鏡が全て取り去られ、ただ生成り色の壁の部屋にテーブルと椅子だけが置かれたセットは妙に狭苦しく(これまでは鏡に映る風景の分、実際より舞台に奥行きがあるように見えていた)、これまでにない圧迫感と味気なさを感じさせます。
これがケレアの屋敷だということを考えると、無謀な理想を追求するカリギュラに比して、彼の「まともさ」、その一面の面白みのなさを示したものかもしれません。
・ケレア宅でクーデター計画を語り合う面々。彼らがカリギュラに受けた苦痛がつぎつぎ紹介されるが、最初の方はなんかユーモラス。
とくに老貴族の「あたしのことを、かわいいお嬢さん、などと呼ぶ!ばかにしておる!死んでしまえ!」と言うのが、財産を横領されたの身内を殺されたのに比べると、えらく内容が軽くて笑えます。「死んでしまえ!」の妙に引っくり返った声のトーンがさらに笑いを誘う。
ミュシュスが(最後は第四の貴族が)いちいち「もう三年も!」と合いの手を入れるのも可笑しい。「三年」という数字がそこまで重要ですか。これらの短い合いの手の入り方がこの場面の会話をリズミカルに、深刻な場面のはずなのにコミカルに見せているのが見事。
ちなみにこの「女扱いにされてカリギュラに恨みを含む」というエピソードは史実においてはなんとケレア(カエレア)のもの(※8)。女呼ばわりされるケレア・・・。戯曲の彼に馴染んでいると衝撃的な事実です。
・この場面以降のシピオンは第一幕(三年前)ではボタンを留めていたシャツの前をはだけている。
これは体型的にはすでに青年である21歳の勝地くんの身体を第一幕では隠すことでシピオンの少年性を出し、第二幕以降は逆に見せることで三年間で彼が少年から青年へ成長していることを示そうとしたものかと思います。
このシピオンの衣装の問題については、半裸のカリギュラ・エリコンが秩序を乱す人間、服をきっちり着ているケレアが秩序側の人間であるのに対し、その中間の位置に立っていることを示したものである、との説を見かけました(※9)(ほかにセゾニアの衣装の色の変化などにも触れています)。なるほど。
・興奮のままに(カリギュラを倒しに)宮殿へ急ごうとする貴族たちをケレアが止める。「そんなに走って、どこへ?」「ここはわたしの家でもある」。
・・・『オールナイトニッポン』(こちら参照)のせいで真面目くさったケレアについ笑ってしまう。主人不在の間に家を荒らして詫びもしない貴族たちの態度も笑える。怒れよケレア。カミュはケレアの行動をツッコミどころとして描いてるんでしょうか。
ところでこの場面、宮殿に押しかけカリギュラを討とうとしたメンバーの中にシピオンも入っている。もしここでケレアが止めていなければ、彼は剣をもってカリギュラと戦っていたんでしょうか。
そうしたら案外この時点でカリギュラ殺害は成功していた気もします。エリコン曰く「おまえさんならカリギュラを殺せるとかな・・・・・・。奴さん、それを悪くは思わんだろう」ですから。
・「仲間になる気がないんなら、どこかへ行ってくれ。」と言われて「ところが仲間だと思っている。」と返し、「おしゃべりはたくさんだ!」と言われて「そのとおり、おしゃべりはたくさんだ」と返すケレア。
相手の言葉を繰り返すようにして技巧的に否定や肯定を行うケレアの話し方は「陛下におかれましては、すえながきご健康を」→「わが健康が、かたじけないと申しておる」、「これは驚きました。」→「驚くな」、「いつでも話せます」→「そうか。では黙っていろ」式のカリギュラの話し方とよく似ている。
論理的かつ修辞的なもってまわった、御託はいい、と言いたくなるような話し方(第四幕第四場では老貴族から「そんな風にしかつめらしく哲学しないでくれないかね、嫌いなんだ、そういうの」とついに言われてしまってます)。
他の貴族たちと比べると、彼の発言のやたらな長さが際立つ。立場を異にしながらもこの二人が多分に似通っているのがこれら台詞回しから浮かび上がってきます。
