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about him

俳優・勝地涼くんのこと。

『ムサシ』(2)-2(注・ネタバレしてます)

2016-09-17 20:03:26 | ムサシ
・そこらに武器を仕込んである武蔵を「油断も隙もない」と評する小次郎の目には激しい毒と憎しみがある。さらに五輪塔に隠した刀まで見出す。
さっき武蔵が五輪塔に近づいたのは刀を隠すためだった?でも空手に見えたから刀がなくなってないか(敵に奪われてないか)確認しただけかな。

・小次郎は少ししゃがれた声と低い話し方が魔女のような老婆のような。まるで呪いの言葉を吐いているような声色です。こんな声も出せるんだ!五輪塔から刀を取り出す場面でも小次郎はほとんど武蔵から目をそらさない。わずかの油断もしないという気合いを感じます。

・療治と鍛え直し他で2200日かかったと恨み言を並べる小次郎。その苦しい日々を「宮本憎し、武蔵に勝ちたし」の一念で耐えたという鬼気迫る様子にはたしかに武蔵への怨念めいた感情が覗いている。
ただ小次郎が武蔵を憎いと感じるのは、要は負けた悔しさ、敗戦によって失った名誉や立場を惜しむ気持ちであって((2)-1で書いたように情けをかけられた屈辱感もあるかもしれない)、家族や故郷を奪われた恨みなどとは質が違う。そもそもどちらかが死ぬのはお互い納得ずくで試合ったわけだから恨みを言い立てるのは筋違いというもの。
目つきと態度こそ剣呑ですが、負けた悔しさをバネに修業しなおした上で再戦を挑みにきた、復讐というより“リベンジ”(本来の意味でなく一種和製英語として軽く使われてる程度の意味合いでの)というのが実態に則しているように思えます。

・小次郎は構えから宗矩の正体を見破る。「できるな!」とさらに別の構えをとってそれも言い当てられる宗矩。構えまで知ってて似せられるとは、この幽霊こそ「なにものだ」って感じである。

・沢庵から小次郎の刀を預かるよう言われ、おそるおそる彼に近づいた平心はかえって武蔵への果たし状を託されあっさり引き下がる。
まいたちが広げたその果たし状が絵巻物のように長い。さぞめんめんと恨み言が書きつらねてあるんだろう・・・(後で沢庵らが二人の間に割って入りつつ読み上げていたが決闘のときの様子などほんとにくだくだ書いてあった)。
思えばこのシーンの割台詞が皆で心をあわせて一つの行為を行なう最初だったような。

・切り合いはやめてくれと土下座して頼むまいと乙女。まいが「ご両親も悲しむ」と小次郎を説得しようとするのが、後に小次郎が両親を知らない→まいが母親のふりをする伏線なわけですね。

・舟島で小次郎に止めを刺さなかったのは生死の境での命のたぎるような想いをもう一度味わいたかったからかもしれないと言う武蔵。
つまりは彼も小次郎ともう一度命懸けの勝負をしたいと望んでいるということ。この言葉を決闘の了承と捉えて「受けるのだな」と笑う小次郎が実に不敵に楽しそうです。

・決闘の約束を取り付けると一転して刀を自分から預けようとする小次郎。自分も参籠禅に参加することで武蔵が約束を破って逃げないよう見張るつもりだと話す。
しかし「一挙手一投足」を見張ろうとはストーカーじみている。そもそも宝蓮寺に来るまでにも武蔵の立ち回りそうなところをあれこれ「犬嗅ぎ」していたというあたりがもうすでにストーカー。憎しみとは一種愛に似てるものだという言葉を思い起こさせます。
まあ武蔵の方も小次郎の一挙手一投足を見張ると言ってますし。何か二人ともある意味楽しげです。

・武蔵が仏の子なら小次郎も仏の子、差別するべきではないと小次郎の申し出を受け入れる沢庵。
ここで雷が鳴る。小次郎という招かれざる異分子が参籠禅のメンバーに加わった事による不穏な緊張感を煽ります。

