詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

過去と書くこと

2015年12月20日 | 雑記
電車の中で本を読んでいたらこんな文章があった。
「~書くということは起源として、過去や死者に捧げる行為だったのではないか。過去や死者を称え、称えるだけでなく自分たちの記憶に刻み込み、そうすることで過去の出来事や死者の言動がさらに力を増す―――キリストと呼ばれる人の言動のように―――、書くとはそういう行為だったのではないか。」
強く傍線をひきたくなった。そうか書くということは確かに、そうかもしれない。書きたくなる、というのはそういうことなのかもしれない、と思った。さらに自分の心の中をのぞいてみて、すぐにまた、そうかもしれない、と思った。のぞいてみるより早く、のぞこうとした瞬間にそう思った。ここで言われているのはもっと大きな話なのだろうけれど、そんな大げさな話でなく、私のように個人としてただ綴っているだけの人についても同じなのだろうと思う。言われてみれば、もちろんそうだよね、とすぐにうなずけることなのに、これまでそのように考えてみたことがなかったから、まるであるべき場所に鍵があるのを見つけて、やっぱりあった、と驚くような感じ、と書くとかえってよくわからないけれど、不思議な驚きなのだった。

そうか、確かに、私は過去のために、失われたもののため、もしくはこれから失われていくもののために書きたいと思うんだ。後ろを振り返りがちな自分が文章を書くのが好きというのはこんなにも自然なことだったんだ。きっと未来について書くときも、未来についてこのように感じた、思った、という過去を記録しておきたいと願っているのだと思う。そして書くことの素晴らしさは、ただ記録するだけではなくて、いろんなことがうまく作用すると、文章でしか生まれ得ないいのちを持ち、うごめいて、書く人や読む人の過去(記憶)や心(これも記憶?)に呼応して、模様を描いているように見え始めること。池の水面が黒い鯉の動きで絶えず形を変えて紋を描くのを眺めているように、動かしているものの姿ははっきりと見えないのに、それによって生れる波紋が変化していくのを見ている。

思い出すことは大切なこと。どんどんどんどん忘れていってしまうから。忘れることはしあわせなことだということもわかっているけれど、一生懸命忘れないように、思い出すようにすべきこともあるような気がする。それは誰かの気持ちに思いを馳せてみる、というようなことにもつながっているような気がする。自分にそれができているかどうかはともかく。

バッハ平均律クラヴィーア第一曲集の第十番の前奏曲がとても好きで、聴いていると恋をしているような気持ちになってしまう。まるで自分に深い関わりのある曲であるかのように思ってしまう。その曲の世界をとてもよく知っている気がして、いつか自分のために作られた曲であるかのような錯覚をしそうにさえなる。それなのに、というか、もちろん、というか、その曲のことをすっかり忘れていることもあり、そんなに良かったっけ、と思ったりもする。そして久しぶりに聴いて、やっぱりいい、すごくいい、と思って再びその世界に入り込む時、ああここに大事なものが何かある、なんだかわからないけれどこの感じ……と思う時、それは過去を想うことに何か似ている気がする。

なんて。何事もものすごく半端(ヘンな言い方!)にしか知らないくせに、自分にとって都合のいいことだけを拾って都合よく考えて分かった気になるのは良くないことかもしれないですね。

抜書きしたのはこの本から
『小説の自由』保坂和志著 新潮社

先輩の法事のあとに厳島神社でこんなかわいい鹿にあったことも




帰りの新幹線でこんなにきれいな富士山が見えたことも




忘れそうになっていました。
富士山は今頃はもっと下の方まで白くなっているのでしょうね。
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明日の記憶

2015年12月20日 | 
痛みへの恐れで私は人に結ばれる
手の甲から指へかけてのなだらかな丘は
ハンドクリームの油でつやつや光り
傷ついたことのない
太く青い血管が骨を逸れて流れる
天使の夢を奏でると
右手は鳥になって遠い海を渡っていく
海原の夕日の層を昇り続ける

悲しいと小さな黒い穴が開き
吸い込まれていく東西南北
絡まりあった問いかけを
ひとつのルールに整列させる
平和を願う気持ちは
私の中の小さなテロリストかもしれず
穏やかな仮面の下で
目をつむるため
怯えながら
ざわつく波頭をめったやたらに撃ちまくる

