2008年7月期放映。人気脚本家の大石静さん原作の小説を、大石さん自身が脚本化。それなのにというかだからこそなのか、放映開始前に読んだ小説とドラマ版では大胆な改変が成されていて、その違いっぷりに驚きました。
先に取り上げた『キャットストリート』も、主要キャラの一人を存在自体消してしまって代わりにオリジナルキャラを投入するという大きな変更を行っていて、それに比べれば『四つの嘘』はまだしも主要キャラ4人の顔ぶれは同じだし第一話の展開は比較的原作通りなんですが、その後の展開が後へいくほどオリジナル度を高めていく。原作を知っている人にもまるで先の展開が読めないという、なかなか特異な作品になっていました。
その改変具合の傾向として、原作に比べて全体的に作品の空気感が明るくなっていることが挙げられるでしょう。原作に比してコミカルな場面が増え、それは主としてメインヒロインの原詩文とサブヒロインの一人・西尾満希子のキャラクターの変化に負う部分が大きいと思います。
少女の頃から男たちをやたらと惹きつけ、41歳の現在もなお28歳のボクサーと恋愛関係―それも精神性よりもっぱら体の交わり、肉欲によって結ばれた関係―にある詩文は、原作ではその刹那的な生き方ゆえの孤独や年を取るにつれて生まれた焦り、友人への嫉妬などの暗い部分がしっかり描かれ、逞しさを感じさせる一方で後半では自殺を図ったりするような意外な脆さも露呈しているのですが、ドラマの詩文ははるかに明るい。
家庭の状態は父が痴呆症になったり娘を養女に出さざるを得なくなったりと原作以上に深刻化しているのですが、時に孤独感や経済的困窮に頭を抱え重い溜息をついても、少し後のシーンではしれっとした顔で食パンかじったり夜食食べたりしている。第三回で美波のナレーションが「やっぱり死ぬ気はないのね、図々しい女」と評したように、ドラマの詩文はどんな切羽詰った状況であろうと、自ら命を絶とうとするところなど想像もできない(原作の自殺未遂シーンもトラマではすっぱりなくなっていた)。
あまり重苦しい展開はテレビドラマには向かないという配慮もあったのかもしれませんが、ドラマの詩文の明るさと生命力は主として詩文を演じた永作博美さんに由来するもののように思えます。
原作もドラマも詩文は男心を惑わす魔性の女として描かれていますが、泣き顔に格別の魅力がある設定の原作の詩文がどちらかといえば陰性の色香を放っていたのに対し、ドラマの詩文は明らかに笑顔が印象的な女という位置付けになっている。
といっても慈母的微笑や無邪気な天使の笑顔ではなく、もっぱら小悪魔的な悪戯っぽい笑顔。それもにっこり系から目も口も大きく開いた肉食系の笑顔まで、視線や口元の微妙な動きも含めてバリエーションが豊富。
笑顔に劣らず頻繁に見せるわずかに憂いを含んだ物思わしげな顔が、上述のようなしれっとした顔やいたずらっぽい笑顔にすっと切りかわったかと思えばまたふっと真顔に戻ったりして、その表情変化の多彩さに思わず引き込まれないではいられませんでした。この永作さんの“陽の魔性”が、ストーリーの方向性をも原作とは別の方向に動かしてゆく牽引力になったんじゃないでしょうか。
また彼女が狙った男を落とすについても、原作ではいろいろと計算を用いているのが地の文で説明されていますが、ドラマでは映像で見せるだけなので(映像作品で地の文的役割をするのはナレーションでしょうが、死んだ美波の語りという形式を取ったナレーションは美波の主観を語りはしても詩文の内面に踏み込めるわけじゃない)手練手管が見えない分陰湿な感じがしないのも大きかったと思います。
