詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

とつぜん、家を買うことになる2

2017年02月28日 | 雑記
とつぜん買った家は、どうなったの?

人が家を買った話なんか、読みたいかな、と思ったら、続けられなくなってしまった。
「いつも、もっともっと、誰が読むのよ、というような記事を書いているくせに」という冷やかしがすかさず入ってくるのだけれど(自分の中で)。

そして、それだけでもなく、まあいろいろありすぎて(自分の中で)、ちまちま書いているうちに時が過ぎて、台風の目が三つも四つも来てしまって(自分の中で)、なんだか書くことがなくなってしまった。味わい尽くしてしまったもので。まだ渦中なのだけれど。

でも、私が何かを書くとしたら、そのベースは日記で、それは自分の心のオーロラのような変化を記録したいという気持ちで、そうなると、やっぱり家を買うということはとてもとても大きなことなので、やっぱり書かずにはいられません。
と、そういう結論、出ました。もしもお付き合い頂けましたなら幸いです。2にもなって、いまさらですけど。

それで、家。
なんか、すごい。
大きいことってすごい(家が大きいわけではないです)。
それまで、ちまちまちまちま考えていたことを吹っ飛ばしてしまう。ちまちまちまちま考えても、わかったようなわからないような気持ちでいたことが、一気にわかるような気がしたり。

自分がどういう人間かがすごくよくわかる。
自分がどれだけチキンで、だからこそ、ちっちゃくちっちゃく生きてきて、けちんぼなのもよくわかった。心配なんです、ともかく。なんでもかんでも、すぐ心配。すぐ悪いほうを想像する。

心配だから極力、生活は変えない方向に持っていく。そういう自分の心の仕組みが、今回ものすごくよくわかった。

前回書いたことで、ひとつ、弁解、というか、弁護、というか、納得したことをとりあえず書いておきたい。不動産会社について。

購入の契約をするまで、とても悩んだけれど、契約してしまうと、急に気持ちがすっきりした(その後もさんざん悩むのだけれど、結局)。何十年も優柔不断で生きてきたのに、決めるって気持ちがいい、とさえ、たぶん生まれて初めてくらいに、思った。決める努力をしてくれたのは、ほとんどだんなさんだったけれど。

これがもし、「契約はいつでも、その気になったときに、でいいですよ」なんて言われていたら、たぶんずーっと悩み続けていつまでも決められなかったと思う。

そして、冷静になってみれば、申し込みから契約までの時間がタイトになっているのも仕方ない、と思えるようになった。売る側からしてみれば、安いものではない商品を、買うのか買わないのかはっきりしない客のためにいつまでもキープしておくわけにはいかない。だから申し込みをしたなら一週間以内に契約してもらう、という流れが必要なのだと納得した。

ネットでいろんな情報を見ていると、たとえば契約をした途端に態度が豹変した営業マンの話など読んでしまって、夫が契約のサインをした瞬間に、営業の人の態度がどう変わるのかと恐ろしい気持ちでその顔をじっと見つめていたが、何も変わらなかった。

というか、それは最初からなんとなく気付いてはいたのだけれど、私たちの担当をしてくれた営業の人(女性)は、ほんというと最初からとても感じがよかったのだ。ちょっとお友だちになりたいくらいに。あちらは、私のいろんな質問攻撃のせいで、この人とはお友だちになりたくない、と思っているかもしれないけれど。

それでも、そんなことはおくびにも出さず、契約をした後もとても丁寧。内覧会の時も、こういうところもしっかり見てくださいね、と教えてくれたり。営業トークの合間にときどき口を滑らせてしまうのも逆に誠実な人に見えてしまって、こんな大変な仕事をしているんだもの、きっとタフでしたたかだろうけれど(余計なお世話ですね)……「いい人だね」と夫と私、二人になると話していた。

内覧会はどきどきした。申し込みの前にも部屋を見ていたわけだけど、そのときはまだ買うつもりもなくて、見方は結構適当だった。だからここで初めて落ち着いて部屋を見た。ようやく、あ、思っていたより良い部屋かも、と感じた。

