詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

ミオの魔法を解く

2019年05月26日 | 雑記
アストリッド・リンドグレーンの『ミオよ わたしのミオ』より、このブログにおけるペンネーム的な「ミオ」を拝借しました。

『ミオよ わたしのミオ』の何がよかったといって、何よりも、私が惹かれたのはタイトルでした。子ども心にとても不思議で、魅惑的で、奇妙でした。

たとえば学校の人気のない図書館で、いろんな本の背表紙を追っている。『長靴下のピッピ』『秘密の花園』『小公女』『ミオよ わたしのミオ』

あれ?いまなんだか変な気がした。
なんだか呼びとめられたような。
私ミオという名前だったっけ?

『長靴下のピッピ』『秘密の花園』『小公女』いずれもタイトルは、この本はこのことについて書いてあるんだよ、というある種、説明になっています。でも『ミオよ わたしのミオ』では、私が「ミオ」であるかのように突然タイトルから呼びかけられる。

実際に読んでいくと、この「ミオよ わたしのミオ」というのは、主人公ボッセに呼びかける父の声なのですけどね。主人公ボッセは孤児で養父母に厭われてつらい日々を送っているのですが、実は「はるかな国」という魔法の国の王様の息子だったのでした。

その「はるかな国」での冒険が主題のお話なのですが、そこで王様である父が、9年間も探し続けていた息子である主人公に呼びかける言葉「ミオよ わたしのミオ」。読後、タイトルの意味はわかりました。でもなんだか奇妙な感覚は残ったまま。

この呼びかけは、この小説の主題ではないんですよね。みなしごボッセは、実は魔法の国の王様の子どもなんだ、惨めなんかじゃないんだ、ということを象徴しているようでもあるのですが、なんというか字余りというか、この言葉を本のタイトルにすると、物語を超えた呼びかけの先が何かあるような錯覚を覚えてしまうのは私だけでしょうか?

そのため、「ミオよ わたしのミオ」という響きが消えない(解決されない)響きとなって、こだましているような気がしてしまうのです。

恐らく、「読者である、きみこそが、ミオだよ」という魔法が、本を読む前から仕掛けられているのだと思うのですが。

そこでもう一つ、話が少しずれるようですが、この小説の冒頭部分がまたなんとなく奇妙というか。こんな文章で物語は始まります。

「去年、十月十五日のラジオをきいていた人がありますか?ゆくえ不明の男の子をたずねている放送をきいた人がありますか?」

そして、
「でも、ブー・ヴィルヘルム・ウルソン(主人公の孤児としての本当の名前)を見たという知らせは、ひとつもありませんでした。その子は、いなくなったのです。」

この後、ボッセは魔法の国の使いに連れられて本当の自分の世界「はるかな国」へ行くのですが。

本当は、ここがラストなのではないか。
本当は、ボッセは、やっぱりブー・ヴィルヘルム・ウルソンで、実際は、死んでしまったのではないか。

小説の中身に対して「本当は」とか、「実際は」とか言っても仕方ないのですが。

「はるかな国」は小説の中にしても、美しすぎる場所。かわいそうなボッセが死ぬ前に見た幻だったのではないか。ふとそんな気がしてしまった、大人になったミオなのでした。


今年も行きたかったけれど行けなかった
紀尾井町のRose week
すみませんが昨年度の写真








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2019年05月11日 | 雑記
連休中はすごいダラダラしてたのに、忙しくなると、あれこれやりたくなるんだよねぇ。なんでだろ?

たっぷりお休みをもらったおかげで、仕事が忙しく、毎日残業して帰るのだけど(まあ、連休がなくてもいつも残業しているのだけど)、もうすぐプルーストセミナーだな、復習しなくちゃ、とか、今回のゲストの本を読んでおこう、とかして、さらに寝るのが遅くなる。連休中にやっといてよ!と我ながら思うのだけど。

昨夜(もう一昨日だ!)もそのように『失われた時を求めて』をパラパラしていて、主人公の私がスワンの死を新聞で知った箇所を読んでいて、ふいに、10年ほど前、一人暮らしをしていた頃に、日々感じたことをノートに書き留めていたときの感覚がよみがえった。

「その同じ死の特殊な奇怪さに私がハッとさせられたのは、ある夜、新聞をめくっていたときで、時宜をえず挿入された不可思議な数行に要約された訃報がふと私の目をひいたのだ。そのわずか数行によって、生きている人は、話しかけられても答えられぬ存在、つまりそこに記されているただの名前、現実の世界からいきなり沈黙の王国へ移されたただの名前と化したのである。」
『失われた時を求めて 11』岩波文庫 より

この粘着質な書き方、いや、プルーストの中では、こんな程度ではとても粘着質とは言えないかもしれない、でもなぜかここでふいに、普段の何気ない暮らしの中で、自分の内側だけで起きている、ちょっとした感覚の揺らめきを漏れなく書き留めておこうとするしつこさ、昔の欲望(というほど強くはないのが私のつまらないところ)を思い出した。

もう寝なきゃと思って布団へ向かいながらも、幼い子どもが引きずる汚れたぬいぐるみのように、日記帳とペンを携え、「久し振りにブルドーザーのように書きたくなった」と書き留めて、寝た。

夢の中で、私は探偵だった。
赤いマンションに張り込んで、相棒が、とある部屋を訪ねるのを物陰から見ている。玄関を開けたのは赤いパジャマを着た女性。私はブルドーザーのようにそれを日記帳に(手帳ではないのだ)書き留めようと思う。
「赤いマンションに赤いパジャマを着た女性がうんぬんかんぬん」
とても充実した内容(とは、とても思えないだろうが、夢の中ではそうなのだ)の書くべきことがある、ということに私はブルドーザーのように満足を覚えてほくほくする。うむうむ、玄関口から見える部屋の様子からして、なかなか裕福なお宅のようだ。これも書き留めなければ。なめなめ。

ここのところ、ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』を読んでいる。それで今朝も人類について考えていた。バカみたいかもしれないけど、けっこう真剣に。すると、私が信じたかったものは、なんだったんだろう。印象を書き留めることに、どんな意味が?

でも私は最初から、そこに意味など求めていなかっただろうし、だからこそ、粘着質にもなり得るのだし、何かをするということは、最終的には意味を乗り越えていく、ということなのだろう、と思った。

連休が終わる時は、もうほんとにどうしようかと思うくらい憂鬱だったけど、仕事に行ってしまうと、なんだか少し自分が役に立つ人間になったみたいな気がして元気が出るのだった。このパターン、もう何十回くらい経験していることだろう。毎回、初めてみたいに繰り返している。







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