一方、満希子のキャラの変化は「永作詩文」に引っ張られるように作品全体のトーンが明るいものに変わっていくうえで、その明るさをより明るく、コミカルに演出するうえで要求されたものだったのかなと想像しています。
原作にあっては41歳時点の四人の中で最も地味で暗い雰囲気(詩文のような色気にも通じる翳りではなく陰陰滅滅とした感じ)だった満希子が、欲求不満の専業主婦なのも家族に無視された存在なのも社会経験がないゆえの精神的鈍さも原作と同じでありながら、欲求不満ゆえにドラマティックな恋に憧れる様子や精神的鈍さの部分を戯画的なまでに強調して描かれることで、一気にコメディ的存在になってしまった。
その厚かましさ、反省のなさ、良識を振りかざしながらひたすら自己保身に汲々としてる姿など、もう言動のいちいちにツッコミを入れたくなるほどでした。きっと満希子役の寺島しのぶさんも、台本を見て「こんな台詞言うのー?」と思うことたびたびだったんじゃないでしょうか。
しかし視聴者をいらだたせるほどのその身勝手さゆえに、第一回から自分の名推理(実質ゴシップ的興味)を披瀝したさにネリの貴重な時間に図々しく割り込んできた満希子は、後半では旦那の浮気騒動や自身の駆け落ち騒ぎで詩文やネリ(とりわけ詩文)をさんざん振り回す形で物語を動かす役まで担ってゆくことに。
そして最終的には自分の浮気については見事に隠しきって旦那の浮気をのみ責める形で優位に立ち、ほころびが出そうな部分は全部詩文に押しつけて平然と元の生活に返ってゆく。そのあまりにもちゃっかりした態度には一周回っていっそ爽快感さえ覚えてしまいました。それは眉を寄せ歯を剥いた愕然顔や自身の妄想にうっとりする顔、拗ねた顔、哀願する顔など一つ一つの表情をコントラストくっきりと見せてくれた、ある意味悪役な満希子をふっきって演じた寺島さんの表現力によるところが大だったんじゃないでしょうか。
もう一人のサブヒロイン・灰谷ネリは大病院の脳外科医というポジションと英児との関係以外は、ストーカー被害や教授選の話などオリジナルエピソードが大半を占めていたキャラクターでした。演じてるのが高島礼子さんというのもあってか、原作よりさらにさばさばした印象でありつつ同時に円熟した色香があって、後輩医師たちに対する姉御肌なところも含め、長年男っ気がない設定に説得力がないほどでした。
だからなのか、英児との関係も一度のことに終わらずより深入りして不安定な恋に執着する、ボクサー復帰の夢を捨てられない英児に行かないでとすがるシーンなど、女っぽさが原作より強められている感触でした。
それも41歳の成熟しきった、むしろ早めの更年期障害に差し掛かってることに焦りを覚えてる状況からすればもっと女の情念を発散させててもおかしくないところを、ただひたむきに少女のような初々しささえ感じさせる演技でネリを健気な女として成立させ、先には説得力がないと感じた男性経験が少ない設定をも(初恋同然だからこうも計算抜きでひたむきなのだなと)納得させてくれました。64年生まれの高島さんは撮影当時、41歳のネリよりさらに年上の43~44歳だったはずで、それであの初々しさを出せるのだから見事なものです。
さてそしてわれらが勝地涼くん演じる安城英児。28歳という年齢設定、野性的・肉食系のボクサー、永作さん演じる年上女性との愛欲に溺れる役という前評判に、またえらくハードルの高い役が来たと思ったものです。というよりなぜこの役柄に勝地くんをキャスティングしようと思ったんだか?
