詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

夢のように人工的な部屋

2016年09月28日 | 
動かなければ音はない
ぽたん
動かなければ波もたたない
親和力の和
ほわり

ここから腕、腹、足が見える
頭部は見えないから
これがじぶんだと思っている
これがじぶんの記憶だと

からだは半分と半分で分けられている
透明なのにそこにあるとわかっている
水と空気に

透明なのにそこにあるとわかっている
無数の同じ光景は
もしかしたらただ
同じことをしてきたはずだという
思い込みによるのかもしれない
指をつかって
ゆっくり数を数える
百まで

ときどき
どこまでしたのかわからなくなる

あれ、シャンプーしたかな
あれ、いまコンディショナー
流したところだったかな
機械的に手を動かしていれば
迷子になることはなかった
ふと
ふと我に返ってしまったので
わからなくなってしまいました
白くツルリとした四面には
思い出すためのとっかかりがまるでない

見上げても天井で行きどまり
その向こうにひろがるはずの夜空は見えない
壁の向こうにひろがるはずの
爆撃で残骸だらけの街のニュースも
血みどろの親族争いのニュースも
この少しぼんやりと黄色がかった
砂ぼこり舞う砂漠の箱庭のような
この小さな部屋には響いてこない

動かなければ音はない
ぽたん
動かなければ波もたたない
親和力の和
ほわり

果てしのなさに汗をたらして
ざらつく砂ぼこりの間から
太陽を見遣るように
腕を持ちあげて黄色い電球を見る
あたりに舞っているものが
じっとりまといつく肌の
妖しい艶がかけのぼっていく

もう、首まで浸かってしまって
呼吸、こぼれる
出来事、かすむ
静寂、はじけている

蛇口をひねりつめたい水を
じゃぶじゃぶ飲んだ
とてもどうもうなけものになって
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詩を書くのは

2016年09月24日 | 
詩を書くのは時でしょうか
見つめ続けるまなざしが
腐葉土のようにあたりを柔らかくするので

道には無数のひとの
無数の足跡が残っていること
無数の風の傷跡が残っていること
知っています
指でなぞることさえできるようです

思いの跡は残っているでしょうか
わたしという道に
向きを変え
高さを変え
色を束ねて
吹き過ぎていった思いの跡は

沈黙には耐えられず
きっと何か言ってしまいます
無造作に
投げ出すように
拭き消していくように
きっと間違えるでしょう
それでも何かが残ることを
きっと願ってしまうのでしょう

畳の海に頬杖ついて
かかとで何度も
空想を描いては消した午後も
きっとどこかに残っているのでしょう
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ぼんやりでいいこと

2016年09月18日 | 雑記
ひとり暮らしの頃、よく泣いてた。
家で、めそめそ。
隣の区に両親も兄も住んでいたし。
いま思うと笑ってしまうけど。
でもいまもひとり暮らしをしたら、やっぱりめそめそしてしまいそう。

わたしはへなちょこなんかじゃない。
このさみしさは本物なんだ!とか思って。

そして、だれかといても、さみしいはさみしい。親密になればなるほど深くなるさみしさだってある。

ひとり暮らしの頃、さみしかったけど、とても濃密な時間を過ごしていた気がする。何もなくて退屈することも、底が見えないほど深い気がして恐ろしく、その分いろんなものに、感情移入する。ひとつひとつが重い。光や影、音さえも。

自分が溶け出して世界に浸り、世界が溶け出して自分に入り込む感じ。世界とは何か?自分の外に広がっているもの。でも、どこまでも自分のような気もする。

みんなで同じ世界を共有しているはずなのだけど、ひとりひとりが違う世界を生きている。分岐のない、最初から平行、それとも並行?しているパラレルワールドのような。それはそうなのだけど、たまに、何かの具合で交わっているような気持ちになれることがある。浸透しあっている。水色の円と、緑色の円の一部が重なるような感じで。水とは異なり、重なっても、混ざってしまうわけではなくて、またふいっと離れる。そしてまた何かの拍子に重なる。溶ける。

いまそうなっている、と思うのは、一方的な幻想なのかもしれないけれど。でもそういう可能性をとても自然なことのように感じられたら、曇り空の世界を風のように生きていけそうな気がする。もしくは、部屋の中で雨音を聞いているように。