心に大切なことは効率とは反対にあって
生よりも死に近い
けれど見えない道を丸めていけば
死は一回転して草を分け
きっと生よりも生に近くなる

十二月が近付くと
冷えて呼吸が浅くなる
異変は窓の隙間から
逃がすのも難しいほど
おびただしくなり
年が明けてまもなく
決定的な名前がつけられた
それからは何度も反芻された
密やかな闘いの日々
ソファーに置き忘れられた
陽光とシャツ

辿り直す未来が
明日の記憶が
重く滴る日
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ないないない

2015年12月16日 | 雑記
突然、ある文章が読みたくなって、家に帰って玄関の電気も消さず、コートも脱がずに本棚へ走る。とりあえず間違えて寝室に入る。夏ぐらいまではここに本棚があって、その前で座り込んでその文章を読んでいたのをよく覚えているから。寝室に入って、あ、またやった、と額をピシャリとうつ気持ちで部屋を出てくる。地震対策で本棚を他の部屋に移したんだった。何度目だろう、この間違い。だけど、あの本はこの部屋のこの本棚のこのあたりに入っている、というのが、体で覚えた感覚みたいになってしまっていて、心の中では家に着く前から本に手を伸ばしているから、思っていたところに本棚がないことに気が付くと、手がかすっと空を掻く。

さて、寝室に本棚がないことを確認した時点で嫌な予感がする。というのも、以前もこの文章が載っている本を探した記憶があるのだ。しかもその本が雑誌なのだからなお困る。それらしい雑誌は何冊もあるから、期待を込めて次、次、とバーっと見ていくがない。もしかして見落としたのかも。見直す。いや、別の本の気がする。家の中で一箇所に集まっていない本棚を砂糖の粒を運ぶアリのようにちょこちょこちょこちょこ行ったり来たりして探す。

どう見てもない。でも前回読んだあのときから捨てるはずはない。気合いを入れて、再びちょこちょこちょこちょこ歩き回る。やっぱり、やっぱり、ない。ないみたい。誰だぁ捨てたのは!なんて怒りが込み上げてくるけれど、捨てるのは私しかいない。だんだん、捨てたはずがない、の記憶に自信がなくなってくる。でもいま、こんなにも必要としているその文章を、まさか捨てたとは信じたくない。

家の中を何周しても、出てくる気配はない。以前も探して結局見つからなかったような尻切れとんぼの嫌な感覚が残っている。そういえば、なんか処分した気が、しなくもない。本棚を移動するとき、少し処分しないとダメだよね~とか、話していたような記憶がうっすらと蘇ってくる。そうだ、体で覚えた感覚が更新されていないのは、本棚の場所を変えてからその本を見ていないからなのだ。

ああなんと切ない。捨てる決断がなされ、それが実行に移されてしまった本はなんて魅力的なのだろう。なんだかすごくおもしろい内容の詰まった雑誌だったような気がしてくる。本と言えば、じゃなくて、ほんと言えばどの本を買えばその文章が読めるのかはわかっている。Amazonで申し込めばすぐに届くさ。でも、そういうふうに読みたくなった本は、本屋さんに行って買いたい。そして何よりも、やっぱりいま、いま、いま読みたいし、家にあったあの雑誌で読みたかった。この欲望を即、満たしたかった。

そして満たされなかった欲望のために、ブログの記事がひとつ増えたというわけなのです。

ちなみに読みたかった文章とは
大崎清夏さんという詩人の
「指差すことができない」という詩でした。
雑誌を捨ててしまってごめんなさい。
今度ジュンク堂で詩集で買います。
こんな詩が書けて、いいなぁ。

あのね、すぐにいいと感じられたわけではないんだ。おもしろい文章だなぁと思って印象に残って、何度か読んだ。ときどき読み返した。そしていま思い返すと(読み返せなかったので)、きっと海辺の漁村(山の上にある漁村なんてないけど)なんかを思ったときに、そのイメージという私なりの記憶の中に、もうその詩がきっと知らないうちに入り込んでいると思う。たぶん言葉も影響をすでに受けてしまっていると思う。