勝地くんは当時まだ21歳(放映中に22歳に)で、外見的にも目力は強くとも全体としては優男の方で、これまでの出演作も愛欲に溺れるどころかせいぜいキス止まりの初々しい純愛路線ばかり(『1980』は例外ですが、あれもベッドシーンそのものは出てこなかった)。
むしろ上のような評判から想像したのは若かりし頃の渡辺裕之さん(勝地くんが主人公の少年時代を演じた『新・愛の嵐』で「旦那様」こと伝衛門を演じた方です)みたいな野性的なマッチョタイプだったんですが、原作を読んだら英児の外見は「ボクサーにしては美しい顔」「目も切れ長」と表現されていて、それならまあ納得できるかなと思ったのでした。
しかし実際ドラマを見てみると「やっぱりちょっと若すぎるかなあ」という印象は否めなかった。単純に年齢が若いということではなく、年上の女二人との過激かつ乱暴な(「暴れろよ、いつもみたいに、キャーキャーわめけよ」という台詞に象徴されるような)ラブシーンを演じるにはいかに美形設定とはいっても男臭さが足りない、勝地くんの持つ透明感がここでは仇になっているような感じをうけたのでした。
しかし作品を見返すうちに、これで英児のキャラは正解なんじゃないかという気が次第にしてきました。ボクサー稼業や乱暴な言動から男臭いイメージの強い役柄とはいえ、詩文やネリより13歳年下という設定は「年下の可愛い彼氏」というニュアンスを含んでいるのだろうし、さらに詩文を演じる永作さんが実年齢より相当お若く見える方なので、本当に28歳前後の役者だとこの「年下」感が出なくなる可能性がある。そう考えれば20歳すぎの俳優をキャスティングするのが自然な流れだったのだろうと。
加えて英児と性的関係を持つもう一人であるネリは男性経験が少ないわけで、いかにも男臭い男だったら生理的に警戒してしまい、自分の方から接近してゆく展開にはなりそうもない。ほぼ初対面から押し倒されるような目にあっているのだし、英児の意識が混濁してたといっても日頃から恋人(詩文)にあんなふうに振る舞ってる男には違いないわけで、それでもなお近付きたい気持ちにさせるような要素――ネリの恐怖心をさほど喚起しないようなどこか初々しい、可愛気がある男であってこそネリと英児の関係が成り立ちうるのだと気付いたのでした。
かくて当初の違和感が消え、“勝地英児”を全面的に受け入れてしまったら、彼が時折(特に詩文がらみで)見せるナイーブな表情の美しさにすっかり吸い込まれてしまいました。
洒落たことは言えない、基本的に拳と身体で語ることしか知らない英児は総じてぶっきらぼうで言葉も乱暴ですが、その眼差しが、切ない表情が英児の胸の内を伝えてくれる。言葉が少ない分を繊細な表情で補う、それはまさに勝地くんの得意とするところであり、勝地くんがキャスティングされた意図もそこにあったのかも。
試合中のケガがもとで現役続行不可を言い渡されるのは原作もドラマも同じですが、原作の英児が悩み苦しみながらも引退を決意しトレーナーとして再出発したのに対し、ドラマの英児は単身未知の国であるパナマに渡ってまで現役続行にこだわった。そんな原作以上の“青臭い”性格を示す展開も、もしかしたら勝地くんの“若さ”がもたらしたものだったりするのかもしれません。
先に取り上げた『キャットストリート』も、主要キャラの一人を存在自体消してしまって代わりにオリジナルキャラを投入するという大きな変更を行っていて、それに比べれば『四つの嘘』はまだしも主要キャラ4人の顔ぶれは同じだし第一話の展開は比較的原作通りなんですが、その後の展開が後へいくほどオリジナル度を高めていく。原作を知っている人にもまるで先の展開が読めないという、なかなか特異な作品になっていました。
その改変具合の傾向として、原作に比べて全体的に作品の空気感が明るくなっていることが挙げられるでしょう。原作に比してコミカルな場面が増え、それは主としてメインヒロインの原詩文とサブヒロインの一人・西尾満希子のキャラクターの変化に負う部分が大きいと思います。
少女の頃から男たちをやたらと惹きつけ、41歳の現在もなお28歳のボクサーと恋愛関係―それも精神性よりもっぱら体の交わり、肉欲によって結ばれた関係―にある詩文は、原作ではその刹那的な生き方ゆえの孤独や年を取るにつれて生まれた焦り、友人への嫉妬などの暗い部分がしっかり描かれ、逞しさを感じさせる一方で後半では自殺を図ったりするような意外な脆さも露呈しているのですが、ドラマの詩文ははるかに明るい。
家庭の状態は父が痴呆症になったり娘を養女に出さざるを得なくなったりと原作以上に深刻化しているのですが、時に孤独感や経済的困窮に頭を抱え重い溜息をついても、少し後のシーンではしれっとした顔で食パンかじったり夜食食べたりしている。第三回で美波のナレーションが「やっぱり死ぬ気はないのね、図々しい女」と評したように、ドラマの詩文はどんな切羽詰った状況であろうと、自ら命を絶とうとするところなど想像もできない(原作の自殺未遂シーンもトラマではすっぱりなくなっていた)。