しかし「どこかへ行ってくれ」って、ここはケレアの家だ。
・右手を大きく動かしながら貴族たちを説得にかかるケレア。その語調も身振りもなかなかにアジテーター然としていて、クーデターの首謀者にふさわしい。
しかし彼が動かすのは右手だけで左手は下ろしたまま。このへんに、カリギュラを倒したのちは「首尾一貫した世界のなかでふたたび平安を見出したい」、静かに執筆に勤しむのが本分だと思っているケレアのスタンスが表れている気がします。
・貴族たちを説得する中でごくあっさりと、「きみたちの小さな屈辱に味方するわけではない」「ことが済んだら、きみたちのだれとも関わるつもりはない」など失礼な台詞を口にするケレア。
初期設定によれば彼は30歳のはずなので、貴族たちのほとんどより年下なんじゃないかと思うんですが。
失礼発言に先立って「けれど分かって欲しい」「念のために言うと」などと前振りするのも嫌味っぽいけれど、天然なんでしょうねきっと。
・老貴族いわく「許せますか、私のことを「可愛いお前」と呼ぶなんて」。
ケレアの小難しい長台詞が連続するくだりなので、こうしたちょっと間の抜けた発言がいい意味で緊張に風穴を開けてくれる。このへんのバランス感覚は実に優れた戯曲だと思います。
・ケレアが入ってきてからのやりとりの間、シピオンは一語も発しない。
そもそも第九場で部屋を出されるまでに彼が喋るのはケレアがやってくる前の一言、自分の名前が出た直後だけである。
このあたりは一人跳びぬけて若い(のだろう)シピオンの遠慮が見えるような気がします。まあカリギュラがやってきてからは、可能な限り目立ちたくなかったってのもあるでしょうが。
(つづく)
※8-スエトニウス『ローマ皇帝伝(下)』(国原吉之助訳、岩波書店、1986年)。「カリグラが正午に劇場からでてくるところを襲いかかることに決まったとき、護衛隊副官カッシウス・カエレアが主役を買って出た。この者はふだんから、カリグラに「耄碌、柔弱者、女々しい奴」と烙印をおされ、あらゆる罵詈雑言を投げつけられていた。それでこの者が合い言葉を求めたときはいつでも、カリグラは「生殖神プリアプス」とか「愛の女神ウェヌス」とかを与えていたし、あるときは、何かの理由で感謝の言葉を述べると、接吻をさせようと手を差しのべ,指を動かして淫らな真似もしていた。」
※9-東浦弘樹「カミュの『カリギュラ』の演出をめぐって―アントニオ・ディアズ・フロリアンと蜷川幸雄―」(『人文論究』第五十八巻第一号、関西学院大学人文学会、2008年5月)。「第1幕で、カエゾニアが黒いドレスを着ているのは、喪をあらわしているのだろうか。だとすれば、カエゾニアだけが、ドリュジラの喪に服している―彼女以外はだれも、カリギュラさえも、ドリュジラの喪に服していない―ということになるだろうか。その意味では、第2幕以降、カエゾニアが白のドレスに着替えるのは、なかなか興味深い。カリギュラは(中略)二度にわたって、ドリュジラの死の重要性を否定している。彼を絶望に陥れたのは、ひとりの女の死ではなく、人はみな死すべき存在であるという人間の条件なのであり、以降、第4幕第13場のカエゾニア殺害の場面まで、ドリュジラの名が口にされることは一度もない。カエゾニアが黒い衣裳から白い衣裳に着替えるのは、ドリュジラの死が忘れられ、なかったことにされていることをあらわしているのではないだろうか」「半裸のカリギュラとエリコンが社会の秩序を乱す側の人間であるのに対し、ケレアが秩序を守る側の人間であること、ケレアと同じくワイシャツを着ているが、胸をはだけているシピオンは、カリギュラ、エリコンとケレアの中間に位置する人間-破壊者であり冒涜(注・原文は旧字)者であるカリギュラを憎もうとしながら、憎めない人間-であることを示していると考えられるのである。」
2/4追記-前々回更新分の赤字部分の誤字(雑誌の号数を間違えてました。申し訳ありません)を修正しました。