・場面転換。夜の寺。女子を泊めるわけにいかないからとまいと乙女は返される。寝てる間に二人が斬り合わないか案じるまいに、沢庵は宗矩さまが妙案を出して下さったと話す。この時点で、この妙案があんなものだとは思いもしなかった(笑)。
しかし幽霊の身内しかいないのに「宗矩さま」呼びで芝居を続けてるのはなんなんだろ。その後の幽霊たちのやりとりも全部そんな感じです。

・なぜか小次郎を見てから舞をしていた頃が思い出されて、と舞狂言の「蛸」を舞うまい。これはもちろん、後にまいが小次郎の母親だと名乗りをあげる場面に向けての仕込みでしょう。
てっきり『孝行狸』同様、黄表紙が元ネタだったりするのかと思いましたが、調べてみたら本当にこういう舞狂言が存在していて驚いた(無知)。若干現代風に言葉を変えてあったりしますが、筋はほぼ一緒(※7)
井上さんによると〈今の日本人は能に詳しくないので、この芝居の構造自体も能仕立てになっているのを予告するため、ここで『蛸』をやってみせた〉のだそうです(※8)
本来悲惨なはずだが主体が蛸だけに笑えてしまう内容の狂言を大真面目に歌い舞う白石さんと杏ちゃん二人の演技が冴える場面です。

・まいと乙女が退場したところで小次郎と平心が二人三脚で登場。足が自由にならなければ不意打ちができず、そのうち二人が少しはまどろむのではと宗矩が言っていたと平心が説明する。
ここで平心が小次郎の守り袋にいれた手鏡に言及しています(「きちんと畳んだ小袖」の上に守り袋が置いてあったというあたりに、小次郎のきっちりした人柄が表れている)。手鏡の話をするのが他ならぬ平心だというのも後の展開の仕込みですね。

・二つに割った手鏡は「想い女からの贈りものでしょうか」という平心の言葉に小次郎は「この六年の間、色恋は断っている」と答える。
戯曲では(未見ですがおそらく初演でも)この応答の間に「そういえば小次郎どのは、ばかにご様子がおよろしい。想い女の五、六人、いない方がおかしいな」という台詞があるのにそれが削られている。・・・なんででしょうね(笑)。再演では服が薄汚れているせい、ということにしておきます。

・三つで母と死に別れて以来の人生を語る小次郎。師匠に打ち込む場面などわざわざ実演してみせるのが彼の自己顕示欲を示しているように思えます。そのまま燕返しを認められた自慢話に発展していくあたりも。

・話が次第に出世の道をはばんだ武蔵への恨み言に移行。小次郎の大きな身振りにたびたび後ろに倒される平心。
見事な倒れっぷりで笑いを取りつつ怪我もしないようにしなくてはならない。何気に技術の求められる場面です。

・そこに「はいっはいっ」と息のあった掛け声とともに三人四脚で現れる武蔵と宗矩・沢庵。運動会の二人三脚かむかで競走のごとくなのが笑えます。なぜ武蔵の方は二人も繋いでるのだろう。闖入者小次郎の方があきらかに危険人物だろうに。

・さらに「柳生新陰流」の極意だと言って自分と小次郎の脚までつないで五人六脚にしてしまう。この状態でちゃんと動きなおかつ演技している皆さんには感服です。
2009年の初演は先に書いた通り未見なのですが、「台本が完全に出来上がったのは初日の二日前で、稽古も遅れていたが、予定通り開幕し、作品も舞台も高い評価を集めた」(※9)そう。相当練習が必要そうな五人六脚シーンも、きっと初回から見事に演じきったんでしょうねえ。