あまり重苦しい展開はテレビドラマには向かないという配慮もあったのかもしれませんが、ドラマの詩文の明るさと生命力は主として詩文を演じた永作博美さんに由来するもののように思えます。
原作もドラマも詩文は男心を惑わす魔性の女として描かれていますが、泣き顔に格別の魅力がある設定の原作の詩文がどちらかといえば陰性の色香を放っていたのに対し、ドラマの詩文は明らかに笑顔が印象的な女という位置付けになっている。
といっても慈母的微笑や無邪気な天使の笑顔ではなく、もっぱら小悪魔的な悪戯っぽい笑顔。それもにっこり系から目も口も大きく開いた肉食系の笑顔まで、視線や口元の微妙な動きも含めてバリエーションが豊富。
笑顔に劣らず頻繁に見せるわずかに憂いを含んだ物思わしげな顔が、上述のようなしれっとした顔やいたずらっぽい笑顔にすっと切りかわったかと思えばまたふっと真顔に戻ったりして、その表情変化の多彩さに思わず引き込まれないではいられませんでした。この永作さんの“陽の魔性”が、ストーリーの方向性をも原作とは別の方向に動かしてゆく牽引力になったんじゃないでしょうか。
また彼女が狙った男を落とすについても、原作ではいろいろと計算を用いているのが地の文で説明されていますが、ドラマでは映像で見せるだけなので(映像作品で地の文的役割をするのはナレーションでしょうが、死んだ美波の語りという形式を取ったナレーションは美波の主観を語りはしても詩文の内面に踏み込めるわけじゃない)手練手管が見えない分陰湿な感じがしないのも大きかったと思います。
一方、満希子のキャラの変化は「永作詩文」に引っ張られるように作品全体のトーンが明るいものに変わっていくうえで、その明るさをより明るく、コミカルに演出するうえで要求されたものだったのかなと想像しています。
原作にあっては41歳時点の四人の中で最も地味で暗い雰囲気(詩文のような色気にも通じる翳りではなく陰陰滅滅とした感じ)だった満希子が、欲求不満の専業主婦なのも家族に無視された存在なのも社会経験がないゆえの精神的鈍さも原作と同じでありながら、欲求不満ゆえにドラマティックな恋に憧れる様子や精神的鈍さの部分を戯画的なまでに強調して描かれることで、一気にコメディ的存在になってしまった。
その厚かましさ、反省のなさ、良識を振りかざしながらひたすら自己保身に汲々としてる姿など、もう言動のいちいちにツッコミを入れたくなるほどでした。きっと満希子役の寺島しのぶさんも、台本を見て「こんな台詞言うのー?」と思うことたびたびだったんじゃないでしょうか。
しかし視聴者をいらだたせるほどのその身勝手さゆえに、第一回から自分の名推理(実質ゴシップ的興味)を披瀝したさにネリの貴重な時間に図々しく割り込んできた満希子は、後半では旦那の浮気騒動や自身の駆け落ち騒ぎで詩文やネリ(とりわけ詩文)をさんざん振り回す形で物語を動かす役まで担ってゆくことに。
そして最終的には自分の浮気については見事に隠しきって旦那の浮気をのみ責める形で優位に立ち、ほころびが出そうな部分は全部詩文に押しつけて平然と元の生活に返ってゆく。そのあまりにもちゃっかりした態度には一周回っていっそ爽快感さえ覚えてしまいました。それは眉を寄せ歯を剥いた愕然顔や自身の妄想にうっとりする顔、拗ねた顔、哀願する顔など一つ一つの表情をコントラストくっきりと見せてくれた、ある意味悪役な満希子をふっきって演じた寺島さんの表現力によるところが大だったんじゃないでしょうか。
もう一人のサブヒロイン・灰谷ネリは大病院の脳外科医というポジションと英児との関係以外は、ストーカー被害や教授選の話などオリジナルエピソードが大半を占めていたキャラクターでした。演じてるのが高島礼子さんというのもあってか、原作よりさらにさばさばした印象でありつつ同時に円熟した色香があって、後輩医師たちに対する姉御肌なところも含め、長年男っ気がない設定に説得力がないほどでした。
だからなのか、英児との関係も一度のことに終わらずより深入りして不安定な恋に執着する、ボクサー復帰の夢を捨てられない英児に行かないでとすがるシーンなど、女っぽさが原作より強められている感触でした。
それも41歳の成熟しきった、むしろ早めの更年期障害に差し掛かってることに焦りを覚えてる状況からすればもっと女の情念を発散させててもおかしくないところを、ただひたむきに少女のような初々しささえ感じさせる演技でネリを健気な女として成立させ、先には説得力がないと感じた男性経験が少ない設定をも(初恋同然だからこうも計算抜きでひたむきなのだなと)納得させてくれました。64年生まれの高島さんは撮影当時、41歳のネリよりさらに年上の43~44歳だったはずで、それであの初々しさを出せるのだから見事なものです。
さてそしてわれらが勝地涼くん演じる安城英児。28歳という年齢設定、野性的・肉食系のボクサー、永作さん演じる年上女性との愛欲に溺れる役という前評判に、またえらくハードルの高い役が来たと思ったものです。というよりなぜこの役柄に勝地くんをキャスティングしようと思ったんだか?
