相手を殺すことに直結してしまうという点。亡霊たちが二人の勝負を止めようとするのもまさにこの点にある。「報復の連鎖を断ち切る」ためではなく命が「もったいない」「たいせつ」であるがゆえに。
この点については追って詳しく書いていこうと思うが、見返し読み返しするなかで最初は単純に思えたり矛盾してると感じた部分にこそ深い意味が籠められているらしいのが次第に見えてきた。上述の幽霊たちのストレートすぎる訴えや『孝行狸』のオチのあんまりさ(オチそのものがあんまりなのではなく、あのタイミングでオチが明かされることがあんまりなのである)にも、あえてそのように描いた必然性があるのではないか。
小次郎の「皇位継承順位第十八位」騒動ほか繰り返し天皇家とその権威に言及する意味も、井上さんが天皇制批判論者と見なされていることを踏まえて考えるべきだろう。
それらを確認するべく井上さんの著作を戯曲を中心に読みまくってみたが、とにかく戯曲のみならず小説・評論・エッセイに至るまで膨大な量の作品を遺した方であり、彼について書かれた論文・評論なども相当な数に上る。準備期間がさほどなかったこともあり、結局ごく一部の作品を読んだだけに終わってしまった。結果さして深く掘り下げることができず、問題提起しただけで納得できる答えにまだ到達できていない部分も大いにあるのだが、お目汚しながらお付き合い頂ければ有難いです。
ちなみに2009年の初演も2013年以降に再々演、再々々演されたものも未見なので、他バージョンとの比較はできませんでした。以下レビューでの引用文の表記(漢字仮名使い)は戯曲(底本『井上ひさし全芝居 その七』)に拠っていますが、戯曲と舞台で変わっている台詞については舞台で用いられた台詞を耳で聞いたままに書き取っています。
※『ロンドン・NYバージョン』パンフレットでの蜷川さんと藤原くんのコメント(「井上さんは日本の古典芸能の枠組みの中に現代的テーマを盛り込み、世界に発信しようとしたんですね」「『ムサシ』の海外公演は(中略)井上先生が強く望んでいたこと」)が根拠。この作品がもともとブロードウェイで吉川英治『宮本武蔵』を元にしたミュージカルを作る企画があったのに端を発してることは最近知りました。
前回の作品レビューが2009年の舞台『蜉蝣峠』なので順番から行けば2010年の『ムサシ』が妥当だし、勝地くんにとっても非常に思い出深い作品なのは重々承知しているんですが、にもかかわらず気が進まなかったのは、世間的には高い評価を得たこの戯曲の良さがあまり理解できなかったがゆえでした。
具体的には、終盤武蔵と小次郎を除く登場人物がみな実は幽霊だったと発覚、「生きよォ~」「死ぬなァ~」「殺すなァ~」「殺されんなァ~」「もったいないのにィ~」「たいせつなのにィ~」と口々に訴える場面で、あまりにもどストレートな台詞が悪く言えば芸がない、陳腐なものに思えてしまったのです。
ベテラン揃いの役者陣の演技はさすがでしたし、五人六脚やタンゴなどの笑いどころも楽しかったのですが、一番肝心の物語のどんでん返し、作品のテーマの部分で気持ちが引いてしまったために、長らく私の中でこの戯曲の評価は高くないままでした。〈いずれ海外に持っていくのを前提に書かれた(※)戯曲だから、外国人にもわかりやすいよう単純にしたんだろうか?〉などと勝手な想像をしていたんですが、今回感想を書くと決めてから舞台の映像を見返し戯曲を読み返しすると、さらに引っかかる点が次々浮かび上がってきました。
まず劇評などでこの作品はもっぱら9・11以降の世界情勢と重ね合わされ「報復の連鎖を断ち切る」ことがテーマと見なされている(初演当時の井上ひさしさんのインタビュー記事のタイトルも「『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」である)が、武蔵も小次郎も係累がない。そして彼ら自身が言うように死を覚悟で戦うことを当人同士が了解している。