建物の形や草花や空が、可能性の円の縁をほぐしてゆるやかにしてくれる、とずっと夢見て生きられるなら。

夫とケーキを食べに行って、土砂降りの雨をコーヒーを飲みながらじっと待った。ようやく落ち着いたので外に出たら、また雨が激しくなって、少し離れていた駐車場まで走った。車に飛び乗って、急いでドアを閉めた。雨がわたしたちを濡らさずに、窓を伝い流れる。街が滲んで、浸透を容易にしてくれる。









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柔らかい

2016年09月16日 | 
この雨の音が森の中なら、と思ってみる。柔らかい腐葉土を踏んでいる。ひんやりとした空気が、木々を含んだ空気が奥行になる。手のひらは濡れた木の皮。花は落ちていく匂い。

人のいないところでは、自分から発する声は柔らかい反響となって戻ってくるのみ。だから、とても親しい。

雨の音は、叩いたものの高さや、手ざわりを伝える。森の中では。 立体的な地図を広げるように。 練習不足の木の子たちが、好き勝手に打ち鳴らしているように聴こえる。ぱちぱち。ぱち。音が、ひとつひとつ音の姿をしている。白い靄の中からうっそりと、出てくる。 それを、静けさ、と言うのかもしれない。

森の中ではないから、傘をさしている。傘をさしているから、下を向いている。下を向いているから、道路にできた水たまりとそれをかきみだす斑紋が世界だ。視野いっぱいの。

人のたくさんいるところで発する声は、あちこちの目には見えない固いところにぶつかって、ギザギザになって返ってきたりするから、自分がとても歪んで見えたりする。それに焦ってジタバタすると反射はもっとコンランして色が散乱する。

長く時を過ごすと同じひとの肌はなめらかになって、すべすべに削った木製の器のよう。 声も言葉も思いもつるんとまるくなる。何を発しても角が取れて、まるでうろの中。たくさん栗を拾って蓄える。冬に備えて。深い、雪の、白さ。それから逃れるために、それを利用する。くるまるように。
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世にも正確なぐるぐる

2016年09月12日 | 雑記
ぐるぐるは私の得意分野ですが、こんなに正確なぐるぐるが自然の中にはあるのですね。
電話じゃないよ。
バネじゃないよ。

いや、バネか……。

なんて正確なんだ……。


バネの伸ばしも自由自在。




こんな健気なにょきにょき。






吉本ばななさんが、どこかのコラムで、子どもの頃、頭の中に近所の植物地図ができていた、といったようなことを書いていた。
私はまったくそういうことのない子どもでしたが、いまは少しわかります。あそこにはあの花が咲いていて、あそこにはぐるぐるがかわいいヘチマがある。あそこにはいまチンチロリンという感じのホオズキがある。あそこのあの木の葉っぱは、夜、街灯に照らされてサッポロポテト、バーべQあじ、みたいな影を歩道に落とす。そしてその木がなんの木なのかは覚えていない(影の記憶しかない)、といういいかげんさは昔のまま……。などなど。考えてみるとサッポロポテト、バーべQあじ、みたいになるのは葉っぱのせいじゃなくて、街灯の形のせいかもしれない。そうだ、前にそう思って街灯を見上げたのに、それで実際どうだったのかは覚えてない。そして、また次に同じ場所を通った時に、ここの葉っぱはやっぱり、サッポロポテト、バーべQあじの形だなあ、と思っている、という、やっぱりぐるぐるな私なのでした。

チンチロリン


(人の家の前の小さい野っ原で撮ったので、恥ずかしいのと落ち着かないのとで、こんなざっとした撮り方になった……という言い訳)

ふと、「正確」ってこういう使い方かな?と疑問に思う。ちょっと違いますか?

最近、私カラッポです。書きたいことがあまりない。自分の中でぐるぐるしているからかな。それともしていないからかな。

ちょうど最近はたくさん写真を撮ったので、しばらく写真が続きます。


↑ヘチマじゃなくてゴーヤだった。
ということに布団の中の夢うつつで気が付いた。
そして朝になってみると、サッポロポテト、バーべQあじ、じゃなくて、シェーキーズのポテトかも、という気がしてきた。
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