勝地くんは当時まだ21歳(放映中に22歳に)で、外見的にも目力は強くとも全体としては優男の方で、これまでの出演作も愛欲に溺れるどころかせいぜいキス止まりの初々しい純愛路線ばかり(『1980』は例外ですが、あれもベッドシーンそのものは出てこなかった)。
むしろ上のような評判から想像したのは若かりし頃の渡辺裕之さん(勝地くんが主人公の少年時代を演じた『新・愛の嵐』で「旦那様」こと伝衛門を演じた方です)みたいな野性的なマッチョタイプだったんですが、原作を読んだら英児の外見は「ボクサーにしては美しい顔」「目も切れ長」と表現されていて、それならまあ納得できるかなと思ったのでした。
しかし実際ドラマを見てみると「やっぱりちょっと若すぎるかなあ」という印象は否めなかった。単純に年齢が若いということではなく、年上の女二人との過激かつ乱暴な(「暴れろよ、いつもみたいに、キャーキャーわめけよ」という台詞に象徴されるような)ラブシーンを演じるにはいかに美形設定とはいっても男臭さが足りない、勝地くんの持つ透明感がここでは仇になっているような感じをうけたのでした。
しかし作品を見返すうちに、これで英児のキャラは正解なんじゃないかという気が次第にしてきました。ボクサー稼業や乱暴な言動から男臭いイメージの強い役柄とはいえ、詩文やネリより13歳年下という設定は「年下の可愛い彼氏」というニュアンスを含んでいるのだろうし、さらに詩文を演じる永作さんが実年齢より相当お若く見える方なので、本当に28歳前後の役者だとこの「年下」感が出なくなる可能性がある。そう考えれば20歳すぎの俳優をキャスティングするのが自然な流れだったのだろうと。
加えて英児と性的関係を持つもう一人であるネリは男性経験が少ないわけで、いかにも男臭い男だったら生理的に警戒してしまい、自分の方から接近してゆく展開にはなりそうもない。ほぼ初対面から押し倒されるような目にあっているのだし、英児の意識が混濁してたといっても日頃から恋人(詩文)にあんなふうに振る舞ってる男には違いないわけで、それでもなお近付きたい気持ちにさせるような要素――ネリの恐怖心をさほど喚起しないようなどこか初々しい、可愛気がある男であってこそネリと英児の関係が成り立ちうるのだと気付いたのでした。
かくて当初の違和感が消え、“勝地英児”を全面的に受け入れてしまったら、彼が時折(特に詩文がらみで)見せるナイーブな表情の美しさにすっかり吸い込まれてしまいました。
洒落たことは言えない、基本的に拳と身体で語ることしか知らない英児は総じてぶっきらぼうで言葉も乱暴ですが、その眼差しが、切ない表情が英児の胸の内を伝えてくれる。言葉が少ない分を繊細な表情で補う、それはまさに勝地くんの得意とするところであり、勝地くんがキャスティングされた意図もそこにあったのかも。
試合中のケガがもとで現役続行不可を言い渡されるのは原作もドラマも同じですが、原作の英児が悩み苦しみながらも引退を決意しトレーナーとして再出発したのに対し、ドラマの英児は単身未知の国であるパナマに渡ってまで現役続行にこだわった。そんな原作以上の“青臭い”性格を示す展開も、もしかしたら勝地くんの“若さ”がもたらしたものだったりするのかもしれません。