彼らが戦ってどちらかが死んだところで当人たちは納得ずく、仇討ちに来るような身内もいない(武蔵にはお通さんという恋人が一応はいるが、ロンドン・NYバージョンでは彼女の存在に言及する箇所は削られた)のなら、彼らについて「報復の連鎖」という図式はもともと当てはまらないのではないか。
実際劇中で「憎しみの連鎖を断ち切って」見せるのは主役の彼らではなく脇役の筆屋乙女である。そのために作品第一のテーマ(であるはず)が脇筋のようになってしまった。たとえば巌流島で死んだ小次郎の恋人や子供が仇討ちに来たという設定だったなら、自然に「報復の連鎖を断ち切る」テーマを主筋にできただろうに。
そもそも武蔵と小次郎は憎しみあっているのだろうか。決闘の直後、小次郎にまだ息があるのに気づいて立ち会いの藩医に手当てを乞うた武蔵は明らかに小次郎の生存を願っていた。その理由を〈再び小次郎と命を尽くして戦いたかったからかもしれない〉と後に自ら分析しているが、無二の好敵手ともう一度試合をしたいと願うのはアスリート・勝負師の性のようなもので、憎しみとはまた別の感情だろう。
巌流島で遅れを取った報復のために六年間必死にリハビリと修業に励み、満を持して武蔵に挑んだ小次郎にしてからが「宮本憎し、武蔵に勝ちたし」と武蔵への憎しみを口にはしてるものの、実際のところ憎しみというより試合の敗者が勝者に抱く嫉妬と悔しさ、次こそは自分が勝つという負けじ魂の表れと見た方がいいだろう。真の意味で武蔵を憎んでいるのなら、「自分はまたとない相手とふたたび刃を交えることができる!」「小次郎はつくづくしあわせ者です」なんて台詞は出てくるはずもない。小次郎も武蔵もよき敵ともう一度戦いたい、戦って勝ちたいと望んでいるだけなのだ。
問題は真剣での勝負だけに勝つことが相手を殺すことに直結してしまうという点。亡霊たちが二人の勝負を止めようとするのもまさにこの点にある。「報復の連鎖を断ち切る」ためではなく命が「もったいない」「たいせつ」であるがゆえに。
この点については追って詳しく書いていこうと思うが、見返し読み返しするなかで最初は単純に思えたり矛盾してると感じた部分にこそ深い意味が籠められているらしいのが次第に見えてきた。上述の幽霊たちのストレートすぎる訴えや『孝行狸』のオチのあんまりさ(オチそのものがあんまりなのではなく、あのタイミングでオチが明かされることがあんまりなのである)にも、あえてそのように描いた必然性があるのではないか。
小次郎の「皇位継承順位第十八位」騒動ほか繰り返し天皇家とその権威に言及する意味も、井上さんが天皇制批判論者と見なされていることを踏まえて考えるべきだろう。
それらを確認するべく井上さんの著作を戯曲を中心に読みまくってみたが、とにかく戯曲のみならず小説・評論・エッセイに至るまで膨大な量の作品を遺した方であり、彼について書かれた論文・評論なども相当な数に上る。準備期間がさほどなかったこともあり、結局ごく一部の作品を読んだだけに終わってしまった。結果さして深く掘り下げることができず、問題提起しただけで納得できる答えにまだ到達できていない部分も大いにあるのだが、お目汚しながらお付き合い頂ければ有難いです。
ちなみに2009年の初演も2013年以降に再々演、再々々演されたものも未見なので、他バージョンとの比較はできませんでした。以下レビューでの引用文の表記(漢字仮名使い)は戯曲(底本『井上ひさし全芝居 その七』)に拠っていますが、戯曲と舞台で変わっている台詞については舞台で用いられた台詞を耳で聞いたままに書き取っています。
※『ロンドン・NYバージョン』パンフレットでの蜷川さんと藤原くんのコメント(「井上さんは日本の古典芸能の枠組みの中に現代的テーマを盛り込み、世界に発信しようとしたんですね」「『ムサシ』の海外公演は(中略)井上先生が強く望んでいたこと」)が根拠。この作品がもともとブロードウェイで吉川英治『宮本武蔵』を元にしたミュージカルを作る企画があったのに端を発してることは最近知りました。