・宗矩はこうして脚をつなぐことで「友情の芽のようなものが生まれてくる」と言うがそのそばから宗矩を挟んで武蔵と小次郎が睨み合う。
その後の脚のからみあいも含め滑稽な場面だが、実際ここで友情の芽が生まれたからこそ後の一種の共闘的展開が生まれたのかも。ならば多少の効果はあったと言えるかもしれません。

・中心の宗矩が寝ころんだことで無理矢理全員就寝の格好になるが、少しすると小次郎がむっくと起き上がって舟島での無念を一人語り始める。
武蔵は最初は反応しなかったが、「わかるか武蔵!」と言われると「声が高いぞ。 方々の夢路をさまたげるな」と即座に起き上がる。
やはり彼とても自分を狙う敵がすぐそばにいる状況でそうそう眠れるものではなく、小次郎の愚痴を黙って聞いたのだとわかります。

・兵法者として自分もいつ死んでもいい覚悟はしてきた、しかし武蔵があまりに現れなかったので、「となれば、この身は「佐々木小次郎強し」の声に迎えられながら、御城下に凱旋すること」も期待してしまったという小次郎。
「おめでたいやつだな」と武蔵は呆れたように言葉をさえぎる。決闘を受けたさいの台詞にあったように強い敵と戦い命をやりとりすることに喜びを覚える純粋剣客の武蔵に比べて、名聞に弱い小次郎の性格が浮かびあがってきます。

・だがあの舟島では、「戦わずして勝てるかもしれないという奇妙な期待が割り込んできたのだ」。勝つか負けるかの他に不戦勝の可能性が頭をぐるぐる回っていたゆえにまともな試合ができる精神状態ではなかった、そうさせた武蔵は「狡い策士だ」と小次郎はいう。
でも武蔵としては少し後で釈明するような理由で遅れただけで、一流の剣客である小次郎がこの期に及んで不戦勝を望んでしまうなんて考えてもみなかったんじゃあ。
小次郎の心弱さがわかる場面で、小次郎が武蔵を恨むのもこれまで気づかずにこられた己の未熟さを突きつけられた気がするからなのかもしれない。

・二人の舌戦の中、寝ぼけて能を舞い始める宗矩。しかもその内容が「かちかち山の狸」とかなのが笑えます。
これ以降宗矩の新作能『孝行狸』がストーリーの中で繰り返し断片的に登場しますが、謡われる内容がその場の状況と巧みに対応させてあります(※10)

・宗矩に引きずられるように武蔵と小次郎が立ち上がり、なおも言い争いながら地面に降りるのに対し、沢庵たちまでみな引きずられて寝ぼけながら階段を降りるあたりの動きが見事です。
武蔵いわく決闘に遅れた理由は潮目を読んでいただけだと。まあたぶん小次郎が勘繰ってるような悪巧みをめぐらしたわけではなくて、本当に戦うこと勝つことしか頭になかったんでしょうね。

・平心に引きずられて180度開脚に近い格好で倒れる小次郎に対し、ともかくも武蔵はきちんと立っている。やはり武蔵の方が兵法者として上ということか。
下手したら股関節を脱臼しかねない姿勢を巧みに決めているのに、勝地くんの身体能力の高さを感じました。

・武蔵は小次郎の刀や約束や綺麗な勝ち方などへのこだわりが凝り固まって一つの型になっていると忠告する。武蔵自身の究めたがり同様に物事を突き詰めることの負の部分を示したものでしょう(※11)
勝地くんは『アナザースカイ』出演時に、子役からやってきて以前は台詞をはっきり言うとかカチカチッとしたことが求められていたのが20歳くらいから求められるものが変わってきて壁を感じるようになった、大学を卒業して芸能界に入ってきたような人たちは自分たちにない自由な発想があって戸惑っていた、それが『ムサシ』の時に蜷川さんや藤原くんからハッパをかけられ海外公演でも喝采を浴びたことで壁を乗り越えられたむね語っていましたが、〈型に嵌まっているゆえの弱み〉を指摘された小次郎に自分を重ねたりしたかなあ、とふと思いました。