もう契約もしてしまったくせに、ほんとにいまさらなのだけれど、うん、いいかも。そうだ、最初に見に来た時(そのとき実際に住む部屋を見られた)、月がとてもきれいに見えたのだった。その印象が、ずっと頭に残っている。


つづく

……かもしれない

コメント (2)
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舞台の中央で

2017年02月26日 | 
くりかえし見ることは
そのひとの年輪を
わたしのうえに
波紋のように重ねる

中央に置かれた
ピアノの側面のなめらかな曲線に
油絵の具で描いたような白い影が
絶え間なく生まれ続けている

ピアノの前に座った人の
少しうつむいた顔に
天窓からの光と
皺がつくりだす陰影が深い

フレーズのはじまりに息を吸い込む音が
聞こえるような気がする
吐きながら指を広げる

片側だけ翼をひろげた
大きなコウモリのようなピアノと
手を取って踊りながら
そのひとがとらえようとしている空気
わたしもとらえたい
異なる方向から
もしかしたら
もっと淡く

中心へ至ろうとする思い
知らないから想像する
ふだん笑顔しか知らないから
その奥の羞恥や苦悶を思う

緊張の果てしない岩場を乗り越えながら
日々のノイズを整えながら
だれも見ることのできない奥深くで
感情の水を湛えている湖
しずかに向き合うそのひとが
指のいっぽんいっぽんに
思いを込めた色を送るまで
どれほどの時間と
どれほどの迷いとを
経て
いまそこに
そうして
座っている





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ぼんやりでいいこと。の前の ぼんやりでいいこと。

2017年02月16日 | 雑記
以前、「ぼんやりでいいこと」という記事をアップしましたが、最初はこんなこと↓を考えていたのでした。いつのまにかぜんぜん違う話になっていましたが。メモを整理していたら最初の「ぼんやり〜」が出てきたのでこちらもアップすることにしました。ところでまもなく0時。いまどういう状況だと思いますか?眠くて眠くて85%くらい意識を失っている状態です。このままレッツゴーー(かなり寝ぼけてます)。

☆☆☆
ぼんやりでいいこと。

ぼんやりしているのがいいよ、と思うことがある。そこもっと、ぼんやりでいいんじゃない?と思うことがある。

たとえばどういうことよ?と尋ねられたら、そこもちょっと、ぼんやりしてるんですけどね、なんて。

たとえば、すごくきちんとしている人の説明。
私は耳で言葉を聞いて理解するのが苦手なようで、みんながうんうん、とよくわかった顔をしているのに、ひとり、「え、いまなんの話?」と思うことがよくある。話し言葉はあっという間に目の前を通り過ぎていってしまうから。そんな私に、すごくきちんとしていて説明上手な人がすごく論理的に説明してくれる。これがこうでああだからこうなってああなって……。最初は一生懸命聞いてるけれど、途中で置いてきぼりになる。置いてきぼり?置いてけぼり?どっちだっけ?

思考回路が違うんだなぁと思う。その人の頭の中の回路には隅々まで水が行き渡っているのでしょう。隅にぼやぼやっとした黒いところなんてないのです。私の回路はぼやぼやばっかり。隅どころかど真ん中にまで。

それで私はいつもその人のことを称賛しているのです、心の中で。資料なんかもすごくきれいだし。説明もすごく上手。頭の整理が上手なのですね。私のノートはかなり複雑な迷路になっております。どんどん忘れてしまうから、とにかくなんでもかんでもメモしないといけない。先を考えずに書き始めるから、書ききれなくなって※印やら☆印やらでページのいろんなところ、もしくはページをまたいでメモがつながっていく。アリの巣みたい。と言ったらアリに怒られるな。