きっとこういうのが、良い詩なのですね(^-^)

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窓と窓

2015年12月16日 | 
窓と窓
は新しい眼

間には寒天のようにぶるぶる震える
厚い時間が流れていて

重なることで見透かす
落ち葉の凍死を

重なることで見はるかす
煉瓦の壁のひびを辿ると
アイビィがさざなみのように風を伝える
ふたつの窓の時間を経た向こう側には
オルゴールが鳴り始め

アンティーク

木枯らしとアイアン
チョーカーとアネクドート
カザルスの鳥たちの
モザイクの空がひるがえる
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愛とか(『薔薇の名前』の感想のような……)

2015年12月12日 | 雑記
少し前のことになりますが、『薔薇の名前』をようやく読み終わりました。ずっと前に映画で見てとても面白かったし、いつからか実家の本棚にあるのを目にしていたけれど、いまになってようやく読んだというわけなのです。何年、何十年?!経っていても、映画の印象が強くて、読んでいてもバスカヴィルのウィリアムはショーン・コネリーで、アドソはクリスチャン・スレーターになってしまいます。

異端の話、教皇と皇帝の権力闘争などは途中からよくわからなくなってきてしまいましたが、そのあたりは忍耐したとしても、やっぱりとても面白かったです。ウィリアムとアドソがいいですよね。わが師ウィリアムとか言って、その教養や、頭脳明晰(そして考え方が現代的で、中庸で、こんな人ばかりが異端審問官だったら、政治家だったらいいのに)を尊敬しながらも、ちょっとした虚栄心というか見栄というか、を冷静に見ていて、今風に言えば突っ込みを入れるアドソ。物語の冒頭からこの師弟コンビに親しみを感じられるから一緒に謎の中に入っていけるし、クライマックスの悲しさを共に感じるのですよね。

ところで、物語だけで存分に味わえなければ、と思うのに、理解力の乏しい私はついつい解説(翻訳者 河島英昭氏による)を読んでフムフム、と勉強してしまうのでした。いろいろと感じたところはあるのですが、今回書きたかったのは、「ウンベルト・エーコは記号への愛のために『薔薇の名前』を書いた。」という文章について、ということにしておきましょう。

解説を読んで、この長い物語を思い出し、また最後のウィリアムとアドソの会話を思い出し、塵ほどのわずかな知識ながら歴史のことや人間のことを思ってみたりし、ほとんど何も知らないながら、文学とか人間の知識とかということを思ってみたりし、自分自身のことにも結びついて、いろんな部分が星座にとってのひとつひとつの星のように、自分の中でつながって、光っているような感覚があるのですが、それが何かと言い表すのは難しく、もどかしいです。

とても書きたいことがあるのですが、長くなりすぎるので、そこは端折って、解説で取り上げられていて、そこで再び読んで再び感銘を受けた文章を載せておいて少しすっきりしましょう。
「すなわち全宇宙とは、ほとんど明確に、神の指で書かれた一巻の書物であり、そのなかでは一切の事物が創造者の広大無辺な善意を物語り、そのなかでは、一切の被造物がほとんど文字であり、生と死を映す鏡であり、そのなかではまた一輪のささやかな薔薇でさえ私たちの地上の足取りに付せられた注解となるのだが、」

ここには記号学者である作者の記号とは何かという考えも映されていて、そしてさらに感動的(?)なことについて、恥しながら解説によって私は知るのですが、それについて語りたい、という気持ちと踏みとどまる気持ちがあって、その中間がこのような半端な文章となっております……。

学者や博学の人々のようにはいかないけれど、私も私なりにその一巻の書物を読みたい。それには注意深さと、きっと愛が必要なのでしょう。そして愛というのはとても積極的なものなのだろうと最近思います。積極的な愛でなければ読めない文字がたくさんあるのでしょう。私はこれまであまりできていませんでした。愛する才能は生まれつきの気質によるのだとは思いたくない。自分を変えるのは難しいけれど、少しずつでもできるようになりたいです。

『薔薇の名前』というタイトルの意味が深くてすごいし、かっこいい!

『薔薇の名前』上・下
ウンベルト・エーコ著
河島英昭 訳
東京創元社
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