・型がわかれば崩すのはたやすい、言葉も武器のうち、小次郎は剣は天才だが言葉については三歳の童子も同然、おのれとだまれしかないではないかと小次郎を言葉責めにする武蔵。この一連の舌戦自体が子供の喧嘩みたいで一種微笑ましい。

・ついに両固めの紐を解いて列を離れる小次郎と武蔵。しかしそれより前に寝ぼけて?『孝行狸』を舞い狂う宗矩に引きずられて五人六脚が崩れてしまっている。自分が提案した和解策を自らぶち壊してどうする。
そして試合の時まで「おぬしには洟もひっかけないようにしよう」「佐々木小次郎を無視します」という武蔵の言葉にやはり「おのれ」「だまれ」で応じてしまう小次郎。やはり人格の練れ方において武蔵に大分遅れをとってるような。

・武蔵に敗れたためにご城下の笑い物になって悔し涙を流したと語る小次郎。敗北それ自体より名誉を傷つけられたことへの恨みが深いようでもある。
黙って刀で勝負をつけようとせず言葉で恨みつらみをぶつけたがるところも彼の子供っぽさです。

・とつぜんまいが走り込んできて浅川甚兵衛がどうのと語りだす。浅川って誰?今までのシーンで重要情報を聞き逃したのか?と思ったら沢庵たちもぽかんとしてたので、単にまいが暴走してたんだとわかってほっとした一幕。六平さんの顔芸が光ってます。



※7-山脇和泉『蛸』(「国立国会図書館デジタルコレクション、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926644/57)

※8-「残念ながら、今の日本人は、僕を含めて、能といってもすぐにわかる人はそれほど多くありません。そこで一幕の前半に、実際の能、『蛸』という小さなものをやってみせて、これが芝居の構造ですよという予告編をはめ込んだんです。『蛸』は、蛸が自分の最期のありさまをしゃべって、成仏していくお話です。それと同じようにこの『ムサシ』という劇も、成仏できないで迷っている誰かの言うことを聞いてあげたら、その誰かは成仏できますよ、そういう芝居なのですよと、予告しました。」(「インタビュー 井上ひさし『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」(『すばる』2009年6月号))

※9-扇田昭彦「解説」(『井上ひさし全芝居 その七』、新潮社、2010年)

※10-坂本麻実子『井上ひさしと能の関係 -『ムサシ』の演能から読み解く-』(https://toyama.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=938&item_no=1&page_id=32&block_id=36)。なぜ井上さんが『ムサシ』を書くにあたってお手の物のミュージカル仕立てでなく能の形式を用いたのか、夢幻能の様式から外れて亡霊たちが化身体で舞う(亡霊の正体を明かしてからは逆に舞わなくなる)のはなぜか、といった考察が鋭いが、『孝行狸』を「もちろん井上の創作である」としているのが惜しい。確かに原作のストーリーを謡曲風に翻案したのは井上さんだと思いますが。

※11-「巌流島における武蔵の勝利は、「型」に酔う天才を「型」自体から崩すところにもたらされた。武蔵の言葉は、「型」に凝り固まるのではなく、事態にたいし臨機応変にふるまうのをうながす。しかし話の展開とともに、そんな武蔵もまた、「戦好き」な武芸者の「型」に深くとらわれていることが暴かれ、「恨みの鎖」外しの対象になる・・・。 「型を知り型を崩す」というサブテーマが、戯曲のメインテーマである「戦好き」否定と「恨みの鎖」外しを引き出す、じつに巧みな構成といわねばならない。」(高橋敏夫「「日本人」を永く深くとらえる薄暗い領域へ─「ムサシ」、報復の鎖を断つ反暴力の物語」(『国文学 解釈と鑑賞957 特集 井上ひさしと世界』、至文堂、2011年2月号掲載)。


9/17追記-「(2)-1」に少し書き足しました。詳しくは「(2)-1」末尾をご参照ください。

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