そういう人が身近にいるのはとても勉強になる。同じようにはもちろんできないのだけど、盗み見てやり方を真似できるし、自分の癖にも気付きやすくなる。気付いて、はぁー私ぐちゃぐちゃ、と思う。でも、まれに、いやそこまできっちり、しなくていいんじゃないか、と思うときがある。ふと自分に帰って、ああ、ぼんやり、も、いいな、なんて、ふたたび甘〜い蜜を舐め始める。

細かいところをきっちりしすぎると、木を見て森を見ない、なんてことにならないかな、と心配なのです。いつも、他はどうかな、と考えたくなるのです。それで余計に混乱してしまうのですが。何かひとつ、学んでいるときに、なんとなく全体像がわかってきたような気がすると、やっぱり自分の捉え方がやりやすいのです。

そうなのです。人には人の乳酸菌、じゃなくて、人には人のやり方があって、できるところは盗めばいいし、その人のやり方がすべていいんだ、みたいに思うことも、ないんですよね〜たぶん。そこを無理しても、もともとの回路が違うから、違う機械のマニュアルを見るみたいなことになってしまう。

ところで最近、人工知能があらゆる分野で人間を打ち負かしてくれますが、人間だって、こんな平凡な人間の脳だって、ものすごいんですよ!すごい能力を使っているんですよね。認知能力とか、状況判断とか。何がすごいって、ぼんやりできるんですよ。力を抜けるんですよ。間違えられるんですよ。いろいろ迷えて、余計なことをたくさんしちゃうんですよ。他の動物と比べて、とかでなく、人間てすごい。それを忘れちゃいけないと思います、現代社会は(なんて偉そう)。

……なんて、なんの話をしていたのだっけ?
そうそう、ぼんやりの話。最近、我ながらもう少し、いやもうかなり、しっかりしなくちゃ!もっと神経張らなきゃ、覚えなきゃ、と思っているのですが、つい、ぼんやりも大事だよね〜とふにゃふにゃ〜と思ってしまって、ぬるくなってしまうのでした。

ぼんやりにも、きっと熟練の技が必要とされるのだと思うのです。私の中でのたとえばの理想(たとえばの理想ってなんだよー!)。よく、間違い探し、ありますよね。上下にそっくりな絵があって、違いを7つ見つけなさいとか。あれって、ぼんやりと上下の絵を重ねる感じに見ると、違うところが光って見えるんですよね。そんな感じ!ぼんやりすることで見えることが、あるような気がするんです。でも、なんでもかんでもぼんやりしていては、仕事でいらない人になってしまうし、かといって、まわりの人がよく気が付くことに自分も神経を張ることは、あんまり意味がない気もする。

なんというか、活動的でありながら(ぼんやりの時間が長過ぎて、時間がもったいないかもと最近思うようになった)、ここぞっと大事なところでぼんやりできる、ぼんやりの達人になりたい。

もっと書きたいことがあった気がするのですが、長くなりすぎるので続きはまた。そのうち。
☆☆☆

↓もう夢を帯びはじめている、ねぼけなまこ。
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落し物

2017年02月14日 | 
あなたと別れたあの駅で
落した手袋の中に
ビルの谷間から見えた夕焼けが
入っていたらしい

駅員さんから寂しげな
ひとりぼっちの手袋が
わたしのもとへ帰ってきた時
わっと空がひろがった
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音流れて

2017年02月12日 | 
南から潮の匂いつれて
電車ホームに入ってくる
あの少女が乗っている
カーブと艶が品よく収まる
ヴァイオリンケース背負って

たまごを持つ
指……弦に触れ
わななき伝わる
反り返る響板
どっしり座った音流れ
まわりに座った誰……も
それを知らないけれど

ビル3階の高さ疾り抜ける
空に競って
暗雲のわきだす
稲妻光る
未来はためく
窓外に背を向け
内向くひとびと
いいえ顔をあげ
向こうを見ています
向こう
前を向こう

胸のまんなか
なにか美しい音楽が
通り過ぎていった
蒸気立ちのぼる前に
忘れてしまったけれど
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